高城 旧御津郡建部町 | 山城攻略日記

山城攻略日記

北海道から沖縄まで、日本全国の有名所の城を旅し…
現在は地元・鳥取を中心とした城巡りの日々(^-^)/

高城(岡山市北区建部町和田南)

正保書上五四城の一で、「古城之覚」は久米北郡角石畝村の「高山之城」として、城主を竹内源十郎とする。「作陽誌」は「高城堡」として、和田南村にあり、周り三十町ばかり、かつて竹内善十郎為能・貴志備前守氏秀らが拠って毛利輝元に属し、のち宇喜多直家が落城させた、塚尾・阿古倍・石休の地に陣所跡があると記す。また籠城にあたっては一族の竹内宗四郎為明や杉山又三郎、同四郎兵衛久正も当城に籠ったとされる。「美作鏡」は城主を竹内善十郎為能とする。天保国絵図に「高城古城跡」とある。なお「小坂家記」(『美作古城史』所収)は、鶴田城(岡山市北区建部町鶴田)の城主併和八郎為長の出城とする。『久米郡誌』に「高城」とある。
天正八年(1580)二月、併和の竹内為能は毛利方に与し、対して毛利氏は援兵を派遣、同年三月には宇喜多勢は三宮城に次いで高城を攻囲んだ。対して毛利勢は河口まで南下、備前勢との合戦に勝利している(「美作諸家感状記」「閥閲録」など)。閏三月以降も攻撃は続き、宇喜多方
平尾弾正忠が戦死しているが、間もなく宇喜多直家自身が併和表へ出勢。同月には宇喜多方の小坂与三郎が籾村(久米南町上・中・下籾)の通路で高城兵を追い散らし、赤木氏を討ち取っている(「美作諸家感状記」)。月末には当城への兵粮搬入について毛利輝元の指示が行われたものの、四月には救援の困難が報じられている(毛利家文書)。ちなみにこの頃、備前国虎倉の城主伊賀久隆は、「鷹ヶ城」攻撃の後詰に出ていたともされる(「虎倉聞書」)。四月十四日には城の尾頸へ宇喜多勢の攻撃があり、同月二十八日にも再び尾頸から攻撃が行われ、秀吉から派遣されていた竹山新免氏の家臣春名三之丞が感状を与えられている(「美作諸家感状」)。このいずれかの攻撃の際か、直家の家臣馬場重助は、主力が「山之尾崎」からの攻撃に対し「谷之請手」を命じられ、攻城時に鉄砲で負傷したという(「馬場十郎右衛門奉公書」など)。七月下旬、直家は神目村(久米南町神目)へ赴き小坂与三郎に命じて高城兵を調略させ、仏教寺を本陣に秋以降、貴志・川島・沼本・神納・高田・小坂氏を大将に三明寺の「寄ヶ乢城ノ」へ籠り交戦、その後「尼子房広入道」と共に貴志氏らが高城を攻撃した結果、竹内為能は討死、城兵は落去したとされる(「小坂家記」など)。
(※美作国の山城より)
北四郭(中の陣)
北西竪堀
北三郭
井戸跡(北)
井戸跡(南)
北三重堀切(北)
北三重堀切(北)からの西竪堀
北三重堀切(中)からの西竪堀
北三重堀切(中)
北三重堀切(中)からの東竪堀
北三重堀切(南)からの西竪堀
北三重堀切(南)
北三重堀切(南)からの東竪堀
北東竪堀
東畝状竪堀群
北東二郭
北東二郭の西土塁
東三郭
東四郭
東四郭の北土塁
東四郭の南土塁
東四郭の東土塁
東五郭
東五郭からの東帯曲輪
主郭
南二郭
南三郭
南四郭
南五郭

高城遠望
軌跡ログ