標高120m・比高5mの亀山城(倉吉市関金町関金宿)
矢遺郷金屋村にあり。当城には外木久右衛門在住す。亀山、元は山王権現の社地なりしを、無双の要害なりとて、社を外へ移し、城を築いて居住せり。然るに幾程もなく尼子の為に落城亡命して跡を断ちければ、全く社地を穢せし神罰ならんと人民沙汰す。其後神の教有りて、城跡を清め、元の如く山王の社を建て今に権現の宮殿あり。城を築く時、社を移せし処を取越と云う。社を別所へとりこせし地なるに依って爾称し来るとかや。亀山を今後亀山と云う。是は作州往来の径道を作る時、亀山の頭を平すに依り、亀頭滅して後残ると云う意にて後亀山と改称するとなり。近邑に湯関と云う処あり。此処に八幡の小祠あり。山名小太郎を祝する社なりと称す。当所に温泉あり。並にエグ芋あり。委九郡郷の部に誌す。
(※伯耆民談記)
『伯耆民談記』の亀山城の条に「矢送郷金屋村にあり」と記述しているが、金屋村は金谷村のことで現在の大字関金宿のうち矢送川左岸の村落である。
元は「山王権現の社地なりしを」の条、元日吉山王権現といっていた今の日吉神社のことであるが、その社地が無双の要害地であるために社を別の所に移転し、その跡に城を築き居城とした。ところが間もなく尼子氏に攻められ落城した。その後その城址を元の通り日吉山王権現の社地とした。現在の日吉神社の境内がそれであり、神社の本殿の西側がその城址の中心とみられている。
文中、社の移せし処を取越という、とみえるのは「字・鳥越」とことであろう。ここにも一つの挿話がある。
城郭が亀の形に似て、小高い丘の上にあるため亀山の城といった。敵が攻めてくると亀の山は城をのせたまま浮き上がり、兵糧攻めにもびくともしない無双の要害の地であった。しかしそれは元々日吉山王権現の社地であったからである。社を字・鳥越に移してから間もなく落城したのは、社地を血で穢した神罰であると村里の者が噂するようになったので、城跡を清めて元のように日吉山王の社を建てた、と。
日吉山王権現由来書(天明六年-1786)によれば、社地の近くに「馬場四拾間・御手洗川有り」とみえることは、城郭が存在したことから、「乗馬の訓練」わ行う馬場があったことを推測させる。
この条の末尾に「近邑に湯関と云う処あり、此処に八幡の小社あり。山名小太郎を祀する社なりと称す。」とみえるが、この八幡宮は、王子大明神の末社として建立されていた社のことを指している。
天明六年の「神社由来書」に、「社地・東西六間南北四間-古城の山峯に有り。村より百弐拾間東方。」とあることから、町道本町線・町道湯谷線の分岐点の東方百弐拾町(約218m)、古城のあった山峰に、王子の社の末社「八幡宮」のことをいったものである。
(※関金町誌より)
山麓にある法願寺
法願寺の東の日吉神社
社殿の背後から登ると、小さな削平地が…
頂部は広い主郭
亀山城遠望
旧東伯郡関金町の城