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北奥のドライバー

思いついた事をつらつらと書いて行こうと思います。

時は1990年代、私はまだ20代。当時、某民放テレビ局と国営テレビ局の番組で、よく似た企画の番組を放送していた記憶があります。端的に申し上げれば「規制に守られ、無駄だらけな日本の農業に異議あり」、「とっとと規制緩和をして、もっと安くて良質な農産物の選択肢を増やすべし」といった内容のものです。90年代というのはこういったテレビ番組の企画が比較的多くなり始めた時代であったように思います。

 

その番組の中で責め立てられるのは、概ね国の敷いた農業政策の中で働く素朴な農業従事者といった風の人達でした。民放番組の中では国の制度になど頼らず自力で成功し、ステータスを確立した芸能人たちが、そして国営放送の中では討論形式の番組の中で、都会の合理主義的価値観の権化のようなサラリーマンのオジサンたちが農業従事者たちを理詰めで「不合理でナンセンスだ」と責め立てる、そんな内容でありました。

 

この両番組を企画したであろうディレクターさんあたりの意図は明白でしょう。一見、フェアな討論のように見せかけていて、実は決して論争に強いとは言えない人種である農業従事者をピエロのようにして吊るし上げ、如何に規制緩和が正しいかという印象を視聴者に刷り込む、そういった『仕掛け』になっている番組だったのです。

 

テレビカメラの前ですっかりギリギリと理詰めで追い込まれ、首をうなだれる農業従事者。それを何処か軽蔑混じりな視線で見下ろすようにして眺める芸能人たち。また、見下したようにニヤニヤとした顔で悦に浸ってみせるサラリーマンのオジサンたち。正直、見ていて吐き気がするような内容でした。今思い返せば、「あの人達って、もしかすれば、あんな風に部下や下請け企業をイジメていたんだろうかな」なんて考えたりして。

 

さてしかし、現在はどうでしょうか。恐らくあんな番組を作れば批判は避けられないのではないでしょうか。というか寧ろ規制緩和によって入って来た外国産の農産品に対する健康被害等への危機感の方が「規制緩和万歳」という意見よりも強い時代へとなってしまっているのではないでしょうか。

 

あの時、あのアンフェアな番組を作ったディレクターやスタッフたち、芸能人やサラリーマンたちは今現在どの様に過ごし、当時の事をどう考えているのでしょうか。いや、もしかすればですが、「そんな過去は存在しなかった」とばかりにシレっと生きているのかもしれません。しかし、これは人間社会の中ではさして珍しい事でもないと私は考えています。

 

昔、評論家の呉智英(くれ ともふさ)氏はとある女性思想家を強く批判した事がありました。彼女は詩人としての顔も持ち合わせた人で、戦時中は40代の立派な成人でした。彼女はこの時代、戦争を煽るようなスローガンを特にお上から強制されるでもなく、自ら進んでバンバン出していた方だったそうですが、戦後は一転して反戦平和の思想家として活躍します。

 

呉氏が彼女の何を批判したかと言うと、自らの過去の思想的転向を一切公言せず総括もせず、下手をすれば戦前から一貫して思想的にブレず反戦、反軍国主義を貫いていたかのように読み手や聞き手をミスリードさせかねない様な生き様に固執していたからです。


戦後に雨後の竹の子の如く大量発生した反戦思想家には有名な者から無名の物まで含めて実はこういった『好ましからざる形で過去を抹消した自称平和主義者』が相当に多かったようです。


……そこら辺にいる名もない一般市民のオバチャンではありません。不特定多数の市民に影響を与える立場である思想家であり詩人でありコラムニストです。だからこそ、ただ一度だけでもよいので、「私は過去にこのような過ちを犯しましたが、現在は反省してこの様に思想的転向を果たしました」と公に宣言すれば済んだ話なのに、彼女はノラリクラリとそれを拒否し続けたまま墓に入りました。

 

彼女は90年代にAERAからのそういった過去を問うインタビューに対して「そんな大昔の事を掘り返したところで何の意味が有るのか」と笑って見せ、飄々と批判をかわして見せたのだとか。この『自らが犯した過ちも振り返る事もできない人間が、よりにもよって他人の過ちを批判する人間として数十年間に及び、延々と禄を食んできた』事に対し呉氏は強烈な批判をしたわけです。

 

さて、話を本筋に戻しましょうか。あの芸能人やサラリーマンたちは現在何処に行ったのでしょうか。まさか過去など素知らぬ顔で「中国産は怖い」などと言って国産品ばかり買い漁って食べていたりしていたのだとすればどうでしょうか、だとすれば実に滑稽です。しかし十分に可能性のある話だとは思いませんか?


仮にそうでなかったとしても、あの時代に規制に守られていても尚、厳しい環境で辛うじて高品質な産品を作っていた農業従事者をゲーム感覚で追い詰める役割の一端を担った過去など無かったかのように過ごしているのではないでしょうか?だからこそです。私はマスコミが頻りに語る「庶民感覚」などというものは信用に値しないものだと思っているのです。戦前の「バスに乗り遅れるな」と大して変わらぬ危ういものだと考えておりますので。


あの女性思想家の亡霊は、この令和の日本の中にも色々な形息づいているのです。概ね『良心的市民』の姿を借りた形で。

 

 

昔々、現・盛岡市山岸にはかつて千手院の阿弥陀堂が存在いたしました(現在、千手院は盛岡市鉈屋町にあります)。この建物の前で野田の牛方である清右ヱ門なる男が一頭の牛を殺さんばかりの勢いで怒鳴り散らし虐めておりました。

 

沿岸部から盛岡まで塩を運んで遠路はるばるやって来たわけですが、もう少しで盛岡の街に着こうかというその矢先、長旅の疲れと喉の渇きに耐えかねた牛が、清右ヱ門の指示も聞かず側にあった中津川へと勝手に入り込み、水をがぶがぶと飲みだしたのだとか。彼は牛にかなりの無理をさせていたのです。

 

牛に背負わせていた塩は悉く川の水を浴びたことで台無しとなってしましました。数日かけてひたすら峠道を歩き続け、ようやく仕事が一区切りつこうかとしていた矢先に清右ヱ門の稼ぎは綺麗サッパリ川の流れの中に消えてしまう事となってしまったのです。

 

しかし牛を只管に厳しく責め続ける清右ヱ門に対し、事の次第を聞かされた千手院の和尚、寓円は

 

「牛の働かせ方を誤り、このような行いをするまでに追い詰めたのは、他ならぬお前自身の責であろう」(大意)

 

と清右ヱ門をたしなめます。

 

結局牛はそのまま苦しみつつ息を引き取ってしまいましたが、後にこれを深く反省した清右ヱ門はその牛の姿に似せた南蛮鉄の像を当時の名工と呼ばれていた藤田善九郎という人物に作って貰い、これを千手院に寄進したという事です。