朝倉向山城(養父市八鹿町八鹿字向山)
天保九年(1838)に高柳村大庄屋が巡見使に提出した覚書に、朝倉村には「城跡三ヶ所御座候」と記されている。ここ向山は江戸時代には朝倉村に所属していたが、明治になって八鹿村に譲り渡された土地である。向山城は朝倉城と何らかの関係があるものと思われる。本城と支城、あるいは朝倉城が先に築かれ、後に向山城に移ったなどである。
向山城の立地は円山川・八木川の合流点を眼下に見下ろす位置にあり、それぞれの川の条件流域を遥かに見渡す事が出来る要衝の地である。合流点方向から登る比較的緩やかな傾斜の尾根には、頂上近くに2本の堀切がある。また表側中腹に迫り出した尾根上にも削平地があり、かなりの規模である。城史を語る史料は全く存在していないが、戦国動乱期に活躍した武将の居城であった事は明らかである。
その1人に田公弾正入道正恵がある。応永八年(1401)に足利義満によって朝倉荘地頭に任じられている。応仁(1467~1468)頃には朝倉豊後守の名が『但馬一覧集』に、また戦国期末には朝倉大炊の名が見える。共に向山城を居城にした武将と思われる。
(※兵庫県中世城館調査報告より)
縄張りは朝倉向山城概略参照
北東最下段の曲輪は忠魂碑が建ち、整地されている
その背後には空堀I
その南には、土塁に囲まれた巨大な溜池のような地形I
北東十六郭
北側には天然の谷を利用したと思われる、幅広いが浅い竪堀I
北東尾根には十八郭から始まり、二郭までの曲輪が連なる
そして、主郭間近な尾根上には二重堀切
二重堀切(北東)I
二重堀切(南西)I
奥に櫓台のある主郭
西二郭~西七郭
南二郭
南二郭から登って出丸のような南三郭
朝倉向山城遠望
軌跡ログ
旧養父郡八鹿町の城