土豪の田尻氏を城主と伝える。東条谷南側、谷が狭まった吉田本荘の西端に位置し、北東から南西に伸びる尾根の端に築かれている。標高148m、比高約60m、主要2郭から成る。東側が主郭であり、東の尾根続きが被攻撃面と考えられる。主郭(40m×30m)の周囲に二重の空堀を備えている。内堀は尾根続きの東側が特に深く、南から西に廻り、北側では腰曲輪となる。ここには5本の竪堀があり、下の通路に対して備えている。外堀も東が深く南側に廻っている。主郭の虎口は西の郭(Ⅱ郭)との間にあり、そこからの通路は竪堀の下を通り山麓におりる。これは、往時からのものである。Ⅱ郭(30m×35m)は南西部に虎口を有し、北西に腰曲輪を持つ。南西の堀切を隔てて、もう少し尾根が続くが、全くの自然地形で地表も下がっている。
一方、東方へ尾根づたいに続く通路を800mばかり行くと、「城林城」に連絡する。これも往時からのものである。また、谷向いの北西800mの「岩屋城岩屋城」とは矢合戦をしたとの伝承もある。山上・麓共に小字を「殿垣内」といい、麓には「田尻氏館跡」の伝承地がある。山麓の総持院は、天正年間の三木合戦に別所氏に与して滅んだ城主田尻甲斐守忠行の菩提を弔うために文禄年間に建てられたと伝えられる。
(※兵庫県中世城館・荘園遺跡より)