葛下城 苫田郡鏡野町 | 山城攻略日記

山城攻略日記

北海道から沖縄まで、日本全国の有名所の城を旅し…
現在は地元・鳥取を中心とした城巡りの日々(^-^)/

葛下城(苫田郡鏡野町山城・中谷)

正保書上五十四城の一で、「古城之覚」は苫西郡山城村の「葛下之城」として、城主を「中村大炊助槍沢頼宗」、頼宗の家臣桜井越中の末流が山城村へ今にあるとする。「作陽誌」は、山へは五町半、城主は初め大河原大膳太夫、のち中村大炊介頼宗、事跡不詳で、落城の日、頼宗に仕える浅山図書は城を焼き死んだ、城の西南、東には桜井越中・加藤豊後・木村菅兵衛・浅山図書・一柳平次・茅山将監・田中八右衛門・大蔵如真らの屋敷跡があると記す。「美作鬢鏡」「美作鏡」は城主を「中村大炊助頼宗」とする。天保国絵図に「葛下古城跡」とある。天保九年(1838)の山城村の「高反別村差出明細帳」は、字「葛下り」に古城山があり、城主は中村大炊助、一ノ丸・二ノ丸・三ノ丸・矢倉之段・御蔵屋敷と言い伝える屋敷がありと記す。『日本城郭全集』は「葛下城」とする。
永禄十二年(1569)の二月、閏五月に毛利元就は備中国の侍、原太郎左衛門尉に重ねて「葛下里」「葛下」での在番を慰労している。七月には浦上宗景の反攻にも「葛下里」を堅固に保っていることを賞されているが、八月になると高田在番へと移っている(備中原文書)。
天正七年(1579)十一月、吉川元春は、「作州葛下の城」が毛利方の城となればとして、岩尾山城(津山市吉見)救援に向けた戦略を報じている(「譜録」)。その後まもなくして葛下城を拠点とした中村頼宗の活動が確認されるようになり、同八年九月には桜井越中守を使者に兵粮と玉薬の補給を毛利氏に要請している(福原家文書)。同九年六月の岩屋城の落去を受けて毛利輝元は、頼宗にそれまで居城としていた葛下城から岩屋城への引き移りを命じ、その後城が落去するに至って、頼宗の家臣浅山図書は城に火をかけ自らも死を選んだという(「作陽誌」)。
(※美作国の山城より)
東二十五郭
東二十四郭
東二十三郭
東二十二郭
東二十一郭
東堀切
東堀切からの南竪堀
東二十郭
東十九郭
東十八郭
東十八郭南帯曲輪
東十七郭
東十六郭
東十五郭
東十四郭
東十三郭
東十二郭
東十一郭
東十郭
東九郭
東八郭
東七郭東帯曲輪
東七郭
北東八郭
北東九郭
北東十郭
北東十一郭
北東十二郭
北東堀切
北東堀切からの南竪堀
北東堀切からの北竪堀
北東十三郭
小曲輪の連なる北東十四郭
戻って東六郭
東五郭と東六郭間の堀切
東五郭
東四郭
東三郭
東三郭の西土塁
激しい薮の東堀切
帯曲輪状の東二郭
南東三郭(官兵衛丸)北下段
南東三郭(官兵衛丸)南上段
南東四郭
南東五郭
南東六郭
南東七郭
南東八郭
要害坂出丸曲輪群第一郭
要害坂出丸曲輪群東二郭
東二郭の北土塁
要害坂出丸曲輪群東三郭

南東三郭(官兵衛丸)からの南帯曲輪上段
南帯曲輪下段
主郭
西二郭
南帯曲輪(馬場)
西三郭
西四郭南帯曲輪
西四郭
西四郭の見張台
南竪堀
西四重堀切(最東)
西四重堀切(東)
西四重堀切(西)
西四重堀切(最西)
西四重堀切(最西)からの南竪堀
西四重堀切(最西)からの北竪堀
西五郭(鉄砲丸)
朝山壇曲輪群北東八郭
朝山壇曲輪群北東七郭
朝山壇曲輪群北東六郭
朝山壇曲輪群北七郭
朝山壇と石見丸の間の中曲輪
中曲輪西帯曲輪
石見丸曲輪群南五郭
石見丸曲輪群南四郭
石見丸曲輪群南三郭
石見丸曲輪群南二郭
石見丸曲輪群主郭
石見丸曲輪群東二郭
石見丸曲輪群西二郭

朝山壇曲輪群北東五郭
朝山壇曲輪群北東四郭
朝山壇曲輪群北東三郭
主郭の北土塁
朝山壇曲輪群主郭
朝山壇曲輪群南二郭
朝山壇曲輪群南西二郭

南西端曲輪群南西三郭
南西端曲輪群北東一郭

朝山壇曲輪群南三郭
朝山壇曲輪群南四郭
朝山壇曲輪群南五郭
朝山壇曲輪群南六郭
朝山壇曲輪群南七郭
朝山壇曲輪群南八郭

南五郭
南六郭
南七郭
南八郭
南九郭
南十郭西上段
南十郭東下段
南十一郭
南十二郭
大段
南十三郭
池ノ段

葛下城遠望
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