労働が生きる喜びでなくなる時 | 人生好転させ屋

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毒親育って、愛されて来ていない。手間暇、お金をかけてもらっていない。その経験から「どうせ愛されない・どうせ豊かになんかなれない」という疑いや信念を持ち、夢や希望を持てない、途中であきらめてしまう。そうした負の人生を好転させるブログ

不景気のせいか?

最近…

労働力のアウトソーシングの比率が

増えているように思う。


しかし


アウトソーシングという働きかた
業種や企業によって違うのかもしれませんが?
何か虚しさが付きまといませんか?


労働って

ただお金になればいい
ってものじゃなくて

労働に対する喜びもセットになってないと
人間らしくいられない。
自分がどんどんすり減っていく感じがしませんか?


演劇・音楽・芸術・スポーツなどを通じて、社会参加したい(刺激し、刺激されたい)と思っている人は、そうした労働や活動ではない労働から多くの喜びが得られなくても、それほど気にしないかもしれない?でも、七割がたは?労働による社会参加がメインなのかな?なので、そこから喜びが得られなければ辛い。。。かも?私は辛い。


労働に対する喜び
=その業種や企業(=社会=人=自分の生存環境)に貢献できている。

貢献からくる喜び
=自分の存在が『必要とされている』『歓迎されている』『喜ばれている』『仲間の役に立っている』という嬉しい感覚。

連帯感も大事な要素かも。


人間は
自分は無駄不必要ではない。
人類の一員としての有意義な存在だ
これがないと生きていることが快適ではない。


人間という生き物は…
『自分は無駄で不必要だ』
では快適に生きていけない。
これは基本中の基本




そんな中…アウトソーシングという働き方
なぜか?虚しさが付きまとう。。。
それは

アウトソーシングでは労働を通じて
社会参加をしている
世の中と繋がっている
という感覚をもちづらいからかな?


もしも・・・

宇宙は特別な空間で

浮かんでいるだけで

飲み食いすることもなく

病気とも無縁で

寿命を全うできる。

と、言われて

1人でポツンと浮いていたいだろうか?


人間は明らかに

何億年と言う歴史の中で

群れの中で

刺激し

刺激されることで

快適を感じるように出来ている生物だと思う。





人の心と心は目には見えないパイプ(=絆)で繋がっている
大勢の人間がいる所で宇宙の真っただ中に1人で浮いている感覚で良いんだろうか?

人は一定の期間を通じてふれあいの中で
心と心のパイプが繋がる

大切な人が遠く離れた所に引っ越してしまう
もしも、今みたいに簡単に連絡の取れない時代だったら
さみしくて心に穴のあいたような感覚になる。
これは深くつながっていたパイプが切れた証拠。

心のパイプは生き物だけと繋がっているわけではない
物や土地とも繋がる


慣れ親しんだ土地や家から離れる時
さみしいと感じたことのある人は
その土地や家に心のパイプが繋がっていた、根を生やしていた証拠です。


短期間では、この心のパイプは深くつながらない。
時間をかけてじっくりと繋がってゆく。


アウトソーシング
場合によっては短期間に
多くの人と出会い
多くの人と別れる
現在の人間のキャパを超えている気がする




この状況では心のパイプは繋げない
深くつながれる人と言うのは
大勢の人の中から徐々に絞られてくるもの
短期間ではそれも難しい。。。


また、人は心のパイプが繋がっている状態で
相手を思いやることができる。
繋がっていない=不安、さみしい。



そうした繋がっていない感覚が嫌で
派遣労働者が仕事(企業や社員)に対して情を傾けると…どうなるか?

アウトソーシング管理担当者はそのことを嫌がる
なぜなら

派遣労働者を『嫌い』だからではない

人間には情があり、
情を傾けられると情がつながる

でも、担当者は

時期が来ると…それを切らなくてはならない

その時に痛みが生じる


その痛みを感じたくない

だから…

はじめから
情を傾けないでくれ
人間らしく振舞わないでくれ
ロボットみたいに無感情でいてくれ
そうすれば痛みを避けられるから
いうわけだ。

必要以上のコミュニケーションを避けたがる。
それは、切る方は切る方で痛みを感じるから。
決して、私達をないがしろにする意味ではない。


切られる方は切られる方で、ロボット化を余儀なくされて虚しい。。。人はただ生産性を上げていればいいというわけではない、生産性を通じて社会参加、人とコミュニケーションしている、ということもとても大切な事だ、快適にいきるということが大事だと言うなら無駄なことではないはず。

人間のための社会のはずが人間を苦しめる?どこかに間違いがあるはずだから、時間をかけてでも探さないといけない気がする。


アウトソーシングという形態事態は多少あってもいいと思う
もちつ、もたれつで互いにHAPPYな関係もあると思うから。


でも、それを大半にするというなら
登録者同士の人間関係を密にするような機会や場を提供するか?

労働という社会参加以外に
生きている喜びを感じられる
何かを生み出さなくてはならなくなると思う。
はたしてそんなモノ必要なんだろうか?

美味しいパンを作って、
食べた人が美味しいって喜んで
労働に喜びを感じる。
これでいい気がするんだが

大量生産のため生産者が見えない
ありがとうが伝えられない…
ありがとうが伝わってこない…
本末転倒って思うのは間違いなのか?


痛みを生まないアウトソーシングの形態…
早いとこ探さないと。。。


経営者と従業員が敵同士!?
これも、おかしな話なんだよね?


何か良い方法ないのかね?
最終的には人間同士 
腹を割って話して
信頼しあえるようになるってことなんでしょうね。