北奥のドライバー -20ページ目

北奥のドライバー

思いついた事をつらつらと書いて行こうと思います。

ある日、広報に求人広告が載っていました。これは県内、特に震災の被害が甚大な沿岸部での介護関係の仕事のようです。

恐らく業者は県外からやって来たもので、介護の人手不足の解消と、県内の失業問題を解決する為の一挙両得を狙った、県が行う震災関係の補助金付き事業のようです。

仕事はと言いますと、どうも携帯電話にメール等で一々支持が配信され、それに従って「今日はここの町の○○という介護施設で、そこが終われば次にあの町の××という介護施設で」という風に、介護スタッフをデリバリーする仕事なようです。

ある程度の期間、この仕事に従事する事で、ヘルパーの免許(恐らく最低ランクでしょうが)を取得させてくれる、というものです。

実際、ハローワークに行けば、介護関係の仕事の求人は結構あります。とはいえ、多くの場合、必要条件の欄には「最低でもヘルパー3級」或いは「ヘルパー2級が必要」と書かれています。

中途で採用した者にまで、ヘルパーやその他の資格を取らせる余裕は無い、という事でしょう。実際、個人でヘルパー等の免許を取得しようと思うと、かなりお高い金額が必要になります。これで介護関係への就職を断念した人も多いのではないでしょうか。

しかし、震災以降、国からの補助金が盛大に出たために、それを目当てに他の都道府県から色々なベンチャー企業やらNPOなんだか、NGOなんだかが入り込んできていたのは事実で、どうも、この会社もそんな流れに乗ってやってきたものの一つのようでした。

さて、あるビルの中で集団の面接会が開かれるという事で、私はスーツを着込むと会場に向かいました。そこには老若男女、ゆうに100人は超えようかという就職希望者で溢れ返り、しかし、皆緊張した面持ちで、会場内のムンムンした熱気とは裏腹に、周囲にはピーンとした緊張感が張りつめておりました。

責任者と思わしき男性が出てきて、30~40分程一通りの説明を終えると、今度は順番に並ばせられ、受付のオネーサン達たちによる極限まで簡略化した面接(?)と名前、住所、ケータイの、メールアドレスの確認。

蛇足ですが、このオネーサン達、二十歳か二十歳をチョッピリ過ぎたくらいの非常に若い女の子ばかりでありましたが、皆が皆、結構な美人さんでありました。

私を担当した女の子は目鼻立ちが整っているだけでなく、肌の色が透けるように白く、手で触れればさぞかしスベスベ、モチモチしたお肌で心地よかろうな、などと思わせる方で(スケベなヲッサンでゴメンナサイ! 笑)、正直、オジサン受けは良いだろうな、と思わせるタイプ。

若い内だけとはいえ、美人というものはやはり得なものです。おっと、こういう事を書くと、冗談の通じない石頭な向きから「この就職に厳しい時代に必死で仕事を見つけ、働いている若者を侮辱するか!」などとクレームが飛んでくるかもしれませんので、この位にしておきましょうか。(笑)

さて、メールのアドレスを聞かれた際、私はその女性にこのように質問したのです。

「本当にメールアドレスは携帯のものだけで大丈夫なのですか?何故なら、震災が起こってからまだ日も浅く、通信インフラの修復は万全では無いでしょう」

「沿岸部には復興関係者が大量に入り込み、通信インフラのキャパシティーは未だ不安定な地域もあると思われますが」

「勿論、メールだけに限って言えば、情報量はたかが知れていますから、通信の不調という事は滅多に無いとは思われますが、万が一という事もあります。そのバックアップはどうなっているのでしょうか?」

「また、岩手県は四国四県ほどの広さがあり、内陸部の人間が沿岸部に赴く際は、同じ県とはいえ、殆ど地理を知らない他県へ行くような感覚になります。その際、いきなり知らない介護施設にデリバリーの支持を受け、スムーズに到着できなかったときはどうするのか」

受付のオネーサンは少々驚いた風で、
「ば、ば、バックアップですか?はい、そこは心配ありません……」
「もし、ケータイだけで心配ならば、アドレスはPCのものも登録していただいて大丈夫です……」

……チョット悪い事をしたかな、あのオネーサン気を悪くしていなければ良いけど。な~んて思いながら私は会場を後にしました。

そして数日後、郵送で非常に丁寧な文面の『不採用通知』を頂きました。これを見た際、「あれ?合格か否かはメールで知らせるって話をしていなかった?」と思った訳ですが、まあ、メンドクサイ奴だから、後からクレームが来ない様にしておこう、と考えたのかもしれません。

うわはははは!本当にご迷惑をおかけしました。心よりお詫び申し上げます。(笑)













実は、私はタクシーの仕事をする傍ら、コッソリ就職活動を何度か行ってみた事があります。大卒の若者でも就職活動に苦労する昨今、こんな中年のオッサンを中途で雇う会社は滅多にないでしょうが、まあ、ある種の社会勉強を兼ねてやってみた訳です。

もう数年も前の事で時効でしょうから、その内のいくつかの体験を書いてみたいと思います。

ある日、母が私の所にやってくると、ある求人が書かれている地元の広報だったか新聞の折り込みチラシだったかの切り抜きを私に手渡してきたのです。どうも、夜も昼もないタクシー業務に勤しんでいる私の姿を見て、母も心配になったのでしょう。

「工場のような施設なら、歩合給で追いまくられて朝から深夜まで働く事もないだろうし、肉体的にも精神的にもまだマシなのではないのか」というのが母の言い分でした。

切り抜きを見ると、どうも最新の電子機器に使われるデバイス類を製造している工場で、それなりの特許技術も持っている会社のようでした。

とはいえ、油断はできません。何故なら、ブラック労働に関わるニュースを見ていると、それは何もIT業界や運輸業だけではなく、工場労働の報道も世に多くあるからです。

とはいえ、今日日の工場というものがどんなものなのか少し位は知っておきたいという好奇心にも駆られたのも事実であったし、万が一「ホワイトな職場」である可能性も捨てきれないと、ダメ元で面接を受けてみる事にいたしました。

秋も深まり、冷たい雨がシトシトと降り注ぐある日、私はその工場に面接に向かいました。

「お忙しい所、失礼いたします、先日、面接の件でお電話させて頂いた○○と申します……」

事務所の窓口にこのように話しかけると、中から中年の女性が一人応対にやってきましたが、なんというか、伏し目がちにボソボソとした口調で「こちらにどうぞ」とだけ。

事務所の奥に目線を送ると、活気が無くドンヨリとしていて、しかし何処かピリピリとしたような雰囲気が皮膚感覚で伝わってきました。

「……ああ、やはりな……」仕事を求めてきた立場の人間が偉そうに言うのもなんですが、私の第一印象は決して良いものではありませんでした。

会議室に通されて、20分ほど待たされたでしょうか。面接官の管理職の男性が現れます。どこか高圧的で、口ぶりはいちいち慇懃無礼といった風の中年男。

先ず彼に促されて工場内の見学。しかし、その面接官の男性(課長だったか部長だったかは忘れました)が通りかかると、ギクリとした表情を浮かべ、肩をすくめる若者が複数いた事を私は見逃しませんでした。

中に一人、色白でヒョロリとした二十歳前後と見られる青年が所定のペースで部品を作れずモタついているのを見るや面接官殿は「チィ!、あの野郎、相変わらず遅せえな!」と吐き捨てるようなセリフを呟いています。

昔、私は若い頃に精密部品の切削工場でほんの少し働いた事がありますが、そこには世間話に花を咲かせながら部品の仕上げ作業をするオバサンのパートやお爺ちゃん社員がいたものですが、ここには皆無でした。

見渡す限り二十代の若者ばかりで、そこにはカラカラに乾いた、息苦しい効率主義が充満しているだけであったのです。そして彼らの多くは安い時給で働く派遣社員や契約社員ばかりで、正社員と言えるのは恐らく、一部経営陣と、大卒でCADを操る技能を持った数人の者だけだと思われます。

あの分では、非正規の末端労働から正社員に登用される者がごく少数いたとしても、それは概ね何も知らない若者を引き寄せる為の『見せ金』に利用されるのがオチでしょう。

工場の隅には大きな棒グラフが張り付けてあります。そこには『○○技能士』だの『○○成形技師(?)』だのと書かれています。民間資格なのか国家資格なのかは知りませんが、どうも、非正規の若者に身銭を切って資格を取らせ、ほんの少しばかりの時給アップを餌に競争させているようでした。

その事に関して面接官殿は、悪びれるでもなく、後ろめたさを微塵も感じさせぬ素振りで「むしろ自分たちは若者に努力と自己実現の環境を与えてあげている」と言わんばかりの物言いをしていました。

さて、会議室に戻って本格的な面接を始めたはいいですが、まあまあ、一々人の言葉尻を掴んでは、怒気を孕んだ口調で上げ足を取ること取ること。私も笑顔を必死で作りつつも、正直腹の底では「舐めんなよ、この糞オヤジが」と毒づいておりました。

人には血の涙が出るような必死の労働観を暴力的に要求していながら、自分たちは国際競争やらグローバリズムやらといった教義の上に胡坐をかいて、若者を騙してはその労働力を搾取しているわけです。こんな人間どもの言うところの『職業倫理』なんぞ聞くに値しない。

そしてこうも言いたい。世の中には、「貴方の会社で採用してくれるのならば、貴方の靴でも何でも舐めて御覧ににいれます。」といった人間ばかりではないという事。世の中を舐めているのは労働者ではなくて、寧ろあなた方ですよ、と。

数日後に採用の合否が決したら連絡すると言われ、面接は終了。面接が終わった後、しかし私は小一時間考えた末に、その会社の面接係に早速電話をいれました。

私「先ほど面接させて頂いた○○ですが」

面接係「ああ?」

私「先ほどはお忙しい所、わざわざ時間を割いていただきまして、本当にありがとうございました」

面接係「ああ」

私「先ほど、少々考えてみたのですが、やはり、私では貴社の利益に貢献出来るか怪しいのでは、と思いまして、今回、辞退させて頂きたく……」

面接係「はあ?……ああ……それだけ?」

私「ハイ、それだけです」

面接係「ああ、そう」(ガチャン!

電話をかけ終わったあと、妙に清々しい気分でありました。これで良かったんです。(笑)




東京最大手のタクシー会社、国際自動車で賃金の未払いに絡んだ訴訟がありました。

大和自動車交通、日本交通、帝都自動車、国際自動車の各グループ大手四社は、その頭文字をとって『大日本帝国』などと称されることもあり、全国のタクシー経営、運営のお手本として全国的にも非常に強い影響力を持っています。

その一角である国際自動車でなんと、残業代の支払いを訴える裁判が起こったのです。この会社では一日の勤務(21時間拘束)において、売り上げ4万円、走行距離250キロを絶対目標に据えており、どうも、それが果たせない乗務員へのパワハラが常態化していたようです。

また、成績不振の乗務員にたいしては暴力的な退職勧奨(会社を辞める事をすすめる行為)の事例もあったとのこと。

これは、こういった指導をする管理職者(班長と呼ばれる上位の乗務員)は、末端の乗務員の尻を叩いて働かせれば働かせるほど成績が上がり、その順位ごとに班長達に対して、60万、50万、40万、とコッソリとボーナスが支給される仕組みも一因としてあったようです。この報奨金制度は表立って語られない『公然の秘密』といえるもののようです。

また、班長クラスになると、通常のドライバーでは確実に厳しい処分がくだる筈の事故や乗車拒否等のトラブルを起こしても何故か「お咎めなし」となる事例もあったそうで(一部の班長のみが不当に優遇されているのか、或いは大半の班長が優遇されているのかは分かりませんが)、こういった体質も末端乗務員達の不振を増大させる要因の一つとなっていたようです。

よく工事現場などに行くと30~40代くらいの比較的若い管理職が、60歳前後くらいの土方のオジサンたちを酷く怒鳴り散らし、罵倒しながらガツガツと働かせているのを見たことがありますが、もしかすればそれに近い光景だったのかもしれません。

会社に気に入られ重用された事で、天狗になった人間から時に脅され、時に酷く罵倒され、プライドをズタズタに切り刻まれながら、厳しいノルマを課せられて働かされる訳です。さぞかし辛い事でしょう。

さて、この国際自動車の残業代に関してですが、恐らく給与に関しては多少の最低保証はあるようですが、実質それだけでは食っていけず、どの道不利な労働環境に同意して働かざるを得ない仕掛けとなっているものと思われます。

そして、至上命題である一勤務20時間前後の労働時間でコンスタントに4万円の売り上げを上げないと非道いパワハラに会う恐れがある訳ですから、かなりの数の乗務員が残業をしてでも目標の売り上げを上げようとする傾向が強く出てくるものと思われます。

しかし日本中でもっとも市場のスケールが大きいと言われている東京周辺の地域でさえ、比較的客数が多い週末等ならいざしらず、近年は何も無い平日ともなるとコンスタントに4万円の売り上げを上げるのは容易ではないケースも多いそうです。

しかも、残業したからといって貰える給料に残業代をつけてもらえるわけではありません。どんなに長時間働こうが、歩合の分の給与しか貰えない。

例えば、21時間拘束の会社ですから、恐らく1ヶ月あたり、だいたい13日前後の勤務だと思われます。ボーダーラインキッチリの4万円毎日稼いだとして4万×13日で52万円。

で、完全歩合ですと、会社ごとに運転手の取り分のパーセンテージは微妙に違いますが、今回は解りやすく一般的な水揚げの50%が乗務員の取り分という設定で解説いたしましょうか。

毎日運良く時間内に4万円の水揚げを上げれる事が出来て、所定労働時間の範囲内でノルマを達成した乗務員の取り分も総支給26万円。

運悪く客のツキが悪く、残業気味に働いて何とか4万円づつ毎日稼いだ結果、仮に所定の労働時間を大幅に超過するような働き方をしていたとしても貰えるのはやはり26万円のみ。

しかし、本来の所定時間を超過して働いた月の場合、給与明細の中では残業手当て(厳密には、深夜手当やその他の諸手当もですが)がキチンと加算された結果、その総支給額が26万円になっているかのように、わざわざ計算し直されて記載されているワケです。

紙の上では残業代やその他の諸手当を払っているかのように見せかけておいて、実は会社側はビタ一文払っておりません。

因みに本来、乗務員が稼いだ売り上げの大体半分だけを支給するような給与形態の会社の場合、明細書の中でこの様に手の込んだ計算、表記をしてみせる事自体は、まあ良いか悪いかはひとまず脇に置いて、タクシー業界では非常にメジャーといえる手法であり、取り立てて珍しいものではありません。

そんな滅茶苦茶な労働条件です、過去には体調不良に関わらず出社を強要され、動脈瘤破裂で亡くなった方もいたとか。これはある意味、必然的に起こった事だといえます。

それから、本来であればどんな仕事でも認められている筈の有給休暇が存在しないなど、完璧に短期利益主義に取りつかれ、尊法精神が麻痺した状態のようです。

しかも、従来からある社内の労働組合は経営陣のイエスマンばかりで当てにならない事から、15人ばかりの乗務員が新たな組合を立ち上げ、会社に戦いを挑むようになったのが今回の裁判の切っ掛けだったそうです。

因みに一部に「ウチは通常のサラリーマンや工場労働者とは違う特殊な法体系の中にある業態なので有給休暇は存在しません」といった意味の出鱈目を語る会社がありますが、あれ、嘘です。念のため。

最初に15人ばかりで始めた戦いは、現在170以上の人数にまで膨れ上がっているようです。
今年一月に地裁で、夏には高裁で乗務員側が勝訴。会社側は納得がいかないとして、最高裁に上告するそうですが、過去の最高裁の判例などもあり、余程の事が無い限り、これも乗務員側の勝利に終わるのではないでしょうか。

ちなみに乗務員達が要求している未払いの残業代の総額は、三億円に迫る金額となっているそうです。

いうなれば、この裁判は多くのタクシー事業者が脱法労働と労働力のダンピング、そして人材の使い捨を行うばかりで、如何にこれといった経営努力もせずに今日に至ったか、という過去の事実が金額として実にわかりやすい形で可視化された事例とも言えると私は考えています。



 

※9月24日にアップしたはいいですが、例の如く何度も書き足し、書き直しをいたしました。読んでくれた方には本当に申し訳なく思っております。


数日前、少年のイジメ自殺について、保護者を交えた報告会(のようなもの?)があったようです。詳しくは岩手日報あたりに載っていたようですが、私は同紙を購読しておりません。

ただ、職場の同僚が読んでいた同紙の記事をチラリと読んだところ、ある保護者から「こういった苦難にも負けない強い心を持てるような教育が廃れない様にしてほしい」といった意味合いの意見が出てきた、といった内容の記事が載っていました。

恐らく、人権に過剰に配慮するあまり、権利ばかり主張して、打たれ弱い子供が育つのではないか、という懸念から出た意見だと思われます。

どうも、この親御さんは、(誤解を恐れずに言うなら)昔ながらの『怒鳴り声を張り上げながらの軍隊紛い』な教育やクラブ活動がもつ、ある種の教育効果に強い期待を寄せているか、或いは、そこまでいかなくとも、そういった価値観にそれなりの親和性をもった教育観の方ではないか、と思わされました。

ちなみに、「苦難にも負けない強い心を養う事も重要」といった意味合いのセリフは、自殺事件の直後に矢巾教委の親分の口からも飛び出したもので、世間から強い非難を浴びせられたものです。なぜなら、そういった精神論がいじめの隠蔽を行う際の方便として利用されてきたのではないか、という疑念をもつ方が多かったからでしょう。

そして、そのほとぼりも冷めないうちから別の大人の口からこういった意見が出るという事に、私は少なからぬ違和感を感じさせられました。

「……この人たちは空虚な精神主義に拘るばかりで、結局今回の事件に関して、根本的な面において全然反省していないし、教訓も汲み取ろうとしてしていないのではないか……ただ、自分にとって心地の良い昔ながらの価値観を守りたいだけではないのか……」そのように感じられたのです。

失礼ながら、この事件の当事者やその周辺の方々には、この事件が日本全体に与えた波紋の大きさが理解できていない人が存在し、それなりの影響力を今現在も持っているのでは、という懸念を感じたのです。

勿論新聞記事の中での事ですから、記者さんが細かいディテールを省いて無機質かつ単純化・要約した記事を書いた結果、言った本人が意図しているよりも冷たく無責任な印象になってしまった可能性があるという事は、まあ分かります。

とはいえ、今回の事件を理屈だけではなく、その身に染み入るような『身体感覚として理解』していたならば、仮にそういった価値観を持って、それに一定の確信があったとしても、こういった言葉の扱いにおけるデリカシズムが働いて、こういった世間の目が厳しい時期に於いて、「何を言って何を言うべきではないか」といった事に関して、もう少し慎重になっていた筈ではないのか、と私なんぞは思うのです。

そもそも、こういった強靭な精神の根本的な骨格を作り上げる作業は、本来であれば家庭での躾が第一ではないか、と私は考えるのです。ところが、こういった人達は本来の学問のみならず、そういった情操教育すらも学校に半ば丸投げされている現状を(恐らく)無意識の大前提として「強い心」などという観念的な話をしているのではないでしょうか。

勿論、だからといって、「日本の教育は家族ぐるみで協力して生きていた古き良き時代に戻れ」などと乱暴な事を言いたいのではありません。というか、チョット考えれば私のようなアホでも現代においては一部の比較的恵まれた家庭以外では、これが実質的に殆ど不可能に近い事くらい知っています。

以前、このブログで学校総動員のクラブ必修状態の中学校は全国平均で38%余りなのに対して、岩手では99.1%と異常な数値である事を書きました。これは勿論、岩手の教育界の硬直性にも原因がありましょうが、実はクラブ活動のもつ教育効果に強く期待している親御さんが非常に多く、こういった現状の維持に一役も二役もかっている現実があるのではないか、と私は想像しています。

こういった教育効果に対して言えば、確かに否定しきれない部分があるようにも思われます。例えば、私は昭和40年代生まれの人間ですが、私が学生の頃は今以上に理不尽で暴力的な教育が純粋な教育現場やクラブ活動に多く見られましたし、もっと言えば、それ以外にも社会の其処此処に当たり前にありました。

私個人としては、そういった体験によって様々な事を学ぶ事が出来たし、トラウマになった出来事も含めて、これはこれで自分の人生における宝であると思っています。

現在の中学生の親御さんたちも私と大差ない年齢の方が多いでしょうから、自分たち同様、こういった厳しさも伴った体験をさせ鍛えさせてやりたい、という気分は分からないではありません。そういう意味では、今日の教育が昔程に酷くないにしても、こういったマッチョな教育への渇望は今現在も非常に根強いものが有るのだと思います。

そして中には、こういった厳しく、理不尽とも思える教育を乗り切ってきた事を誇りにしている人も多い事でしょう。とはいえ、これは考えようによっては『たまたま自分のすぐ隣の人間が死ななかったという幸運』に恵まれただけの、実に危うい成功体験だったのでは、とも思う事もあるのです。

また、県民の平均所得が低く、親が共働きをしないと家庭を維持できず、我が子に十分な躾を施してやる暇が無い家庭が多いであろう現状、こういった教育環境を好ましいものと捉える向きも多いのではないでしょうか。

しかし、よくよく思い出してみれば、クラスに一人や二人は学校の環境に精神的についてこられず、イジメや悪質な「からかい」の対象になったり、不登校状態になった者がいる筈です。

ただ多くの場合、美しい青春の思い出を純化していく過程の中で記憶の中からストンと切り落とされて削除されているだけなのではないでしょうか。

さて、話が少々逸れますが、これはアレルギーや鬱に関しての議論にも似ているようような気がします。

たまに、上記の病気を論じる際に、「昔はあんな病気はなかった。これは現代人特有の贅沢病だ」といった、いい加減な事を曰う中年や老人に私は何度も会った事があります。

しかし、アレルギーも鬱も実は遥か大昔から存在した病気なのです。ただ、大昔の人々には医学的知識が無かった為に、その存在に気付かぬままに一生を過ごしていただけの事です。

例えば、現在は存在しませんが、信州の一部地方には「おじろく・おばさ」と呼ばれる人々が少なくとも江戸時代の頃から存在したそうです。

その地方では、地域の人口が増えすぎないように、長男、長女以外には結婚する権利が与えられず、次男、次女以下は長子の家庭の召使いのように一生涯使役させられ、男性は「おじろく」女性は「おばさ」と呼ばれたのだといいます。

その苦しく屈辱的な生活から徐々に鬱を患うようになり、最後には重篤化して、無口で無表情になり、緩慢で機械的な動きしかしないロボットのようになっていくそうです。

最後の生き残りといわれた人が、昭和の中頃まではご存命だったそうです。そして、実は表面化していないだけで、こういった人は全国の都市や農村に少なからず存在していた可能性も高いのでは、と私は考えています。

それからアレルギーはどうでしょうか。「昔はアレルギーなど無かった」というのは嘘で、大昔の色々な文献等で「これはアレルギー症状によるショック死であろう」といわれる事例は結構あるようです。

涙や鼻水が止まらず、しかし、生きる為に我慢して働いている内に、体にアレルギー物質がどんどん蓄積して、遂にそれがある段階で体の許容限界に達し、突然パタリと死んでしまう。

ただ、医学が未発達だった時代にはそのショック死の原因が解らずに『原因不明の変死』として片付けられ、その都度に忘れ去られていた、というのが事の真相のようです。

ハッキリと言ってしまえば、人間というものは、これといった戒めも無い状態で放っておくと、幾つもある現実の判断材料の中から、自分の価値観や人生観を肯定してくれる情報『だけ』を無意識に摘まみ食いしてしまう傾向がある生き物だという事です。

また、この国は敗戦後、たったの数十年程で急速に発展した背景がある為に、戦前から戦後の混乱期にかけて、或いは高度成長期前後のまだまだ人権という概念が社会に根付いているとはいえない時代の「人権もヘッタクレもない環境」を生きてきた人達による『社会的・集団的記憶』が色濃く世間一般に共有されている側面があります。

そして、それらはこの平成の世の中にあっても、極めて強力な規範として社会の様々な場面で影響力を持ち続けています。

そしてそういった社会的記憶の中でも『即効性はあるが、感受性の強い子供には深いトラウマの源泉となりかねない、副作用の懸念がある価値観』をベースにした教育がこれといった真摯な考察も無しに横行してきた歴史があるようにも思います。

その中で、これについてこられずに脱落し、一生モノのトラウマを抱えた少数派の子供の事例は殆どの場合、抹殺されて広く検証される事はなく、意図的に成功例だけが抽出されてきた歴史があるのでは。

そして、そんな歴史的蓄積はやがて「皆が自分の権利を放棄して、自らが所属する集団の秩序を支えるべく耐え忍んでいるのに、お前だけ“人権”なんて甘っちょろい価値観を振りかざして楽をするつもりか」といった同調圧力の源泉へとなってゆく。

これは、一見すると、何かを深く考えているようでいて、実は何も考えていない。もっと明け透けに言うならば、「自分が組織の為に苦しんでいるのだから、お前も同じく苦しむべきだ」という、社会性、道徳性の看板を掲げた悪質な利己主義であり、思考停止であると私は考えます。

そして、こういった悪質性に気が付いた者が『真の意味で利他的な動機』に基づいて声を上げたとしても、社会性、協調性という巨大なスローガンのローラーでペシャンコに圧し潰されてしまう。

ただ、少々意地の悪い表現をすれば、将来のブラック企業における忠実な僕を大量生産するのであれば、極めて効果的な教育方法かもしれません。まあ、これはチョット悪ふざけが過ぎたもの言いかもしれませんが。

そしてこれらの価値観は、イジメの隠蔽、あるいはバレた際に開き直って正当化しようという向きの、精神文化を支え、またはそれを守り育てる苗床となっている側面がありはしないか。

結果として、こういった教育観(社会人の場合は職業観)が巷に跋扈し、その成功例ばかりが喧伝される内に、それらの前近代的な価値観が齎す副作用についての想像力は限りなく希薄化してゆきます。

まさにその象徴といえるのが、時と場所をわきまえずに飛び出した冒頭の「強い心を育む教育」といった言葉なのではないのか、そのように思うのです。

前回のいじめ自殺に絡んだ記事で、私が
「いじめが発覚した時点で学校や教育委員会の間で素早く情報共有し、システマチックにシェルター的な環境へ、いじめ被害者を素早く保護する環境を整備するべし」 
「そういった制度を利用し、いじめの“最小化”に積極的に寄与した学校や教師を高く評価するルールを作るべし」
「場合によっては2011年に起こった滋賀県大津市のいじめ自殺事件の様に、警察の様な公権力の介入も是とするべし」

……と書いて見せたのは、そもそも子供の躾や教育を学校に丸投げ状態にせざるをえない家庭が多く、なおかつ、身勝手で無責任な観念論を吹聴する一部教育界関係者や保護者達に子供達が翻弄されないよう、個人的な主観の入り込む余地が無い冷徹な法律によってのみ運用される公的制度を創設し、それに頼るしか今のところ効果的な方法は無いのではないか、と思ったからです。

これは恐らく他県の事例でしょうが、いじめっ子を一時的に学校から引き離し、いじめられっ子を守ろうという提案に対してあるベテラン教師が「それでは加害側の児童の”学ぶ権利”が侵害されるではないか!」と強硬に反対し、結局提案がポシャッた事例があるそうです。

つまり、法的に治外法権的で閉鎖的な学校という空間の中で良識、常識といった抽象的な物差しのみに頼るというのは、つまるところ、こういう『頓珍漢な権力者』に対するブレーキの無い非常に危険な状態になるリスクが常にあるという事です。

ちなみに私が何故こんな記事を書いているのか。それは、「岩手は人権に疎いばかりではなく、こういったイジメの培養土になりかねない危険性がある精神文化が、これといった警戒心も無く、安全装置も設けぬまま野放しになっている県ではないのか」という風評が広がる事を恐れているからです。

これは私なりの愛郷心故です。でなければ、こんな長々しくない、もっとアッサリした記事になっています。

教育関係者だけでなく、周囲の親御さんで自分の価値観に固執した挙げ句にマッチョで前近代的な主張をしている人がいたならば、立ち止まって冷静になって頂きたいものです。

時代は刻々と変わっているのです。過去の成功体験が齎した果実が何時の時代も通用する万能の妙薬だとは限らないのです。これは過去の成功体験は一旦脇に置いて、ゼロベースで考えるべき事案なのです。





滝沢市の篠木(しのぎ)という場所には田村神社があります。坂上田村麻呂が祀られていて、樹齢1000年を超える巨大な杉の木があります。

この神社の前には水量豊富な用水路が流れております。これは戦国武将であり、後にこの土地に帰農した郷士、綾織越前がつくりあげたものだといわれています。

用水路
 

この人物はそもそも16世紀まで遠野周辺を治めていた地方領主、阿曽沼(あそぬま)氏の配下の武将でありましたが、紫波郡の斯波氏とゆるい同盟関係を結んだ末、雫石氏(斯波氏の分家)の客座として活躍します。

さて、ここで綾織氏とは何者か、ざっと説明いたします。綾織氏の子孫であるとされる藤平氏の系図によると、田原藤太秀郷(藤原秀郷?)の後胤から始まり、初代は高衛(読みは〝たかもり〟?)、二代は「阿曽沼孫次郎広郷と改め」、と記されているそうです。さらに広長、広行、広信と記されているそうです。つまりこれに従うならば、綾織越前は綾織氏の五代目ということになるようです。

遠野の地方領主であった阿曽沼氏の親戚筋の家臣であったようで、遠野の綾織村(現・遠野市 綾織町)を賜り、それなりの地位の家柄でありました。

元亀年間(1570~1573年)に起こった『飯岡合戦』に於いて四代目の広行が志和郡の斯波安芸守を援助。遠野の阿曽沼氏も南部氏の勢力伸張を快く思っていなかったのか、斯波氏に綾織広行を派遣し、協力した可能性はあります。どうも、ここで綾織氏は斯波氏の信頼を得たようです。

 

元亀年間に三戸南部氏太守である晴政は軍隊を派遣、斯波氏と交戦しているようですので、恐らくこの時に綾織氏の名が本格的に歴史の中に姿を現したのではないでしょうか。しかし、この戦は最終的に九戸政実の弟である弥五郎(後の中野修理亮)を婿として斯波氏が受け入れる事で休戦状態となります。

この後、天正二(1574)年、久之進(広行)の軍功が認められ、綾織氏の長男である広信が高水寺斯波氏の分家である雫石斯波氏の客座となり、実質的な軍事顧問として働くようになったようです。この時に指揮を取り、雫石城の強化改修工事、問題であった周辺地域における水の便を改善する為の用水路(お城の要害性も考慮にいれたもの)を作るなど、多大な尽力をしました。

しかし天正14(1586)年に雫石城が南部氏に攻め落とされ、天正16(1588)年には宗家の高水寺斯波氏も滅ぼされます。そして12年後の慶長5(1600)年、主家である阿曽沼氏も家臣であった鱒沢(ますざわ)氏の反乱によって実質的に滅んでしまいます。

というか、厳密には阿曽沼の殿様は何度か遠野の覇権を奪還すべく戦を仕掛けますが、ついに取り返すことが出来ませんでした。これは南部氏の策謀が働いていたのでは、という説もまことしやかに囁かれていますが、今回のテーマから外れますので、またの機会にしたいと思います。

さて、斯波氏の滅亡から阿曽沼氏の没落が起こるまでの間、綾織越前はどのように過ごしていたのでしょうか。恐らくですが、滝沢の篠木にある屋敷と遠野をチョクチョク往復しながら、後に越前堰と呼ばれる用水路の掘削に力を注いでいた可能性があります。当時の篠木・大釜・大沢・鵜飼・土淵・平賀の六ヵ村は土質は非常に良かったようですが、水の不足に悩まされる事が多く、その事を知った綾織越前は(伝説によれば、ですが)自らの白馬に跨り水源地を探し回ったようです。

最終的に持籠(もっこ)森から流れ出る白川沢を水源地として、妻の神沢、栓木沢、林の沢、大沢、大堀沢、グンダリ沢等の川を巧みに連結し、黒沢川に合流させ、八里余り(約32キロ超)の長大な用水路を完成させ、上記六ヵ村の農業生産力を飛躍的に向上させます。

白川沢とは現在の網張温泉付近を流れる川で、岩手高原スキー場の東側にある(殆ど岩手山の一部と言える)標高1152メートルの山の中にある、森林地帯あたりから湧き出しているものです。寛永三年の南部藩文章によると、元々綾織越前の土地であった遠野保の綾織村は1083石という非常に豊かな領地だったようで、恐らくですが、彼はこの収入を元に難工事に挑んだのだと思われます。

綾織越前は自分の食料や金を使い、多くの人を動員し、ある時は山を切り崩し、ある時は岩を砕き難工事を貫徹したのです。最終的には遠野保は南部氏の勢力圏に組み込まれた為、この綾織村からの収入が何時まで続いたのかはよく分かりませんが、いずれにせよ、この工事に必須の財源となったのは間違いありません。

しかし主家の滅んだ遠野保にはもう綾織越前の居場所はありませんでした。彼は少なくとも慶長五(1600)年以降は篠木に住まい続けたのではないでしょうか。

故郷を失った綾織越前の受難はまだ続きます。最終的に地域の覇者となった南部氏から敵性勢力の生き残りとみなされ、監視対象とされるのです。屋敷のある場所(現在の青雲院付近)の目と鼻の先の大釜館(現・大釜駅前の東林寺周辺)に監視役の武田丹後守を配置されるなどして、強いプレッシャーを受け続ける事となりました。最終的には周囲に迷惑をかける事を嫌ってか、綾織越前は雫石郷(現・雫石町)の繋(つなぎ)村にある尾入(おいり)という土地に引っ越してしまいます。

そして南部氏に憚(はばか)って姓を綾織から藤平へと改めた事が藤平家に伝わる系図の中に記されているそうです。そして慶長18(1613)年、綾織越前広信はこの世から去ります。しかし、その後も厨川(くりやがわ)通(篠木、大釜、大沢、鵜飼、土淵、平賀)六ヵ村の農民達は自分達の土地を豊かにしてくれた綾織越前への恩を忘れてはいませんでした。

南部氏の目があるので、明け透けに神として祭る事は出来ませんでしたので、村人たちは田村神社の境内に『山王社』を作り、彼の霊を弔ったといいます。また、綾織越前が愛用していた白馬は彼の依代(よりしろ)として、篠木村の二か所に綾織蒼前、白松蒼前として祀ったとの事。

現在は残念ながら山王社は跡形もなくなってしまいました。長い歴史の中で忘れ去られ、信仰が廃れてしまったのかもしれません。ただ、蒼前社の一つが馬頭観音堂として再建され、田村社隣の青雲院前に祀られています。

厳しい戦国時代を駆け抜けた綾織越前の肉体は数百年前に滅んで土に帰りこそしましたが、それでも尚、彼の伝説はこの平成の世にも残り、越前堰は現在も周囲の田園地帯を潤し続けています。まさに無私の中を生きた、天晴れな人生ではありませんか。

馬頭観音堂