学校の秩序は誰の為のものか(加筆いたしました) | 北奥のドライバー

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思いついた事をつらつらと書いて行こうと思います。

※赤文字の部分は2015年7月13日に加筆した分です。

東京のある高校で、96人の生徒達を20分にわたって遅刻を理由に野外に正座させた30代の男性教諭が体罰を与えた咎で処分されたというニュースを見ました。

辱めを与え相手の自尊心を甚だしく挫き、コントロールしやすい人間に仕立て上げたい、という願望は、教師のみならず一般的な指導的立場の人間が絡め取られ易い誘惑の一つだと思います。

私の個人的な思い出を一つ書かせていただきます。今から二十数年前、私は岩手県内のある公立高校に入学いたしました。その高校には当時「入学の儀式」と言えるものがあったのです。

入学式が済んだ数日後、全校集会が体育館で行われましたが、(確か)校長先生が形ばかりの話をサッと終わらせた後、先生たちはことごとく退散。すると、髪を染めたヤンキー崩れのような先輩方が『お立ち台』を用意してきたのです。

すると、お立ち台の周りにを男女の不良属性の先輩方がグルリと囲みます。元々学力水準の低い学校でしたので、粗暴な雰囲気の生徒が多かったのです。

すると、「一年生はこの台に一人づつ登って自己紹介をしろ!」と誰かが叫びました。周りはまるで格闘技場の観客席のような歓喜と怒号の声が響き渡ります。さて、ここからが大変です、どんなに大声で自己紹介しても、中々許してもらえません。2年生、3年生の座るスペースからは「おい!舐めてんのかコラ!」等の野次がバンバン飛んできます。

下手にハンサムだったりカワイイ容姿だったりしたら、もう大変です。ハンサムボーイは男子の先輩に、綺麗な容姿の女子は女子の先輩に因縁をつけられ、中々壇上から降ろしてもらえません。

私は比較的端正な容姿のある女子生徒が半泣き状態になりながら何度も大声で自己紹介させられているのを見せつけられ、それこそこのままでは喉から出血でもするのではないか、とやりきれない気持ちになったものです。先輩の女子学生からの「ナメてんじゃねぇぞ糞アマ!」というセリフ、いまだに耳の奥にこびりついています。

「……嫌な学校に入学してしまったものだ」、そう思ったものです。最も教師にとってリスキーで、しかし是非とも行いたい作業、すなわち『新入生の鼻っ柱をへし折って大人しくさせる作業』の一翼を、『在校生と新入生の交流行事』という美名の元に生徒たちに担わせていた訳です。

これならば、いざ怒った親御さんが抗議をしてきても、「生徒が勝手にしたことで、我々教師はあずかり知らなかった」と逃げ回る事が出来ると考えていたのだと私は(勝手ながら)想像しています。しかも、2,3年生にも仄かな支配欲と優越感を与えてあげる事が出来ます。

「ここは本当に『学び舎』と呼べるのか?まるで犯罪者を収監している刑務所ではないか!しかも、囚人と看守がグルになっていて逃げ場がない!」私は暗澹たる気分になりました。

そして悪い事に、私はこの時に目をつけられ、ある不良だらけの「体育会系のクラブ」に強引に勧誘されたのです。別に私が色男だったわけではなく、単にヒョロヒョロの優男で脅しやすいと踏んだのでしょう。兎に角人手不足で彼らは頭数が欲しくて焦っていた。

数人に取り囲まれ、「お前が首を縦に振るまで絶対に帰えさねぇ。それでも意地張って断り続けたら……どうなるかわかっているよな?」こうやって放課後に部室の中で一時間以上軟禁状態にされついに私は脅しに屈してしまいます。

本当は私は弓道部に入りたかった。その為に、どんな高校生活を送ろうかと幾度も幾度も頭の中で想像を巡らせていました。この想像を巡らせている間は、この学校の『おぞましい部分』の事を忘れる事が出来ました。しかしそれは、私の意思の薄弱さ故に打ち壊されたのです。

覚えたくもないルールを覚え、着たくもないユニフォームに袖を通し、出したくもない掛け声をかける。そんな学生生活のスタートです。しかも、先輩の虫の居所が悪ければ、八つ当たりの道具にされる、ここから広がっていくようにして、徐々に私は「いじめられっ子」に転落してゆきました。

耐えられず、2年生の終わり頃、顧問の教師に退部したい旨を伝えましたが、「苛められた、というのはお前個人の主観だろう」と言われ相手にされず、遂に私は不登校児になってゆきました。

これを読んだ方で、「何故こんな事態になるまで親に相談しなかったのか?」と疑問に思う向きもあるかもしれません。これは、やはり当時思春期であった私が親に対して、自分が順調に学校生活を送ることが出来ない少年である事を認める事が恥ずかしくていう事が出来なかった。

もう一つは、当時両親は、共働きで、しかも私が中高生であった数年間は最も業務が忙しい時期だったらしく、家に帰れば仕事の辛さからくる愚痴を語り、あとは泥のように眠る、そんな状態だったのです。「これ以上苦労をかけられないのではないのか」と、考えてしまい、とても言い出そうという気分にはなれませんでした。


結局、事の次第を知るに至った私の父が猛抗議した結果、私はそのクラブを抜ける事が出来たものの、もう『不登校騒ぎを起こし、色のついた生徒』となり、また、一から基礎を覚えトレーニングして、選手として育てるには手遅れな状態だった私はいまさら弓道部にも入れません。そして、なんと学校側はそれと引き換えのペナルティを課してきたのです。

学校側の言い分は「兎に角、この学校は原則全生徒が絶対部活をしなければいけない決まりになっている。世にいう『帰宅部』といった存在の生徒を認めるわけにはいかない」というものです。

毎日、放課後に廊下や教室にホウキやモップがけをして形ばかりの清掃作業をしては、部活の時間を潰す事になりました。たまに辞めたはずのクラブの人間が、面倒臭い作業を押しつけに清掃をしている私に強引に言い寄ってきます。その度に「自分はもうやめた人間だ」といって断りましたが酷く苦痛でした。

また、たまに「あいつ、クラブの人間関係に耐えられずに逃げたんだと。皆、耐え難きを耐えて頑張っているのに」という侮蔑、嘲笑混じりの声も所々方から聞こえてきました。卒業までの一年間が、まるで四、五年程の長さにも感じられる辛い日々でした。

さて、その時私の担任教師は何をしていたのかというと、まあ、何もしていなかった、或いは出来ないでいた、というのが私の印象です。悪い先生という印象は全然ありませんでしたが、余り毅然とした雰囲気はなく、何処かうだつの上がらない感じの人で、手をこまねいているだけ、という印象が私にはありましたし、「あまり頼りにならなそうな先生だな」というイメージが強い人でした。

現にクラス内の不良生徒の専横を止められず、逆にコケにされたりして四苦八苦している、そういった感じの人でした。担任の教師もそんな状況で、私にまで気を遣う精神的余裕が失われていたのかもしれません。

不登校状態になって10日ほどしたある日、担任の先生が私の家に訪問してきました。担任は親と暫く話し込んだ後、私を自分の車に乗せると近所のある景色のよい丘陵地に連れてゆきました。眼下の景色をボンヤリと眺めながら私は「もうあの学校には自分の居場所が無い。学校を辞めてしまいたい」と教師に言ったのです。

すると担任教師は「確かに世の中には、高校も卒業せず、しかし仕事をして家庭も持ち、立派に生きている人間もいるそうだ。ただな、これはそういった次元の話ではないんだ。もし、おまえの事をいじめて、しかも反省することもなくヘラヘラと過ごしている連中が1年後に卒業証書をもらい、社会からも『ちゃんと高校を卒業できた人間』という認知を貰い有利に暮らし続ける」

「それに比べ、お前は何も悪くない筈なのに『ロクに高校も卒業できなかった奴』というレッテルを世間から一方的に貼られ、これから数十年間の人生で、理不尽で不利な状況を背負わされ続ける。こうなってしまえばお前、いよいよこの世には神も仏もない、という話になってしまいはしないか。だから、もう一回、勇気を出して学校にきてはくれまいか」……そのように言われたのです。

数日考え込みました。「学校に舞い戻るのはとても怖い。しかし、私が高校を中退する事で、いじめを行った連中と、それを尤もらしい理由をつけて傍観した連中の意を強くさせる状況を作ってしまうのも悔しい……」結局、私は再び学校に通うことにしたのです。

しかし、学校に再び登校することになった後も、相変わらずその担任教師はうだつが上がらず、イマイチ助けにはならない風で、下手に相談しても「お前、いまだに吹っ切れていないのか」といった事を面倒臭そうに言うばかり。やはりアテには出来ませんでした。(笑)


今現在、仕事で車を走らせていると、弓道部の高校生たちを見かける事があります。私の目には、自分のしたいクラブを見つけ出し、学生生活を謳歌する彼らの道着姿が眩しく見えます。

「……あの時、脅しに屈していなければ、一体私にはどんな学生生活が待っていたのだろう」

全く考えても仕方のない事です。しかし、この慚愧の念は、まるでワインボトルの底に溜まった澱のように私の心の中に深い影を創り出し、大きな縛りとなり、確実に今現在も私の魂の形を規定しています。恐らく、老いてこの世から去るその日まで、この『影』が消えて無くなる事はないでしょう。

そしてこう考えるのです、あの時、あんな『お立ち台』まで用意して道徳的にまだまだ未熟な生徒同士を「けしかけて」まで学校が創り出そうとした『秩序』とは一体何だったのか。少なくとも、全生徒の為の、開かれたフェアな秩序では断じてない。教師とあの監獄のような環境のルールに順応できた者『だけ』の秩序である、と。

不満や疑問を持つ者には「社会に出れば、もっと不幸や理不尽な出来事が沢山転がっている。この程度で泣き言を言うべきではない」と話題を相対化して誤魔化せば良い。

もしかすれば現在はもう、あのような過激な通過儀礼は行っていないのかもしれません。しかし、教育の世界にはいまだにあのような閉鎖的で因習じみていて、暴力的な方法で実現される秩序への渇望があるようにも感じます。

少なくともこれは道徳や倫理の延長戦上で起こる事ではない様に私には感じられます。むしろそれとは真逆のもっと傲慢で身勝手で手のつけようが無いほどに歪んだ、誤った社会正義。そう解釈するべきではないのか。そんな事を考える今日この頃です。