矢巾北中における自殺事件の考察 | 北奥のドライバー

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思いついた事をつらつらと書いて行こうと思います。

今月五日、いじめ被害を訴えていた中学生の少年が線路に飛び込み自殺した事件は全国ニュースとなり、県下を揺るがす大騒動となってしまいました。今現在もこの事件に関わる情報はインターネット上にゴロゴロ転がっています。

学校側や矢巾町教委の怠慢が甚だしく、全国的と言える非難に晒されています。当然の事でしょう。理由はどうあれ、彼らはするべき事をせず、一人の生徒を自殺にまで追い込んだ訳ですから。

正直まだ情報不足な気がして、筆を進めるに気が引ける事が多々ありますが、ざっと自分の思う所を書いてみたいと思います。

まず、いじめを経験した事のある身として実感的に言える事は、『学校という半閉鎖的といえる空間で、育ちも精神的素養も身体能力も違う子供同士を集め、一定のルール下でコントロールしようとする以上、「いじめ」という現象は必ず起こる』という事です。

まず、「学校も教委も、努力と工夫さえあればいじめをゼロにできる筈だ」という目標を掲げていたのなら、その旗はすぐに投げ捨てる事です。何故なら、この建前こそが、存在する筈のいじめを隠蔽する際の大きな動機づけの一つとなってきたからです。

そして、必要なのは「いじめは絶対に起こる現象であるという前提で、これが起こったら素早く教師、学校、教委との間で情報共有し、システマチックに事を処理しつつ、いじめられっ子がこれ以上イジメられないシェルター的な環境に隔離・保護し、それと同時並行でいじめっ子に関しては、これ以上罪を重ねない様に指導、監督を徹底して行う」という制度、環境の早急な整備ではないでしょうか。

そして、隠蔽などせずに、こういった制度を積極的に活用して『いじめの最小化』に寄与した教師や学校は高く評価するような制度も必要でしょう。

場合によっては2011年に起こった滋賀県大津市のいじめ自殺事件の様に、警察のような公権力の介入も是とするべきでしょう。

ただ、この大津市の事件の場合、教育界が能動的に警察に事件の調査を依頼した訳ではありません。当初、学校側はいじめの存在を認めることに極めて消極的だったようです。しかし、生徒の自殺から約半年後、遺族が加害者とされる生徒と大津市を相手取って損害賠償を求める民事訴訟を起こします。ここからにわかに一地方の自殺事件が大きな社会問題の様相を呈してきます。

警察が校舎に入り、捜査をする様は全国ネットで放送され、戦後の教育界が維持しようとしてきた「教育の世界は公権力が滅多に介入しない、ほぼ治外法権と言える空間である」という世間の共通認識を木端微塵に粉砕してしまいました。

教育の独立性と言えば聞こえは大層良いのですが、結局そういったお題目は閉じられた教育界の中での腐敗、堕落の要因となってしまいました。それはまるで風通しの悪い部屋の中で湿気がこもり、やがて部屋中をカビだらけにしていくかのようです。

それから、今回の事件に当て嵌まるかはまだわかりませんが、末端の教師たちの『ブラック的労働』の問題も考えたい。兎に角、先生の仕事というものは忙しいそうです。中には仕事をこなしきれず、家にまで持ち帰って夜遅くまで自分の仕事に勤しむ人も多いとの事です。

それに加えて、クラブの顧問の仕事もさせられる事が非常に多くクラブによっては、土日も一切休み無しなどという事も珍しくないそうです。そうなれば、ただでさえ忙しい通常の業務に加え、場合によっては複数の顧問を兼任するケースもあるそうで、こんな事ではいよいよ教師の側にも余裕がなくなっていきます。

「そんな事言ったって、そのぐらい覚悟して教師になったんでしょ」という意見もあるでしょうが、それでいじめを見落としたり、上手く対処する余裕が失われてしまったのでは本も子もありません。

ちなみに、中学校学習指導要領には部活動は「生徒の自主的、自発的な参加により行われる」と書いていますが、「必ずクラブに入れるべし」などといった文言は全然ないそうです。多くの学校が根拠のない「全生徒クラブ必修」を昔から習慣と惰性で今まで続けてきて止められないのが状態のようです。

確かに部活を行う生徒が多い方が、色々な大会で入賞したり優勝したりと学校としてのお手軽な実績作りには都合が良いのでしょうが、こういった考え方はそれそろ曲がり角に差し掛かってきているのではないでしょうか。

そもそも、学校というものは、主に学問を修める場であって、クラブというものは更にそういった教育環境に奥行きを持たせるための『付録』でしかないのですから、「クラブ必修」という考えからそろそろ離れたらどうか、と思うのです。

因みに少々古いですが、2008年時点でのある調査で「クラブ必修状態」の中学校の都道府県別の平均は38.4%なそうですが、なんと岩手は99.1%だったそうです。これはもう異常です。現在も恐らくこの数字は大きく変わっていないものと思われます。

中には「これはおかしい」と声を上げる教師も他県にいるようですが、多くの場合、保守的な教育界の声によって悉くかき消されてきたようです。

しかし、形骸化した制度の中で『情熱と理性をもってすれば、外部の組織や制度の助けが無くとも、学校内で完結した健全な教育環境を維持できる』といったフィクションを必死に教育界ぐるみで維持し続けるような時代は終わりつつあるのかもしれません。というか、実は大昔に既に終わっていた筈なのです。

にもかかわらず、こういった現実の惨状から目を背け、ひたすらに狭く閉じた世界に閉じこもり続けた結果、この悲惨ないじめ自殺を引き起こしてしまいました。

現在の教育界に求められているのは、もっとリアリティーに富み、場合によっては冷徹に現在の惨状を正面から見据えた変革ではではないでしょうか。