三木城 三木市 | 山城攻略日記

山城攻略日記

北海道から沖縄まで、日本全国の有名所の城を旅し…
現在は地元・鳥取を中心とした城巡りの日々(^-^)/

三木城(三木市上の丸町・福井)

三木城は、東播磨最大の国衆別所氏の居城で、別所城(加西市河内町)にいた別所則治が築いた城と伝えられている。築かれた時期は、長享二年(1488)、守護赤松政則が美作へ湯治に出かけた際に、播磨の留守居役として別所則治・小寺祐職がそれぞれ東播磨・西播磨の守護代の職についたとみられるので、この前後であろう。三木に城を築いた理由は、平野が美嚢川(加古川の支流)とその支流沿いに開け、湯山街道が東西に、三木街道が南北に走り、交通・産業上の要衝になっているためであろう。なお、三木は明石の北19km、姫路の東31kmの位置にある。
三木別所氏は、三木城を拠点にして近隣の国衆・地侍を家臣団に取り込みつつ、領国一円の支配化を進め、戦国大名近くまで勢力を拡大していったのである。初代則治は、真弓峠の大敗で赤松功労家臣団から見離された赤松政則を助けて家督に復活させ、さらに浦上則宗・明石祐実らと共に山陰の山名氏と戦い、これを播磨から追い出した。その功により、政則から東播磨八郡を与えられ、三木別所氏の基礎をつくった。永正十年(1513)頃に死亡、菩提寺が雲龍寺(三木市福井)である。
別所則定は則治の跡を継ぎ、同十二年に死亡、菩提寺が慈眼寺(三木市久留美)である。三代村治は、浦上村宗などと連携を図ったり、敵対したりしつつ、地歩を固め、次第に守護赤松氏から自立していった。
山陰の尼子晴久が播磨に侵入してきた際には、小寺氏(御着城主)や明石氏(枝吉城主)など大半の国衆は尼子氏に加担したが、村治は尼子氏と対決し、退けている。有馬重則が畿内を制圧した四国の三好長慶の応援を得て村治を攻撃してきた際には、支城網が破られ、負けている。また永禄二年(1559)には東条谷(加東郡東条町・小野市)の依藤氏を攻め滅ぼした。村治は同六年(1563)に死亡、菩提寺が福昌寺(=常厳寺、三木市宿原)である。四代安治は、当初三好三人衆に、のち織田信長の勢力下に入ったらしく、多可郡の一部にまで勢力を伸ばしている。永禄十二年、安治は西播磨にまで攻め込んだが、翌年には逆に浦上宗景に攻め込まれている。この年に安治は三十九才で亡くなった。
五代長治は、播磨の国衙表まで攻め込んだり、野間谷(多可郡八千代町)の在田氏を攻め滅ぼしたりしている。長治は初め織田信長に属して大和に出兵したりしたが、やがて毛利氏と結んで信長に叛し、天正六年(1578)から始まった「三木合戦」で、約二年間の籠城戦に敗れて切腹すると共に、三木城を羽柴秀吉に明け渡している。合戦後の三木城主は、杉原家次-前野長康-中川秀政-□-伊木忠次-伊木忠繁と続き、元和元年(1615)の「一国一城令」によって廃城なった。残された屋敷構も、この二年後に、忠繁が主人である池田光政と共に鳥取へ移ることにより、廃止されたのであろう。城下町については、築城当初からあったらしく、「府内」という地名を残している。
(※兵庫県中世城館・荘園遺跡より)
西の丸
二の丸
三の丸
本丸
天守台
天守台上の三木一族辞世の句
別所長治像
雲龍寺
別所長治と照子婦人の首塚
雲龍寺の東の堀跡

三木城遠望
軌跡ログ