矢巾のイジメ自殺について 【美しき観念の暴走】 | 北奥のドライバー

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思いついた事をつらつらと書いて行こうと思います。

※9月24日にアップしたはいいですが、例の如く何度も書き足し、書き直しをいたしました。読んでくれた方には本当に申し訳なく思っております。


数日前、少年のイジメ自殺について、保護者を交えた報告会(のようなもの?)があったようです。詳しくは岩手日報あたりに載っていたようですが、私は同紙を購読しておりません。

ただ、職場の同僚が読んでいた同紙の記事をチラリと読んだところ、ある保護者から「こういった苦難にも負けない強い心を持てるような教育が廃れない様にしてほしい」といった意味合いの意見が出てきた、といった内容の記事が載っていました。

恐らく、人権に過剰に配慮するあまり、権利ばかり主張して、打たれ弱い子供が育つのではないか、という懸念から出た意見だと思われます。

どうも、この親御さんは、(誤解を恐れずに言うなら)昔ながらの『怒鳴り声を張り上げながらの軍隊紛い』な教育やクラブ活動がもつ、ある種の教育効果に強い期待を寄せているか、或いは、そこまでいかなくとも、そういった価値観にそれなりの親和性をもった教育観の方ではないか、と思わされました。

ちなみに、「苦難にも負けない強い心を養う事も重要」といった意味合いのセリフは、自殺事件の直後に矢巾教委の親分の口からも飛び出したもので、世間から強い非難を浴びせられたものです。なぜなら、そういった精神論がいじめの隠蔽を行う際の方便として利用されてきたのではないか、という疑念をもつ方が多かったからでしょう。

そして、そのほとぼりも冷めないうちから別の大人の口からこういった意見が出るという事に、私は少なからぬ違和感を感じさせられました。

「……この人たちは空虚な精神主義に拘るばかりで、結局今回の事件に関して、根本的な面において全然反省していないし、教訓も汲み取ろうとしてしていないのではないか……ただ、自分にとって心地の良い昔ながらの価値観を守りたいだけではないのか……」そのように感じられたのです。

失礼ながら、この事件の当事者やその周辺の方々には、この事件が日本全体に与えた波紋の大きさが理解できていない人が存在し、それなりの影響力を今現在も持っているのでは、という懸念を感じたのです。

勿論新聞記事の中での事ですから、記者さんが細かいディテールを省いて無機質かつ単純化・要約した記事を書いた結果、言った本人が意図しているよりも冷たく無責任な印象になってしまった可能性があるという事は、まあ分かります。

とはいえ、今回の事件を理屈だけではなく、その身に染み入るような『身体感覚として理解』していたならば、仮にそういった価値観を持って、それに一定の確信があったとしても、こういった言葉の扱いにおけるデリカシズムが働いて、こういった世間の目が厳しい時期に於いて、「何を言って何を言うべきではないか」といった事に関して、もう少し慎重になっていた筈ではないのか、と私なんぞは思うのです。

そもそも、こういった強靭な精神の根本的な骨格を作り上げる作業は、本来であれば家庭での躾が第一ではないか、と私は考えるのです。ところが、こういった人達は本来の学問のみならず、そういった情操教育すらも学校に半ば丸投げされている現状を(恐らく)無意識の大前提として「強い心」などという観念的な話をしているのではないでしょうか。

勿論、だからといって、「日本の教育は家族ぐるみで協力して生きていた古き良き時代に戻れ」などと乱暴な事を言いたいのではありません。というか、チョット考えれば私のようなアホでも現代においては一部の比較的恵まれた家庭以外では、これが実質的に殆ど不可能に近い事くらい知っています。

以前、このブログで学校総動員のクラブ必修状態の中学校は全国平均で38%余りなのに対して、岩手では99.1%と異常な数値である事を書きました。これは勿論、岩手の教育界の硬直性にも原因がありましょうが、実はクラブ活動のもつ教育効果に強く期待している親御さんが非常に多く、こういった現状の維持に一役も二役もかっている現実があるのではないか、と私は想像しています。

こういった教育効果に対して言えば、確かに否定しきれない部分があるようにも思われます。例えば、私は昭和40年代生まれの人間ですが、私が学生の頃は今以上に理不尽で暴力的な教育が純粋な教育現場やクラブ活動に多く見られましたし、もっと言えば、それ以外にも社会の其処此処に当たり前にありました。

私個人としては、そういった体験によって様々な事を学ぶ事が出来たし、トラウマになった出来事も含めて、これはこれで自分の人生における宝であると思っています。

現在の中学生の親御さんたちも私と大差ない年齢の方が多いでしょうから、自分たち同様、こういった厳しさも伴った体験をさせ鍛えさせてやりたい、という気分は分からないではありません。そういう意味では、今日の教育が昔程に酷くないにしても、こういったマッチョな教育への渇望は今現在も非常に根強いものが有るのだと思います。

そして中には、こういった厳しく、理不尽とも思える教育を乗り切ってきた事を誇りにしている人も多い事でしょう。とはいえ、これは考えようによっては『たまたま自分のすぐ隣の人間が死ななかったという幸運』に恵まれただけの、実に危うい成功体験だったのでは、とも思う事もあるのです。

また、県民の平均所得が低く、親が共働きをしないと家庭を維持できず、我が子に十分な躾を施してやる暇が無い家庭が多いであろう現状、こういった教育環境を好ましいものと捉える向きも多いのではないでしょうか。

しかし、よくよく思い出してみれば、クラスに一人や二人は学校の環境に精神的についてこられず、イジメや悪質な「からかい」の対象になったり、不登校状態になった者がいる筈です。

ただ多くの場合、美しい青春の思い出を純化していく過程の中で記憶の中からストンと切り落とされて削除されているだけなのではないでしょうか。

さて、話が少々逸れますが、これはアレルギーや鬱に関しての議論にも似ているようような気がします。

たまに、上記の病気を論じる際に、「昔はあんな病気はなかった。これは現代人特有の贅沢病だ」といった、いい加減な事を曰う中年や老人に私は何度も会った事があります。

しかし、アレルギーも鬱も実は遥か大昔から存在した病気なのです。ただ、大昔の人々には医学的知識が無かった為に、その存在に気付かぬままに一生を過ごしていただけの事です。

例えば、現在は存在しませんが、信州の一部地方には「おじろく・おばさ」と呼ばれる人々が少なくとも江戸時代の頃から存在したそうです。

その地方では、地域の人口が増えすぎないように、長男、長女以外には結婚する権利が与えられず、次男、次女以下は長子の家庭の召使いのように一生涯使役させられ、男性は「おじろく」女性は「おばさ」と呼ばれたのだといいます。

その苦しく屈辱的な生活から徐々に鬱を患うようになり、最後には重篤化して、無口で無表情になり、緩慢で機械的な動きしかしないロボットのようになっていくそうです。

最後の生き残りといわれた人が、昭和の中頃まではご存命だったそうです。そして、実は表面化していないだけで、こういった人は全国の都市や農村に少なからず存在していた可能性も高いのでは、と私は考えています。

それからアレルギーはどうでしょうか。「昔はアレルギーなど無かった」というのは嘘で、大昔の色々な文献等で「これはアレルギー症状によるショック死であろう」といわれる事例は結構あるようです。

涙や鼻水が止まらず、しかし、生きる為に我慢して働いている内に、体にアレルギー物質がどんどん蓄積して、遂にそれがある段階で体の許容限界に達し、突然パタリと死んでしまう。

ただ、医学が未発達だった時代にはそのショック死の原因が解らずに『原因不明の変死』として片付けられ、その都度に忘れ去られていた、というのが事の真相のようです。

ハッキリと言ってしまえば、人間というものは、これといった戒めも無い状態で放っておくと、幾つもある現実の判断材料の中から、自分の価値観や人生観を肯定してくれる情報『だけ』を無意識に摘まみ食いしてしまう傾向がある生き物だという事です。

また、この国は敗戦後、たったの数十年程で急速に発展した背景がある為に、戦前から戦後の混乱期にかけて、或いは高度成長期前後のまだまだ人権という概念が社会に根付いているとはいえない時代の「人権もヘッタクレもない環境」を生きてきた人達による『社会的・集団的記憶』が色濃く世間一般に共有されている側面があります。

そして、それらはこの平成の世の中にあっても、極めて強力な規範として社会の様々な場面で影響力を持ち続けています。

そしてそういった社会的記憶の中でも『即効性はあるが、感受性の強い子供には深いトラウマの源泉となりかねない、副作用の懸念がある価値観』をベースにした教育がこれといった真摯な考察も無しに横行してきた歴史があるようにも思います。

その中で、これについてこられずに脱落し、一生モノのトラウマを抱えた少数派の子供の事例は殆どの場合、抹殺されて広く検証される事はなく、意図的に成功例だけが抽出されてきた歴史があるのでは。

そして、そんな歴史的蓄積はやがて「皆が自分の権利を放棄して、自らが所属する集団の秩序を支えるべく耐え忍んでいるのに、お前だけ“人権”なんて甘っちょろい価値観を振りかざして楽をするつもりか」といった同調圧力の源泉へとなってゆく。

これは、一見すると、何かを深く考えているようでいて、実は何も考えていない。もっと明け透けに言うならば、「自分が組織の為に苦しんでいるのだから、お前も同じく苦しむべきだ」という、社会性、道徳性の看板を掲げた悪質な利己主義であり、思考停止であると私は考えます。

そして、こういった悪質性に気が付いた者が『真の意味で利他的な動機』に基づいて声を上げたとしても、社会性、協調性という巨大なスローガンのローラーでペシャンコに圧し潰されてしまう。

ただ、少々意地の悪い表現をすれば、将来のブラック企業における忠実な僕を大量生産するのであれば、極めて効果的な教育方法かもしれません。まあ、これはチョット悪ふざけが過ぎたもの言いかもしれませんが。

そしてこれらの価値観は、イジメの隠蔽、あるいはバレた際に開き直って正当化しようという向きの、精神文化を支え、またはそれを守り育てる苗床となっている側面がありはしないか。

結果として、こういった教育観(社会人の場合は職業観)が巷に跋扈し、その成功例ばかりが喧伝される内に、それらの前近代的な価値観が齎す副作用についての想像力は限りなく希薄化してゆきます。

まさにその象徴といえるのが、時と場所をわきまえずに飛び出した冒頭の「強い心を育む教育」といった言葉なのではないのか、そのように思うのです。

前回のいじめ自殺に絡んだ記事で、私が
「いじめが発覚した時点で学校や教育委員会の間で素早く情報共有し、システマチックにシェルター的な環境へ、いじめ被害者を素早く保護する環境を整備するべし」 
「そういった制度を利用し、いじめの“最小化”に積極的に寄与した学校や教師を高く評価するルールを作るべし」
「場合によっては2011年に起こった滋賀県大津市のいじめ自殺事件の様に、警察の様な公権力の介入も是とするべし」

……と書いて見せたのは、そもそも子供の躾や教育を学校に丸投げ状態にせざるをえない家庭が多く、なおかつ、身勝手で無責任な観念論を吹聴する一部教育界関係者や保護者達に子供達が翻弄されないよう、個人的な主観の入り込む余地が無い冷徹な法律によってのみ運用される公的制度を創設し、それに頼るしか今のところ効果的な方法は無いのではないか、と思ったからです。

これは恐らく他県の事例でしょうが、いじめっ子を一時的に学校から引き離し、いじめられっ子を守ろうという提案に対してあるベテラン教師が「それでは加害側の児童の”学ぶ権利”が侵害されるではないか!」と強硬に反対し、結局提案がポシャッた事例があるそうです。

つまり、法的に治外法権的で閉鎖的な学校という空間の中で良識、常識といった抽象的な物差しのみに頼るというのは、つまるところ、こういう『頓珍漢な権力者』に対するブレーキの無い非常に危険な状態になるリスクが常にあるという事です。

ちなみに私が何故こんな記事を書いているのか。それは、「岩手は人権に疎いばかりではなく、こういったイジメの培養土になりかねない危険性がある精神文化が、これといった警戒心も無く、安全装置も設けぬまま野放しになっている県ではないのか」という風評が広がる事を恐れているからです。

これは私なりの愛郷心故です。でなければ、こんな長々しくない、もっとアッサリした記事になっています。

教育関係者だけでなく、周囲の親御さんで自分の価値観に固執した挙げ句にマッチョで前近代的な主張をしている人がいたならば、立ち止まって冷静になって頂きたいものです。

時代は刻々と変わっているのです。過去の成功体験が齎した果実が何時の時代も通用する万能の妙薬だとは限らないのです。これは過去の成功体験は一旦脇に置いて、ゼロベースで考えるべき事案なのです。