朝倉城 養父市八鹿町 | 山城攻略日記

山城攻略日記

北海道から沖縄まで、日本全国の有名所の城を旅し…
現在は地元・鳥取を中心とした城巡りの日々(^-^)/

朝倉城(養父市八鹿町朝倉)富士山
この城は越前朝倉氏発祥の地であるひらめき電球

朝倉氏は元弘三年(1333)四月、六波羅攻めの際、城主広景が足利尊氏の武将 足利武衛高経(斯波高経に属して戦った。後に広景は越前の黒丸城に去って以来、残る一門が朝倉城に拠っていたと思われるが確かな記録がない。延元元年(1336)正月、尊氏が官軍に背いて挙兵した時、長九郎左衛門とともに尊氏の軍に投じた朝倉孫太郎重方(日下部氏)は広景の父孫太郎宗景と同一人物か、或いは一族の者と考えられる。その年の七月重方は尊氏に勲功の申文を提出しら翌延元二年にはまた尊氏が重方二南軍討伐を命じている。
降って応仁元年(1467)、戦乱が起こった当初、山名持豊(宗全)が但馬の諸将に、京都へ上がって西軍に馳せ参ジル用催促したが、いち早く駆けつけた但馬家臣郡の中に「朝倉豊後守」の名がある。そして大乱が終結した文明の中ごろ、但馬に落ち着いた諸城主の中に「朝倉大炊(養父郡朝倉)」(但馬一覧集)がいる。これによって、広景が越前に去った後も、朝倉城には朝倉氏の一門がおり、南北朝動乱期以来活躍し、応仁・文明の大乱には山名の家臣として西軍に属していたことが知られる。ただ、「豊後守」と「大炊」の関係については不明である。しかし天正の秀吉但馬征伐には朝倉氏の名は出てこない。
(※八鹿町誌より)

源頼朝の御家人となった朝倉高清を初代とし、一族から八木氏、宿南氏、奈佐氏などが出ているひらめき電球
縄張りについては朝倉城概略図を参照ひらめき電球

登城口の手前には「朝倉宝筺印塔」I

整備された山道を登ると中央に櫓台のある主郭ニコニコ

主郭の南の虎口アップ

西には土塁ビックリマーク

北東へ二段の曲輪を経て堀切合格

北西は一段の曲輪の先に堀切合格

北西堀切の先には、さらに三段の曲輪が見られたひらめき電球

南には幅の広い堀切合格

削平の甘い曲輪段を登ると南曲輪群の主郭ニコニコ

さらに南へ堀切合格

堀切の先には南に土塁のある曲輪ビックリマーク

その南に明瞭な堀切合格


朝倉城遠望カメラ

軌跡ログあし



旧養父郡八鹿町の城