草幾山城 旧東伯郡関金町 | 山城攻略日記

山城攻略日記

北海道から沖縄まで、日本全国の有名所の城を旅し…
現在は地元・鳥取を中心とした城巡りの日々(^-^)/

標高160m・比高10mの草幾山城(倉吉市関金町泰久寺)は、「草幾ノ城」とも呼ばれる富士山

南ノ郷泰久寺にあり。当城には三浦景元居住す。天正の頃、南条伯耆守が為に滅亡し畢んぬ。当邑に続きたる大鳥居と云う村に、藤井治兵衛と号する百姓あり。遥か先祖景元籠城の時、糧米を続け志浅からざるにより、景元より太刀一腰を遣わす。其刀今に治兵衛所持すとかや。落城の節、籠城の女童、足弱の族藤井が宅へ暫く滞居して、其後方々へ退散すと云へり。近邑に今西と云う山里あり。此里に城跡2ヶ所あり。景元要害の砦なりと称す。
(※伯耆民談記より)

『伯耆民談記』にみえる「泰久寺村の草幾山城」は、一般的に今の要害山の山頂にあったと伝えているが、大字泰久寺の村中の字屋敷通りの辺りに存在していたとの説もある。山頂に城を構えたらしい有力な豪族の名も伝わらず、周辺の地勢から類推した説であろうが、それが草幾山ノ城といっていたかどうかは別として泰久寺村に城郭らしきものがあったとの説は古老の伝えるところである。
それにみられる痕跡もあまり見当たらないが、泰久寺村の五社大明神の社地が村の規模からあまりにも膨大とみられる事から、この地域に豪族が居住し、その周辺に土着の武士も住み、その屋敷構えが「城」とみられ、泰久寺村に城あり、との説が残されたとも考えられる。
もっとも草幾山ノ城といわれている要害山の南山麓は、大字泰久寺の区域である。そのため泰久寺に城あり、と書き誌されたのではないか。
古書・旧記に草幾山の城は、三浦景元が居城で、天正の頃(1573~1591)、南条伯耆守(羽衣石城)に攻められ滅亡したとしか、『伯耆民談記』には書かれていない。泰久寺村に近い大鳥居村に藤井治兵衛という百姓がいるが、その者の先祖が草幾山城籠城の時、兵糧米を差し出し、その功によって三浦景元から太刀を一振もらったその子孫・治兵衛はそれを現在も持っている。(『伯耆民談記』は百数十年後の記述)
草幾山城が落城の時、城中にいた女、子供、歩行困難な者など、この藤井の家に暫く滞在させて、やがて方々に退散していった。と記述しているが、この大鳥居村の藤井家は、寛永十年(1633)の頃から「藤井」を称え、大鳥居村の生え抜きと称し、系譜によると藤井重郎右衛門を祖とし、同名治兵衛ついで弥右衛門、その子孫は大鳥居の新田に居住している。
(※関金町誌より)

城跡の中には神社や民家が…


北側には空堀のように線路が…

…と思ったら、ガードレールに突き当たる廃線だったあせる


草幾山城遠望カメラ



旧東伯郡関金町の城