綾織越前広信 | 北奥のドライバー

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思いついた事をつらつらと書いて行こうと思います。

滝沢市の篠木(しのぎ)という場所には田村神社があります。坂上田村麻呂が祀られていて、樹齢1000年を超える巨大な杉の木があります。

この神社の前には水量豊富な用水路が流れております。これは戦国武将であり、後にこの土地に帰農した郷士、綾織越前がつくりあげたものだといわれています。

用水路
 

この人物はそもそも16世紀まで遠野周辺を治めていた地方領主、阿曽沼(あそぬま)氏の配下の武将でありましたが、紫波郡の斯波氏とゆるい同盟関係を結んだ末、雫石氏(斯波氏の分家)の客座として活躍します。

さて、ここで綾織氏とは何者か、ざっと説明いたします。綾織氏の子孫であるとされる藤平氏の系図によると、田原藤太秀郷(藤原秀郷?)の後胤から始まり、初代は高衛(読みは〝たかもり〟?)、二代は「阿曽沼孫次郎広郷と改め」、と記されているそうです。さらに広長、広行、広信と記されているそうです。つまりこれに従うならば、綾織越前は綾織氏の五代目ということになるようです。

遠野の地方領主であった阿曽沼氏の親戚筋の家臣であったようで、遠野の綾織村(現・遠野市 綾織町)を賜り、それなりの地位の家柄でありました。

元亀年間(1570~1573年)に起こった『飯岡合戦』に於いて四代目の広行が志和郡の斯波安芸守を援助。遠野の阿曽沼氏も南部氏の勢力伸張を快く思っていなかったのか、斯波氏に綾織広行を派遣し、協力した可能性はあります。どうも、ここで綾織氏は斯波氏の信頼を得たようです。

 

元亀年間に三戸南部氏太守である晴政は軍隊を派遣、斯波氏と交戦しているようですので、恐らくこの時に綾織氏の名が本格的に歴史の中に姿を現したのではないでしょうか。しかし、この戦は最終的に九戸政実の弟である弥五郎(後の中野修理亮)を婿として斯波氏が受け入れる事で休戦状態となります。

この後、天正二(1574)年、久之進(広行)の軍功が認められ、綾織氏の長男である広信が高水寺斯波氏の分家である雫石斯波氏の客座となり、実質的な軍事顧問として働くようになったようです。この時に指揮を取り、雫石城の強化改修工事、問題であった周辺地域における水の便を改善する為の用水路(お城の要害性も考慮にいれたもの)を作るなど、多大な尽力をしました。

しかし天正14(1586)年に雫石城が南部氏に攻め落とされ、天正16(1588)年には宗家の高水寺斯波氏も滅ぼされます。そして12年後の慶長5(1600)年、主家である阿曽沼氏も家臣であった鱒沢(ますざわ)氏の反乱によって実質的に滅んでしまいます。

というか、厳密には阿曽沼の殿様は何度か遠野の覇権を奪還すべく戦を仕掛けますが、ついに取り返すことが出来ませんでした。これは南部氏の策謀が働いていたのでは、という説もまことしやかに囁かれていますが、今回のテーマから外れますので、またの機会にしたいと思います。

さて、斯波氏の滅亡から阿曽沼氏の没落が起こるまでの間、綾織越前はどのように過ごしていたのでしょうか。恐らくですが、滝沢の篠木にある屋敷と遠野をチョクチョク往復しながら、後に越前堰と呼ばれる用水路の掘削に力を注いでいた可能性があります。当時の篠木・大釜・大沢・鵜飼・土淵・平賀の六ヵ村は土質は非常に良かったようですが、水の不足に悩まされる事が多く、その事を知った綾織越前は(伝説によれば、ですが)自らの白馬に跨り水源地を探し回ったようです。

最終的に持籠(もっこ)森から流れ出る白川沢を水源地として、妻の神沢、栓木沢、林の沢、大沢、大堀沢、グンダリ沢等の川を巧みに連結し、黒沢川に合流させ、八里余り(約32キロ超)の長大な用水路を完成させ、上記六ヵ村の農業生産力を飛躍的に向上させます。

白川沢とは現在の網張温泉付近を流れる川で、岩手高原スキー場の東側にある(殆ど岩手山の一部と言える)標高1152メートルの山の中にある、森林地帯あたりから湧き出しているものです。寛永三年の南部藩文章によると、元々綾織越前の土地であった遠野保の綾織村は1083石という非常に豊かな領地だったようで、恐らくですが、彼はこの収入を元に難工事に挑んだのだと思われます。

綾織越前は自分の食料や金を使い、多くの人を動員し、ある時は山を切り崩し、ある時は岩を砕き難工事を貫徹したのです。最終的には遠野保は南部氏の勢力圏に組み込まれた為、この綾織村からの収入が何時まで続いたのかはよく分かりませんが、いずれにせよ、この工事に必須の財源となったのは間違いありません。

しかし主家の滅んだ遠野保にはもう綾織越前の居場所はありませんでした。彼は少なくとも慶長五(1600)年以降は篠木に住まい続けたのではないでしょうか。

故郷を失った綾織越前の受難はまだ続きます。最終的に地域の覇者となった南部氏から敵性勢力の生き残りとみなされ、監視対象とされるのです。屋敷のある場所(現在の青雲院付近)の目と鼻の先の大釜館(現・大釜駅前の東林寺周辺)に監視役の武田丹後守を配置されるなどして、強いプレッシャーを受け続ける事となりました。最終的には周囲に迷惑をかける事を嫌ってか、綾織越前は雫石郷(現・雫石町)の繋(つなぎ)村にある尾入(おいり)という土地に引っ越してしまいます。

そして南部氏に憚(はばか)って姓を綾織から藤平へと改めた事が藤平家に伝わる系図の中に記されているそうです。そして慶長18(1613)年、綾織越前広信はこの世から去ります。しかし、その後も厨川(くりやがわ)通(篠木、大釜、大沢、鵜飼、土淵、平賀)六ヵ村の農民達は自分達の土地を豊かにしてくれた綾織越前への恩を忘れてはいませんでした。

南部氏の目があるので、明け透けに神として祭る事は出来ませんでしたので、村人たちは田村神社の境内に『山王社』を作り、彼の霊を弔ったといいます。また、綾織越前が愛用していた白馬は彼の依代(よりしろ)として、篠木村の二か所に綾織蒼前、白松蒼前として祀ったとの事。

現在は残念ながら山王社は跡形もなくなってしまいました。長い歴史の中で忘れ去られ、信仰が廃れてしまったのかもしれません。ただ、蒼前社の一つが馬頭観音堂として再建され、田村社隣の青雲院前に祀られています。

厳しい戦国時代を駆け抜けた綾織越前の肉体は数百年前に滅んで土に帰りこそしましたが、それでも尚、彼の伝説はこの平成の世にも残り、越前堰は現在も周囲の田園地帯を潤し続けています。まさに無私の中を生きた、天晴れな人生ではありませんか。

馬頭観音堂