【鬼畜朝鮮人⑦】最接近しいきなり自動小銃を乱射。これは韓国海軍による日本民間人の殺人事件である。 | 「ぶわっ」

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15-衆-水産・法務委員会連合審…-1号 昭和28年02月21日
昭和二十八年二月二十一日(土曜日)
午前十時四十四分開議


  この証言は前に行われた「第一大邦丸船長」濱行 治氏の証言に引き続いて現場で共に操業していた第二大邦丸の通信士である切手 律氏が拿捕された状況などを捕捉して証言したものである。
 第一大邦丸の拿捕について簡単な概要は次のようなものである。
「第一大邦丸事件(だいいちだいほうまるじけん)とは、韓国海軍による民間人殺害、および虐待事件のひとつ。1953年2月4日に公海上(済州島沖20マイルの農林漁区第284漁区と思われる海域。韓国側の主張では済州島沖9マイルとされる。)で操業中であった福岡の漁船『第一大邦丸(57トン)』及び『第二大邦丸(57トン)』が、韓国の漁船『第一昌運号』及び『第二昌運号』(各約55トン)を利用した韓国海軍によって銃撃、拿捕され、その際に第一大邦丸漁撈長であった瀬戸重次郎(34)が被弾して死亡した事件である。」(Wikipediaより抜粋)

 先に行われた第一大邦丸の船長・濱行治氏の証言でも明らかになったが韓国海軍は韓国漁船に身を潜めて接近し韓国漁船が操業しているかのごとく見せかけていきなり銃撃して漁労長は銃弾を受けて瀕死状態のまま手当されることもなくやがて無念の死を遂げ挙げ句二隻とも拿捕されたものである。
 
「1953年1月22日に、第一大邦丸及び第二大邦丸は、福岡を出航し2月4日には二百八十四農林漁区で操業していた。同日午前7時ごろに、第一大邦丸の南西より韓国の漁船である第一昌運号及び第二昌運号が北上して接近してきた。そして日本語で「魚は獲れますか」と話してきた。韓国船はそのまま行過ぎ、付近で停止して操業(を装って日本船を監視)していた。しばらくして第一大邦丸が揚網作業に入ると、そのとき船尾から30メートル程度の距離にあった韓国船が、自動小銃で第一大邦丸への銃撃を開始した。日本側二隻は逃走を開始したが、8時15分には第二大邦丸が拿捕され、逃走していた第一大邦丸も銃撃が熾烈で、逃走を断念した。この時操舵室内に坐っていた漁撈長は、後頭部左側より銃撃をうけ、意識不明となる。第一大邦丸は8時30分に拿捕され、第一昌運号の船員に「翰林に行け」と日本語で命令された。」(Wikipediaより抜粋) 

  この銃撃の様子は濱行治氏も証言しているが船の船尾に衝突寸前ほど接近し警告もなくいきなり自動小銃で銃撃を打ち込んでいる。合計200発近くの銃弾を発射しているのである。これは第一大邦丸に警告し威嚇射撃をして停船させるというものではなく明らかに乗組員を銃殺する目的で自動小銃を乱射しているとしか思えない。韓国海軍による無抵抗の民間漁船への攻撃であり殺人強盗犯罪そのものである。しかも日本側は銃弾で負傷し瀕死の重傷を負った漁労長の手当を要求したが韓国は手当を実質的に拒否し見殺しにされている。

「同船は11時30分に済州島の翰林面に入港させられ、日本人船員は憲兵によって警察に引き渡され、船内の目ぼしい私物、装備及び漁獲物は警察に略奪された。その際に日本人船員側が憲兵に対して負傷者がある旨を伝えたので、船員は翰林面の『高医院』に収容された。しかし『高医院』とは名ばかりの医院で、病室はもちろん設備も全く無く、医師は見ただけで「これは駄目だ」といって漁撈長の手当てを拒否した。」(Wikipediaより抜粋)


証言者 第二大邦丸通信士 切手  律氏

○福永委員長 最後に切手律君。

○切手参考人 私は第二大邦丸の通信士の切手律でございます。ただいま船長より一応あらましの話もありましたので、私といたしましてはこれをただ補足し、また参考意見だけを申し上げて帰りたいと思います。
 拿捕された当日、まだ私が就寝中に、船長より、へんな船が近寄つて来たから起きて見てくれというわけで、ゆり起されまして、そうして見ましたところ、韓国の手繰船で、デッキに漁網はあるし、官憲らしき人は全然見えてなかつたわけであります。
  その後ただちに通信状態に入りまして、そうしていつでも発信できる態勢を整えました。
  そうして網揚げころになりましたので、第一大邦丸にワイヤー・ロープを渡して、水深測定のため少しコースをかえたと思つたとたんに、左舷後方より拳銃の射撃を受けたわけであります。
  
  そのときは何ら被害はありませんけれども、それに驚いて、私たちは第一号を切り離して、単独で遁走に入つたわけであります。その後各船及び交換船に対して、われ韓国手繰船に襲撃され、拳銃で撃たれるも、被害なしとその旨を一第一報として発し、逐次詳細にわたつて私は拿捕されるまで通信したのであります。大体拿捕されましたのは八時十分ごろかとも思いますが、その当時は気も転倒しておりましたし、たまが来そうにあるものでありますから、頭からふとんをかぶつて、あぐらをかいて手だけを上に差延べて通信しておりました関係上、原稿も何も残つておりません。
  
  そうして拿捕されまして、とうてい無理だと思うときに、ブリツジにたまが一発当りましたし、相手の船も相当早かつたものでありますから、とうてい見込がない、これ以上走つてみたところで、脱出はおぼつかないから、停止して取調べを受けた方が賢明だろうということになつて停止したところ、第一号はしけのため横づけされず、向うからレツド・ランプを振つて、第二大邦丸より曳航されるためのロープを渡したのであります。
 
 曳航状態に入りましてからも、第一大邦丸はまだ盛んに銃撃を受けておつたのでありますけれども、そのとき会社にあてて、けさ襲撃を受けてわれらはつかまつた、第一号もだめかもしれない、家族のことはよろしく頼む、その旨を発しまして、その後に、両船とも遂に拿捕されて申訳なしと、そういう旨の電報を発し、それから韓国の官憲が乗り込んで来ないのを幸いに、私は入港するまで、入港通知まで出したような次第であります。
 
  そを後翰林におきましての状態は、大体濱行船長と同じでありまして、その間に特務隊及び憲兵隊、情報隊において私一人が呼ばれまして、思想問題、宗教問題、それに日本の保安隊その他の状況について参考として意見を聞かれたわけであります。
  それに対してはありのままを述べておきました。そして二月の十日の夜済州島に着きまして、向うで留置されましたわけですが、翰林での取調べ及び済州での取調べにつきましては、みな船長と国じような取調べを受けましたし、翰林、済州におきましては、非常に私も強気に申しましたところ、取調べの刑事とテーブルをたたいて激論したのでありますけれども、そのときに査察課の係長らしい人に、どちらが取調べておるのかわからぬじやないかというような状態で、土間にすわらされたりしましたけれども、結局それだけ強硬に申し立ててもわれわれの言うことはいられず、われわれが操業していたのか領海内でなかつたために、その前に操業しておつたときに領海内に入つたというようなことをでつち上げて、それに無理やり捺印させられ、承認させられたわけであります。
  
  その後検事の手にも渡らず十五日出港をしましたけれども、その間に第一、第二昌運号の船長も翰林軟禁中はよく出入しておりましたが、そのとき聞いた話により、また向うの取調べ官の話によりますと、翰林の沖約十二マイルくらいのところで拿捕するときは、約六十メートルくらいのところにおいて停止命令を何回も発したということを聞いております。
  
  しかしながらわが第一、第二大邦丸は、この停止命令というものを全然聞いておらぬのであります。  その点を強硬につつぱつたところ、六十メートルではたして聞えたか聞えないか、そういう点についても向うは議論されておつたようでありましたけれども、結局聞えないだろう、そういうようなことを言われましたし、私が瀬戸漁勞長が負傷したことを聞きましたのも、翰林港に入港いたしましたときに、お前らが逃げるからこういう事件を惹起した。
  
  責任はお前たちにあると言われましたけれども、そうではない、撃たれた人間の本能として、自分の命を守るためにはだれだつて逃げるだろう、そういう点を主張しましたところ、向うとしても困りまして、結局あんまり一号を襲撃した方はたまを撃ち過ぎておるということを翰林の憲兵隊長も漏らしたくらい無惨なたまの撃たれ方をしているわけであります。
  
  そのほか取調べに際しましては、大きな声をもつてどなられたり、私みたいに反抗した者に対してはすわらされたりしましたけれども、たたくとか何とかいうことは全然なかつたようなわけであります、その他につきましても、大体船長が申し述べましたので、私としてはあとの質疑によりまして、お答えしたいと思います。

●証言を読んでの感想●
 これは戦争ではないのである。武装した韓国海軍が韓国漁船に乗り込み漁船を偽装して日本漁船に接近しいきなり自動小銃を執拗に乱射して乗員の命を奪うとう卑劣極まる殺人事件である。違法操業漁船を停船させ拿捕するという形式的にも手順を踏んだものではまったくない。相手は丸腰の日本の民間漁船である。それに対して朝鮮人の軍人が最接近して銃撃しむごたらしく殺すというのは軍人のやるべきことではない。まさに殺人鬼のする所業であり朝鮮民族というものの凶暴性、残忍性を抜きにして考えられない犯罪である。しかも拿捕した二隻の中を警察官が捜索しめぼしい操業設備や船員の所持品、金品をあさり強奪しているのである。これが朝鮮人軍人や朝鮮人官憲のすることだということを日本人はよく覚えておいたほうがいい。

 これに限らず日本がアメリカ進駐軍により軍事力を奪われていた戦後の一時期には朝鮮人は敗戦した日本人に対する暴虐、残虐な行為を数多く行っている。鬼畜朝鮮人の所業を日本人は絶対に忘れてはいけない。しかも未だこの残虐殺人事件についても韓国政府からの謝罪は一言もない。このような朝鮮人を日本人が許すことは永久にない。
 
 
★参考★上記証言を含む国会議事録全文
http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/sangiin/015/1076/01502231076001c.html