彼との共同生活が半年ばかりに至ったある日の事、遅番の仕事を終えて寮に戻ると田村が酷く落ち込んだ様子で首をうなだれておりました。実はそれを見た瞬間、おおよそ何が起こったのか想像がつきましたが、私は何も言わずに荷物を部屋に置くと、そのまま雑誌を読み始めました。こちらが黙っていても、いずれ沈黙に耐えきれず彼が話しかけて来る事が容易に分かっていたからです。
……「アイツから一方的に別れ話を切り出された」
程無くして彼の口から例のモゴモゴとした口調で事の次第が語られ始めました。
(そらきた、やはりか。)
私はなかば呆れつつも、彼の話に耳を傾ける事にいたしました。
さて、先ずはこの田村という青年と彼女との関係性について少々解説したいと思います。この女の子は母子家庭の侘しい環境の中で育った人だったようなのですが、写真で見た限りスラリとした雰囲気の身体、先天的なものなのか染めてもいない筈なのに髪の毛は少し栗色がかっていて、アイドル歌手やルックス重視型の若手女優もかくやという程に整った顔立ちをした、まあ「美少女」と言うに相応しい女の子でありました。
彼女は母子家庭だからという理由なのか、それともあの栗色の髪のせいか、或いはその整い過ぎた顔立ちのせいか、周囲の女の子たちから酷いイジメにあい続けていたのだといいます。そしてその美貌から多くの不良の男子生徒たちからは鼻息荒く「俺が‟最初の男”になるんだ」とばかりに付け回され言い寄られ続ける。そんな聞くだに息が詰まりそうな学生生活を送っていたのだとか。
田村曰く「コイツは何時も周りの女子から虐められて除け者にされていたし、周りのヤンキーからしつこく付け狙われていたけど、俺がヤンキーどもを喧嘩で黙らせて手に入れたんだ」と酒が入る度に鼻息荒く武勇伝仕立の思い出話を語り、私は半分呆れながらもその話に良く付き合わされたものです。
聞けば別れ話の切っ掛けは実に呆気なく馬鹿馬鹿しいものでした。田村が酒に酔った勢いで、彼女を上から目線でイジり揶揄(からかう)ような事を散々言って電話口で泣かせたのです。そこで「もう沢山だ」となって一方的に電話を切られたらしい。彼はどうも、こういうタチの悪い、わざと相手の神経に引っかかるような言い回しで小馬鹿にしてみたり、上から目線の説教話をして、敢えて不快な方法で人の愛情や友情を確認しようとする部分がありましたし、これに関しては私も一度ですが苦言を呈した事がありました。まあ当然と言うか、彼は私の諫言なんぞには聞く耳を持ちませんでしたけど。
また田村という男は当時まだまだ若すぎたから、という部分もあるでしょうが、格下と見做した人間に対して(男女問わず)、その意見や自主性を許さぬところがありましたし、下手に異論をはさむと丸太のように太い腕で、床や壁を「ドン」と叩いてドスの効いた声で威し黙らせようとする癖がありました。話を色々聞いてきた印象からですが、恐らく彼は彼女の事もそのようにして付き従わせてきた側面が多分にあったものだと思われます。
そういえば、別れ話が切り出される少し前の事です。田村は私に「アイツ、在学中に俺の子を腹に宿してコッソリ中絶したんだけれど、あの頃を境にして、徐々に目つきも悪くなって随分と口汚い女になっちまった。どうすればいいと思う?」と不安そうに聞いてきた事がありました。今思い返してみればですが、実は彼も何処かで『遠からず訪れるであろう別れの予感』を潜在意識レベルで察知していて、そこから言い知れぬような不安を感じ取っていたのだと思われます。考えようによっては、これは訪れるべくして訪れた「必然の別れ」だったのかもしれません。
……地方の侘しい家庭環境に生れ落ち、周りからはイジメにあい、恐らく苦しくても相談が出来る友達もおらず、しかも毎日のように暴力的な不良男たちからスケベな目つきで付き纏われ、遂には未成年にして流されるままに朴訥で何処か温かみのある、しかしどうしようもない「粗野でやりきれない男」の情婦同然の存在となっていった。そして遂には妊娠と中絶を経験するに至る。かつて綺麗な瞳をもった学校一の美少女は、生まれ落ちた環境の悪さから、否応なしに「目つきの悪く口汚い、田舎の不良女」にならざるを得なかった。……そういう事だったのではないでしょうか。
しかし、そんな彼女にとって、この青森県と田村のいる栃木県との間にまたがる数百キロの距離が、結果的に彼女の心にかけられた「洗脳と束縛の魔法」を解いてくれる福音となったのではないでしょうか。脅すような声を出して女性を物のように扱い、強引に付き従わせようとする男は目の前にいない。不本意な状態で無理矢理「はい」と言わせてからしに、ケロリとした顔で周囲に向かって「アイツが快く同意してくれた」なんて事をシレっと言って見せるような、そんな傲慢な男はもう目の前にいなかったのです。心も体も深く傷ついた一人の女性がある意味、この理不尽な束縛から解き放たれるのには良いタイミングだった……とは言えないでしょうか。
田村は何度も電話をかけては「別れるのは構わないから、直接俺と合ってケジメをつけさせてくれ」としつこく乞いましたが、彼女は頑としてそれを受け入れませんでした。例の何処かモゴモゴとした、津軽弁を知らない者には、まるで怒っているかのようにも聞こえる語り口ではありましたが、その『津軽弁特有の押しの強い喋り方』という部分を差し引いて考えても、電話で喋る田村の話しぶりは明らかに強い苛立ちを感じさせるものだったし、何よりも相手への労(いたわ)りを感じさせない酷く命令口調なものでありました。
正直なところ傍から見るに、とても反省しているようには感じられなかったし、「津軽人は不器用だから」で済ませられるような次元のものとは、とても感じられなかった。何故なら彼は、「彼女の意思を尊重する」と口では言っていたものの、明らかに腹の底では強引に縁りを戻したがっているのが透けて見えていたのです。
私はもう呆れ果てて「もう十分だろう、いい加減束縛を解いてやれ」といった意味合いの事を言ったわけですが、彼はまるで聞こうとしなかった。それどころか、煙草の火を数か所に押し付け、酷く火傷をした自らの腕をズイっと私の眼の前に突き出して見せると、「俺はこれだけ自分に鞭打って反省しているのだ。話ばかりでも聞いてくれても良いじゃないか」とドスの効いた声で論難してきます。
(いや、だからこういう一方的な自己満足に走った挙句に、相手の意思も尊重せずに結局何でも自分の思い通りにしようとする、そういった身勝手な性格に愛想を突かされたのだろう)
こういうセリフが思わず喉まで出かかったものの、流石に「火に油」となりかねませんでしたのでゴクリと言葉を飲み込み私は黙りこくってしまいました。当然というべきか、こんな状態でもし彼女と田村が直接会って『話し合い』なんぞしたら何が起こるのかは火を見るよりも明らかでした。ですから彼女が会おうとしなかったのは非常に賢明な選択といえたのです。
さて、そんな事がなんやかんやで一週間ほど続いたでしょうか。いい加減、彼も疲れ果てたようで遂に諦めをつけたようでしたが、彼の落ち込んだ姿は普段のそれよりも一回りも小さく見えて、妙に痛々しく感じられたものです。
「ああ、もしや、これが見栄もプライドも全てを剥ぎ取られた彼の本当の姿なのかもな」と、当時私はそのように感じたのです。そこから2か月ほど経った後、「東京に就職した同郷の先輩の所に身を寄せる事にした」と言い、彼は旅館の仕事を退職して私の元から去って行きました。彼らはいよいよ別の人生を歩む事となっていったのです。深い深い傷跡を残して。
……人間は原則的に過ちから学ぶ生き物です。しかしその反面、長く生きた分だけ、そして多くの事を経験した分だけ「自分は成長・成熟に近づいたのだ」と何の保証も確証も無いにも拘らず頑なに信じたがるのも、これまた人の性というものです。これは人間というものが、生きている限り常に実存の不安に苛まれ続ける生き物である事に由来します。
特に若い内は『成長』の切っ掛けを手に入れる方法として「ドギツイ冒険」の中に飛び込み、手っ取り早く社会的承認を得る事で不安から逃れようとするものです。それに巻き込まれ、傷つく人の事など露ほども考えずにです。しかし過ちというものは、仮にそれが将来の成功の切っ掛けとなったとしても所詮は過ちでしかありません。転じて正しかった事には決してならず、また実存の不安も消え去る事もありません。寧ろこの業深さに対する自覚と誠実さこそが、辛うじて人を成熟させる切っ掛けとなりうる、といった程度のものでしかないのです。
さて、そしてあの時、落ち込む不良男の背中を軽蔑心と憐みが入り混じった眼で眺めていた19歳の冴えない青年は、現在白髪の混ざり始めた中年男になりました。数十年の時間を経て体はすっかり衰えた。しかし私自身の心はどうでしょうか。少しは進歩したのだろうか。しかし私にはいまだに何の確証も持てずにいます。
そして、あの田村とその彼女だった女性は今どんな人生を歩んでいるのでしょうか。私は図らずも小さな小さな、しかしとても深い片田舎の少年少女がひき起こした悲劇の間接的な目撃者になってしまった訳ですが、今回のブログを書きながら何度も「自分は『語り部』たるに値する人間であろうか?」と自問もいたしました。しかし、これは私にとって、とても忘れがたい思い出でもあり、また現在に至るも私の心の中で大きな位置を占める印象深い体験でした。
そして色々と考えた末に「書いた事の正さ」に拘る事はやめました。敢えてここに書き留めておく事にしましたのは合理的な理由などではなく、私自身が忘れたくなかったからです。「もうそれで良いではないか」という結論に至ってしまいました。
遠からぬ未来には忘れ去られるであろう小さな小さな悲しい物語です。「彼ら」も、この私も、そして、この悲しい思い出も、数十年も経てば土塊(つちくれ)へと帰り、語り継ぐ者も無く消滅していく。そんな儚い人生の中に宿った儚い思い出です。せめて私が生きている間だけは忘れぬ様にして生きてゆきたいものだと、そんな風に思っています。