枝吉城 神戸市西区 | 山城攻略日記

山城攻略日記

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枝吉城(神戸市西区枝吉)

明石氏は播磨に勢力をもつ赤松氏の庶子家で、明石川下流域や伊川谷などの荘園管理の任務にあたっていた地頭であった。鎌倉時代中頃の建長七年(1255)に明石尾張守の名が初見し、ついで鎌倉時代末には明石入道長門守の名がみられる。彼らは、後に枝吉城主となった明石氏の前身と考えられている。
15世紀の中頃、明石修理亮は惣領家である赤松家再興に尽力し、応仁元年(1467)に始まった応仁の乱でも摂津などに勇戦した戦士であった。枝吉城はその明石修理亮によって構築されたのであろう。それは永享元年(1429)に建立されたという報恩寺が城の大手にあり、この報恩寺建立と関係するものと思われるからである。その修理亮は、応仁の乱の際、摂津で一戦を交えた大内政弘に敗れ、敗死した。枝吉城に関する直接の戦史等は不明であるが、明石氏の頭領は尚行-則行-長行-祐行-○○-則実と続き、応仁の乱で活躍した則行をはじめ、代々赤松氏や三好氏に属し各地での活躍ぶりが偲ばれる。
最後の頭領則実は、織田信長の三木城攻めに際し、羽柴秀吉に味方して三木別所方の端谷城攻めに参戦し、三木城包囲陣を形成するなど活躍した。廃城の時期は、天正十三年(1585)に則実が豊岡へ移封されたこと、さらに翌十四年に明石川河口付近に船上城が構築されたことと関連していると思われる。
(※兵庫県中世城館・荘園遺跡より)
神本大明神
最高所(主郭?)
枝吉城遠望