「古城之覚」は久米北郡和田南村の「鶴田之城」として、城主を併和八朗為長とする。「作陽誌」は「鶴田堡」として、和田南村にあり、山の周り二十町、城主を併和八朗為長といい、一説に元の城名を「鶴鳴」として閑国大夫重実が築城、代々居城したと記す。「美作鬢鏡」と「美作鏡」は城主を「併和八朗」とする。天保国絵図に「併和古城跡」とある。
嘉吉元年(1441)八月、播磨国の赤松勢が「併和右京亮城」を攻撃し、城衆は自ら城に放火し退散、右京亮は城に向かったが辿り着けず、他所にあるという(「建内記」)。あるいはこの城か。天正八年(1580)閏三月、小早川隆景と吉川元春は、宇喜多直家が「併和表」に出勢との情報に栂森城(真庭市上山)に陣替している(「」閥閲録)。
(※美作国の山城より)
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北西十七郭
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