夢のない夢のはなし(^^♪ | 吾輩は吾輩である。

吾輩は吾輩である。

これ以上でもこれ以下でもない、湧いてくるものそのままに・・

中学生の頃から疑問だった・・それは、

寝ているときに見るアレと、

未来に描く希望等・・

その両方をなぜ、同じ字で「夢」と書き、「ゆめ」と発音するんだろう・・!?

一見、違うように思えるこの2つのモノ・・

共通点があるんだろうか・・!?

 

英語もそうだ、両方とも同じスペル、発音で「dream」だもんね。

 

ちゃんとした所以みたいなものを知らないまま、

あえて僕の推測を書いていくけど・・

 

例えば「哲学」なんて言葉は、

英語でフィロソフィーだっけ?とにかく西欧圏の言葉に対応する日本語がない中、

明治時代に生み出された訳語だったか・・と記憶してるけど、

「夢」という言葉はそうじゃないよね。

 

露と落ち露と消えにしわが身かな

なにわのことも夢のまた夢

 

豊臣秀吉の辞世の句といわれる歌の中にも出てくるし、

江戸時代初期の禅僧、沢庵が死の間際に書いた文字が「夢」だと聞いたこともあるし、

だいたい、漢字の発祥の地、中国では、

さらにそこから千年以上前の思想家の荘子の話として、

「胡蝶の夢」なんて話があるし。

 

僕の推測の結論から先に書くと、

「夢」という言葉は、ノンデュアリティの洞察の中で生まれた、

意味づけされた言葉なんじゃないかと思って。

 

寝ているときに見るモノと

未来に思い描くモノ・・

 

一見、違うように思えるけれど、

ともに「実体がない」ってことでは共通している・・。

先述した3人の偉人の言った「夢」も、

そういう意味合いとして、あたらずともとおからずじゃないかなぁって思って。

 

ノンデュアリティ―スピーカーさんは、

わたしがいる、わたしがやってる、わたしが選んでる・・っていう、

その「わたし」という分離感は幻想、「夢」のようなものだ・・

・・って言ってると思うんだけど、

この観点からいくと、「夢」という言葉の一般的なイメージとは少し違う、

本来の意味合いが浮き彫りになってくるというか・・

記事冒頭の疑問が消えて、その使われ方の辻褄があってくる・・

気がする・・チュー

 

だからどうということでもないんだけど笑い泣き