北奥のドライバー -6ページ目

北奥のドライバー

思いついた事をつらつらと書いて行こうと思います。

今から十数年も前、秋の小雨がシトシトと降るある夜の事です。盛岡の大通付近である40代くらいの男性客を乗せました。色々な世間話をしながら走っていた時にどんな切っ掛けか忘れましたが、彼はある思い出話を始めたのです。

 

彼は昔、運送関係の仕事をしていたようで、ある得意先には若く見目麗しい奥方がいたのだとか。立派な住居に住まい、生まれたばかりの可愛らしい赤ちゃん、高価な調度品の数々に囲まれた生活で、夫婦そろって高学歴に高収入といったパワーエリートの夫婦と言える家族だったのだとか。

 

しかし、家事や育児に理解が無く、また存外に封建的な価値観の姑や夫の言動に傷つき振り回され、家の中に引き籠った孤独な毎日を過ごしていたようで、これはこれで気の毒な方だったのだとか。先の男性客が言うには「何時心の病にかかっても不思議ではない雰囲気であった」と言います。

 

そしてもう一つ別のお得意先には手取り10万チョットであくせく働くパートのオバチャンがいたのだとか。そのオバチャンは兎にも角にも性格がキツイ人で、彼が言うには「何時も俺を迎えるのはその人で、会社の事務所に物を運ぶのがとても苦痛だった」と言っておりました。

 

しかし、その男性客曰く「彼女がキツイ性格だったのには理由が有った」のだとか。軽い障害持ち(どんな障碍かは聞き損ねた)の精神的にも不安定な、そしていい年をしても就職が出来ない子供を抱え、また旦那さんの甲斐性が全然無いので、彼女が必死に働いて生活を支えていたのだとか。

 

しかしそんなある日、彼が恐る恐る配達物を届けに行くと、打って変わってそのオバチャンは仏様のような笑顔で彼を迎え入れてビックリさせられたのだとか。何でもその職場よりも好条件で肉体的、精神的な負担の少ない職場が見つかり、そちらに再就職する事に決めたのだとか。

 

彼女は「今まで酷い態度で接してゴメンナサイね」と深々と頭を下げ、いつもは入れてくれないお茶を出すと、「これ、お詫びの印。皆には内緒ね」と言うと、ドッサリとお菓子の入った袋を手渡してきたのだとか。そして、その時の会話の中で彼女が抱える家庭の様々な困難の話を聞く事となったのだそうです。人生がとても苦しくてキツい性格にならざるを得なかった部分が大きかったという事でしょう。

 

そして彼は「こんな事を公に喋ると批判されるのかもしれないけれど、実際に世間からの同情が集まるのって、どちらかというと前者の小奇麗な奥様の方じゃないかな。そしてややもすれば、そういった非常に偏りがかかった情緒的な尺度で社会的弱者の救済とか何やらが語られるって所もあるのではないか。本当はどちらも弱者な筈なんだけどね」と仰っておりました。

 

そして彼は降りる際に「そもそも、‟弱者”ってどこの誰を指す言葉なんだろうね?」と言い残し、薄暗く小雨の降る郊外の住宅地の中に消え去って行きました。そう、確かに、何処の誰なんでしょうね。

 

 

 

彼との共同生活が半年ばかりに至ったある日の事、遅番の仕事を終えて寮に戻ると田村が酷く落ち込んだ様子で首をうなだれておりました。実はそれを見た瞬間、おおよそ何が起こったのか想像がつきましたが、私は何も言わずに荷物を部屋に置くと、そのまま雑誌を読み始めました。こちらが黙っていても、いずれ沈黙に耐えきれず彼が話しかけて来る事が容易に分かっていたからです。

 

……「アイツから一方的に別れ話を切り出された」

 

程無くして彼の口から例のモゴモゴとした口調で事の次第が語られ始めました。

 

(そらきた、やはりか。)

 

私はなかば呆れつつも、彼の話に耳を傾ける事にいたしました。

 

さて、先ずはこの田村という青年と彼女との関係性について少々解説したいと思います。この女の子は母子家庭の侘しい環境の中で育った人だったようなのですが、写真で見た限りスラリとした雰囲気の身体、先天的なものなのか染めてもいない筈なのに髪の毛は少し栗色がかっていて、アイドル歌手やルックス重視型の若手女優もかくやという程に整った顔立ちをした、まあ「美少女」と言うに相応しい女の子でありました。

 

彼女は母子家庭だからという理由なのか、それともあの栗色の髪のせいか、或いはその整い過ぎた顔立ちのせいか、周囲の女の子たちから酷いイジメにあい続けていたのだといいます。そしてその美貌から多くの不良の男子生徒たちからは鼻息荒く「俺が‟最初の男”になるんだ」とばかりに付け回され言い寄られ続ける。そんな聞くだに息が詰まりそうな学生生活を送っていたのだとか。

 

 

田村曰く「コイツは何時も周りの女子から虐められて除け者にされていたし、周りのヤンキーからしつこく付け狙われていたけど、俺がヤンキーどもを喧嘩で黙らせて手に入れたんだ」と酒が入る度に鼻息荒く武勇伝仕立の思い出話を語り、私は半分呆れながらもその話に良く付き合わされたものです。

 

聞けば別れ話の切っ掛けは実に呆気なく馬鹿馬鹿しいものでした。田村が酒に酔った勢いで、彼女を上から目線でイジり揶揄(からかう)ような事を散々言って電話口で泣かせたのです。そこで「もう沢山だ」となって一方的に電話を切られたらしい。彼はどうも、こういうタチの悪い、わざと相手の神経に引っかかるような言い回しで小馬鹿にしてみたり、上から目線の説教話をして、敢えて不快な方法で人の愛情や友情を確認しようとする部分がありましたし、これに関しては私も一度ですが苦言を呈した事がありました。まあ当然と言うか、彼は私の諫言なんぞには聞く耳を持ちませんでしたけど。

 

また田村という男は当時まだまだ若すぎたから、という部分もあるでしょうが、格下と見做した人間に対して(男女問わず)、その意見や自主性を許さぬところがありましたし、下手に異論をはさむと丸太のように太い腕で、床や壁を「ドン」と叩いてドスの効いた声で威し黙らせようとする癖がありました。話を色々聞いてきた印象からですが、恐らく彼は彼女の事もそのようにして付き従わせてきた側面が多分にあったものだと思われます。

 

そういえば、別れ話が切り出される少し前の事です。田村は私に「アイツ、在学中に俺の子を腹に宿してコッソリ中絶したんだけれど、あの頃を境にして、徐々に目つきも悪くなって随分と口汚い女になっちまった。どうすればいいと思う?」と不安そうに聞いてきた事がありました。今思い返してみればですが、実は彼も何処かで『遠からず訪れるであろう別れの予感』を潜在意識レベルで察知していて、そこから言い知れぬような不安を感じ取っていたのだと思われます。考えようによっては、これは訪れるべくして訪れた「必然の別れ」だったのかもしれません。

 

……地方の侘しい家庭環境に生れ落ち、周りからはイジメにあい、恐らく苦しくても相談が出来る友達もおらず、しかも毎日のように暴力的な不良男たちからスケベな目つきで付き纏われ、遂には未成年にして流されるままに朴訥で何処か温かみのある、しかしどうしようもない「粗野でやりきれない男」の情婦同然の存在となっていった。そして遂には妊娠と中絶を経験するに至る。かつて綺麗な瞳をもった学校一の美少女は、生まれ落ちた環境の悪さから、否応なしに「目つきの悪く口汚い、田舎の不良女」にならざるを得なかった。……そういう事だったのではないでしょうか。

 

しかし、そんな彼女にとって、この青森県と田村のいる栃木県との間にまたがる数百キロの距離が、結果的に彼女の心にかけられた「洗脳と束縛の魔法」を解いてくれる福音となったのではないでしょうか。脅すような声を出して女性を物のように扱い、強引に付き従わせようとする男は目の前にいない。不本意な状態で無理矢理「はい」と言わせてからしに、ケロリとした顔で周囲に向かって「アイツが快く同意してくれた」なんて事をシレっと言って見せるような、そんな傲慢な男はもう目の前にいなかったのです。心も体も深く傷ついた一人の女性がある意味、この理不尽な束縛から解き放たれるのには良いタイミングだった……とは言えないでしょうか。

 

田村は何度も電話をかけては「別れるのは構わないから、直接俺と合ってケジメをつけさせてくれ」としつこく乞いましたが、彼女は頑としてそれを受け入れませんでした。例の何処かモゴモゴとした、津軽弁を知らない者には、まるで怒っているかのようにも聞こえる語り口ではありましたが、その『津軽弁特有の押しの強い喋り方』という部分を差し引いて考えても、電話で喋る田村の話しぶりは明らかに強い苛立ちを感じさせるものだったし、何よりも相手への労(いたわ)りを感じさせない酷く命令口調なものでありました。

 

正直なところ傍から見るに、とても反省しているようには感じられなかったし、「津軽人は不器用だから」で済ませられるような次元のものとは、とても感じられなかった。何故なら彼は、「彼女の意思を尊重する」と口では言っていたものの、明らかに腹の底では強引に縁りを戻したがっているのが透けて見えていたのです。

 

私はもう呆れ果てて「もう十分だろう、いい加減束縛を解いてやれ」といった意味合いの事を言ったわけですが、彼はまるで聞こうとしなかった。それどころか、煙草の火を数か所に押し付け、酷く火傷をした自らの腕をズイっと私の眼の前に突き出して見せると、「俺はこれだけ自分に鞭打って反省しているのだ。話ばかりでも聞いてくれても良いじゃないか」とドスの効いた声で論難してきます。

 

(いや、だからこういう一方的な自己満足に走った挙句に、相手の意思も尊重せずに結局何でも自分の思い通りにしようとする、そういった身勝手な性格に愛想を突かされたのだろう)

 

こういうセリフが思わず喉まで出かかったものの、流石に「火に油」となりかねませんでしたのでゴクリと言葉を飲み込み私は黙りこくってしまいました。当然というべきか、こんな状態でもし彼女と田村が直接会って『話し合い』なんぞしたら何が起こるのかは火を見るよりも明らかでした。ですから彼女が会おうとしなかったのは非常に賢明な選択といえたのです。

 

さて、そんな事がなんやかんやで一週間ほど続いたでしょうか。いい加減、彼も疲れ果てたようで遂に諦めをつけたようでしたが、彼の落ち込んだ姿は普段のそれよりも一回りも小さく見えて、妙に痛々しく感じられたものです。 

 

「ああ、もしや、これが見栄もプライドも全てを剥ぎ取られた彼の本当の姿なのかもな」と、当時私はそのように感じたのです。そこから2か月ほど経った後、「東京に就職した同郷の先輩の所に身を寄せる事にした」と言い、彼は旅館の仕事を退職して私の元から去って行きました。彼らはいよいよ別の人生を歩む事となっていったのです。深い深い傷跡を残して。

 

……人間は原則的に過ちから学ぶ生き物です。しかしその反面、長く生きた分だけ、そして多くの事を経験した分だけ「自分は成長・成熟に近づいたのだ」と何の保証も確証も無いにも拘らず頑なに信じたがるのも、これまた人の性というものです。これは人間というものが、生きている限り常に実存の不安に苛まれ続ける生き物である事に由来します。

 

特に若い内は『成長』の切っ掛けを手に入れる方法として「ドギツイ冒険」の中に飛び込み、手っ取り早く社会的承認を得る事で不安から逃れようとするものです。それに巻き込まれ、傷つく人の事など露ほども考えずにです。しかし過ちというものは、仮にそれが将来の成功の切っ掛けとなったとしても所詮は過ちでしかありません。転じて正しかった事には決してならず、また実存の不安も消え去る事もありません。寧ろこの業深さに対する自覚と誠実さこそが、辛うじて人を成熟させる切っ掛けとなりうる、といった程度のものでしかないのです。

 

さて、そしてあの時、落ち込む不良男の背中を軽蔑心と憐みが入り混じった眼で眺めていた19歳の冴えない青年は、現在白髪の混ざり始めた中年男になりました。数十年の時間を経て体はすっかり衰えた。しかし私自身の心はどうでしょうか。少しは進歩したのだろうか。しかし私にはいまだに何の確証も持てずにいます。

 

そして、あの田村とその彼女だった女性は今どんな人生を歩んでいるのでしょうか。私は図らずも小さな小さな、しかしとても深い片田舎の少年少女がひき起こした悲劇の間接的な目撃者になってしまった訳ですが、今回のブログを書きながら何度も「自分は『語り部』たるに値する人間であろうか?」と自問もいたしました。しかし、これは私にとって、とても忘れがたい思い出でもあり、また現在に至るも私の心の中で大きな位置を占める印象深い体験でした。

 

そして色々と考えた末に「書いた事の正さ」に拘る事はやめました。敢えてここに書き留めておく事にしましたのは合理的な理由などではなく、私自身が忘れたくなかったからです。「もうそれで良いではないか」という結論に至ってしまいました。

 

遠からぬ未来には忘れ去られるであろう小さな小さな悲しい物語です。「彼ら」も、この私も、そして、この悲しい思い出も、数十年も経てば土塊(つちくれ)へと帰り、語り継ぐ者も無く消滅していく。そんな儚い人生の中に宿った儚い思い出です。せめて私が生きている間だけは忘れぬ様にして生きてゆきたいものだと、そんな風に思っています。

 

 

 

私が高校を卒業したての頃の話です。私は某県の温泉街の中にある比較的新参といえる旅館に人生初の就職を果たしていました。そこはとある田舎の砂利屋が公共事業や都市開発で大儲けし、その余勢を駆るようにして副業的に始めた旅館で、時はバブル景気真っ盛りの頃でした。

 

私は会社の上司や先輩達に挨拶を済ませた後、案内されるままに社員寮だと称されるアパートに案内され、自分が会社からあてがわれた部屋に入ると、何故かそこには私と同い年だという見知らぬ若い男性が部屋にいたのでした。

 

上司は面子が悪そうにして「思いのほか寮への入居者希望者が多くて部屋が一杯になってしまった。今新しい寮を建設中だから、それまで相部屋で辛抱してくれ」と私に言ったのです。正直、寝耳に水で驚きましたが、右も左も分からぬ若者であった私はこういった会社側の大雑把なものの考え方に仄かな不信感を覚えつつも、「はい」と言って従う以外にこれといった術も知りませんでした。

 

その同い年の青年、便宜上、名前を「田村」とでもいたしましょうか。彼は青森県は津軽方面の出身で農家の倅(せがれ)だったそうですが、どちらかといえば学力レベルがあまり高いと言えないような所謂「ヤンキー高校」の出身者でした。

 

パッと見た目は細身でしたが、実際は子供の頃から実家で重たい農作物を運ぶなどの力仕事を散々手伝ってきたからか、殆ど脂肪の付いていない実に隆々たる筋肉質の体の持ち主て、そこそこに力自慢、体力自慢な男でありました。津軽訛りの混じるモゴモゴとした粗野な喋り方で、洗練された会話とは無縁なタイプではありましたが、疲れ知らずで仕事の覚えは早く、また人懐こくジョークもよく口にする男だった為に、社内の人間関係に溶け込むのも早かった。

 

それに比べて色白で体力に恵まれているとは言えず、ヒョロヒョロの身体つきで引っ込み思案な性格、そして自分でも呆れるほどに仕事の飲み込みは遅くドンくさい青年であった私は、仕事だけではなく人間関係もスムーズに熟せているとは到底いえない青年で、田村やその取り巻きの女の子、そして仲居さん達から、よく揶揄われたり嫌味を飛ばされる役回りに甘んじる毎日を過ごしておりました。

 

また、見栄を張りたい若者の事、田村は折に触れては「お前はあれを経験していないだろう、これをした事が無いだろう」と不良学生時代の自慢話とも武勇伝ともつかない長話に突き合わせ、延々と私の世間知らずぶりを揶揄っては嗤う所がありました。彼自身には恐らく悪気はなかったのだと思います。まあ、不良にありがちな『遊びとしての軽いイジリ』といった風なものであったのだと思われます。

 

しかし当時の私は「仕事が終わった時くらい静かな環境で部屋で一人になりたい、プライバシーくらいは確保したい」と考えるタイプの人間でしたし、何かにつけてドスの効いた声であれやこれやと一方的に指図してきたり、延々と上から目線でイジって来られるのがどうにも鬱陶しく、彼との相部屋が正直苦痛で仕方がなかった。

 

そうそう、そして彼には故郷に残してきた彼女がいたのですが、彼はよく私に写真を見せては自慢していたものです。なるほど、色白で非常に整った目鼻立ち。まさに「大層な美少女」と呼ぶにふさわしい女の子でした。そして程無くこの女の子と田村の間に起こった「若さゆえの過ち」を知る事となってゆくのです。

今から20年程も前でしょうか、まだ私がタクシー業界に入ってまだ1ヶ月くらいの新人だった頃の話です。ある初老の男性が道端で手を上げています。車両を止めて乗せた所、ただ一言「〇〇町の俺の家へ」とだけ彼は言ってきたのです。私からすれば初めて乗せたお客でしたので家の場所が分からず、オズオズと家の場所を聞いたところ、私の働いている会社のお得意様との事でした。喋り方も態度も堂々としている感じで、家の前に着くと「ここが私の家だから、もう覚えただろう?ちょくちょくアンタの会社にお願いしているから、これからも宜しくたのむよ」と言うと、そのまま立派な造りの家の中に消えて行きました。

 

あとからベテランの同僚に聞くと「ああ、彼はある会社の偉い役員さんで、その業界では、それなりに音に聞こえた実績を残した人らしい。確か、たまに大学でも講義していたっけかな?まあ、夫婦そろって少々気位が高い感じで、パッと見はとっつきにくい雰囲気だが、普通に接している限り面倒な事態にはならんよ」と言われたものでした。それから無線配車等で一年に平均10回づつくらいは乗せる事になったでしょうか。他の同僚たちが乗せた分も合わせれば、確かに利用頻度の高いお客様だったと言えそうです。

 

しかし、良い時期は何時までも続かないものです。それから15年ほど経ったある日の事です。暫くパタリと注文が来なくなっていたそのお客様から久々に注文を頂き乗せたところ、私は印象の変わりように驚きました。どこか元気がなく声も細くなり、堂々とした雰囲気は消え、彼が一回りも二回りも小さくなったかのように感じられたのです。何でも奥様が重い病気で倒れ、看病に明け暮れていたのだとか。また、ここに詳しくは書けませんが、色々なゴタゴタに巻き込まれ、以前の様な富も権力も失われていたようです。

 

彼は奥さんが入っている病院にタクシーでよく通っていました。その間は無言で何も喋りません。以前は乗る度に、実に色々な話をする人でしたが、その頃はもう見る影もありませんでした。そしてそこから1年程で奥様も亡くなり、彼も程無くある老人ホームに入所する事となります。しかし、その後も自宅から荷物を取り寄せるためにタクシーを利用する事が断続的にあり、私も何回かお乗せしました。

 

久しぶりにその男性の『お屋敷』に行くと、奥から「おーい運転手さん、これも一緒に運んでおくれよ」という声がします。門をくぐり中に入ると幾つもの段ボール箱にギッシリと詰められた小難しい雰囲気の本がたくさんありました。文学書でしょうか、それとも学術書の類いでしょうか。「一回の引っ越し作業だけではこういった物まで全部運びきれなくてね、なにせトシだし重くて自力で運べなくてさ。運転手さん、これをお願いするよ」と、彼はか細い声で言いました。中をチラリと覗いてみると、日本語のみならず、英語のもの、そして恐らくロシヤ語で書かれていると思わしき本も有ります。

 

家の中に視線を移動してみると、薄暗い家の中にはまだ運ばれずにいる大量の本やら何かの資料らしき書類、小物やらがあり、掃除する人がいなくなった家の中は雑然としていました。この立派な家と豪奢な家具や諸々の置物。この人物が過去に積み重ねた努力を象徴するトロフィーの様なものだったに違いありません。

 

『彼』が組織の中で出世を重ね社会的栄誉を手に入れたのには、やはりそれなりの背景があったという事でしょう。段ボール箱を運びながら庭を覗いてみると、そっちこっちにクモの巣がはり、色々なガラクタが大量に置かれていました。

 

(ああ、ここはもう”死んだ家”と言える状態なのだな。昔は庭師が綺麗に庭を整え、電気の明かりが煌々と部屋を照らし、多くの人が出入りした事だろう。しかし人生というものは、なんと儚くあっけないものなのだろうか)……そんな思いが脳裏をよぎります。

 

老人ホームにそのお客様を降ろし、ふっと横を見てみると、そこはホームの大きなガラス張りの食堂がありました。無数の老人たちが同じようにズラリと並んで座り、同じような姿勢で同じようにしてモグモグと夕食を食べています。彼もこの中に混じって名も無き一介の老人として余生を過ごす事になるのです。名も無き者として産声を上げ、一時の名誉に浴し、そして「その他大勢の老人」として名も無き者へと回帰し、遂にはこの世から去り、土塊へと戻って行く。

 

彼が妻と社会的名誉を失い絶望した記憶すらも土塊へとなりいずれは消え去る。少々大げさな表現になるかもしれませんが、私はその時、彼を通して『死』というものの絶対性をほんの少しばかりですが垣間見たような気がしたのでした。

元・朝日新聞の記者で籔下彰治朗氏(故人)という方がいらっしゃったそうですが、1995年の二年生記者の研修会にて1959年の伊勢湾台風の思い出話を語り、「皆さんも見たままを一応書けるという意識をお持ちだと思います。しかし、本当にそうなのだろうか。見たままを書くという事はそんなに容易い事なのだろうか」と疑義を呈してみせたのだとか。

 

薮下氏は当時津支局にいて、この犠牲者約5000人を出した超弩級の台風を目の当たりにし毎日取材に奔走したそうです。現地に行くと泥海の中に青色や紫色に変色して膨れ上がった水死体が幾つも漂い腐臭を放っていて、切れ切れ状態に破壊された堤防の上には幾つもの廃材を用いて死体を火葬する煙が立ち昇っていたといいます。

 

彼はひたすらに「人の死体が浮かんでいる、牛や馬の死体が浮かんでいる、水面下に家の土台の跡やら、ガッチャンポンプの影が見える、死体がいたる所で焼かれている」とまさに『見たまま』を記事にし続けたのだそうです。そのあまりの悲惨な光景に薮下氏の眼は涙で曇り、まともに記事が書けなくなるような事もあったのだとか。そんな時でもお構いなしに東京の本社からは「もっともっと記事を」と矢の催促が飛んでくる。とても辛かったに違いありません。

 

そして災害発生から十数日たったある日、東京の社会部で「最も優秀な書き手」などと言われた疋田桂一郎という記者がやってきたのだとか。

 

「もう、災害から2週間もたっているんですよ。どんな取材をなさるのだろうと思って、私たちは見ていた。音に聞く東京社会部の書き手だということで、本当に、かたずをのんで見ていた。我々は毎日、泥水につかって取材してるんです。水にぬらさないよう、頭に無線機を乗せて、原稿用紙を乗せて。ところが、あの人はボートに乗って、ぐるっと被災地を回って来られただけです。と私には見えた。腹が立ちましてね。東京なんていうのは結構なもんだな、と。地方の我々はドブ水につかっているのに、こんな優雅な取材で済ましてしまうのか、なんて思っていました。変なものを書いたら笑ってやろうなんて、思い上がった気持ちでおりました。」

 

ところが後に薮下氏は疋田氏の書いた記事を読んで唸ったのだとか。土地を造成した建設省や農水省も、県などの自治体も、地元を牛耳る大企業も「自然災害だ、これは不可抗力だ」と大宣伝を繰り返し、薮下氏もそういう『力ある者』の言い訳を鵜呑みにした記事を書いていました。しかし疋田氏は「これは天災ではなく人災だ」と喝破する記事を乗せたのです。

 

まずこの水害にあった地域は伊勢湾台風当時、海抜がマイナスの非常に危険な土地であったワケですが、そこに建設された工場設備だけは大幅に嵩(かさ)上げされ、どんな水害にも耐えられる仕掛けになっていたのだそうです。現に工場設備はすぐに復旧し再稼働を始めたのだとか。しかもエリートと言われるような立場の人はそもそも水害に会わない地域に作られた安全な高級住宅地に住まっていたというのです。

 

恐らく危険な地域に住んでいた一般の貧困~中間層の労働者はこの事実を知らなかったと思われます。そういう地域では当然土地代も安くなり、家賃も安くなるでしょうから、経済的に豊かとはいえない人々は否応なしにそういった工場近くの低地に住む事となるのだと思われます。また、水害に会った一般社員や工員の住まう社宅もそういった所に建てられていたのだとか。そして当時若手記者であったであろう薮下氏もこの事実を知らぬまま記事を書き続けてきたのでしょう。

 

水害地域の中で何故かポツリとそこだけ無事だった工場設備、そしてエリート社員達を籔下氏は疋田氏よりも先に見てきていました。しかし、目の前の悲惨な事象に気をとられ、俯瞰して物事を見る冷静さを失っていたのです。

 

……下層民の命を犠牲にしてでも工場設備とエリートの命だけは守るという大企業と自治体、国の本音。そしてそういった『隠された真実』はそのまま放っておくと強大な政治力によって闇に葬りさられる。この巨大な天災の裏に隠された特権階級層の本音・本質を疋田氏はズバリと見抜き、記事に書きあげてみせたのです。

 

「つらくて、つらくて。こんなにつらい抜かれ記事の記憶はありません。ちょうどみなさんと同じ入社2年目、月こそずれていますけれども、同じときです。県庁を担当させてもらって、いっぱしの書き手のつもりで大きな顔をしていて、前線へ飛んで、このざまです。」

 

「どぎつい言葉で申せば、新聞記者の無知と不勉強は犯罪だと思います。私はそれを骨身にしみて教えられました。」

 

目に写ったものを見て通り一遍な説明をするだけなら誰にでも出来る。しかし、その目の前に姿を現したあらゆる事象の背景にあるであろう複雑な因果関係や隠された本質を見抜くのは容易な事ではありません。トレーニングを積んだ新聞記者でさえ本質を見誤る事があるわけですので、ましてや我々のような下手をすれば質の悪い陰謀論に騙されがちな一般人は尚更です。思慮深さと謙虚さは大きな宝といえます。