ギターを持ってこなかったことに後悔した。
背中に指を這わせるとそこにいつもあった重量感を思い出し、椿はこんなに軽いなんてとても信じられなかった。
無論、山中椿はギターを手にしていないときだってある、だがそんなときは心が落ち着いていられるときだ。
隆より随分先に目覚め着替えをしているときまでは、冷静だった、しかしふと鏡を見て歯磨きをしようとすると、どこからともなく逃げたいという衝動に駆られた。
椿は知っていた意識はするものじゃないと。だから制服のまま財布を片手にアパートを飛び出してからというもの、隆と初めて出会った土手まで歩いた。
いくら早朝であっても隆の家は市内の外れで徒歩で向かうと一時間はかかる。
しかし椿は歩き疲れたことも気づかなかった。
隆の妹である恵が土手の小道を友達と並走しているとき、椿は頭を下げ隠れて、数秒してから空腹と疲労が襲ってきた。
椿はぼんやりと川面を見つめながらとても悪いことをしたと思った。
しかし自分がいなくなってもだれも心配はしないだろうと、卑屈な考えで逃避した。
椿が向こう岸を眺めると木立の間から小鳥が飛び立った。
それは椿の目には輝いて見えた。どこにでもいけてそれを辛いとは感じない。あたしもそうなれればいいと思った。
椿は立ち上がりスカートについた砂埃を払った。
携帯電話の画面には美しい隆と可愛い椿が並んで映っていた。
初めて見た隆の本格的な女装に、心をときめかせたのはいうまでもない。
真紀は液晶画面に向かって軽く唇を寄せた。
寂しくないといえば嘘になる。だが隆に自分は認められたということが何より嬉しかった。互いに辛く歪んだ部分はあるが、それがなんだというのだろう。
「恋に型なんてないのよ、だって真紀は椿ちゃんのことも好きだもの」
真紀がそう言うと、小城舞は柔和な笑みを作った。
「真紀さん……本当に久しぶりに笑いましたね……私は」
と、ここで声が途切れ涙があふれる舞、
「舞ちゃん真紀はね、やっと二人に信頼されたってことが嬉しい、だからどんなことがあってもこの子たちと戦いたい、今は答えはでないけれどね……世界は回っているから、置いて行かれちゃう、だから三人で手を繋ぎたいの、わたしおかしい、変?」
真紀がそう言って、舞が力いっぱい抱きしめると、
「もうわたし泣かないよ、だってもったいないし涙がね、変わりに舞ちゃんが泣いてね」 舞は嗚咽を漏らし始めた。
「私は……真紀さんに恨まれて当然なのに……鞘としてのプロデュースは凸凹バンドを絡ませず、インターネットにアップロードした豊漁祭の動画をすぐ削除して……もし『凸凹』の曲がこれ以上有名になったら、シングル化を鞘名義で――」
真紀はゆっくりと息を吐いた。
「気づいてたし、そうなるかもしれないってことは理解してた、だから真紀は現実は残酷だって椿ちゃんにも言ったよ、でももうやめてくれる? 真紀悲しくなるから」
「わかりました!」
舞は涙を拭いながら言った。そして落ち着きを少し取り戻すと空咳をし、
「明日はコンサートです。よろしいですね?」
と、続けた。すると真紀はにやりと笑って、男の顔になった。
「気合い入れていくぜぇ!」
そう言った。
少し肌寒い日には
クローゼットの奥を眺めて
貴方がくれたコートを手に取る
私はため息とともに
それを手放して
別れてからの歳月を数える
その歳月は少し型崩れしたコートが教えてくれた
身近に捨てられない物があって
巡る季節に
消える思いの中
あなたがくれた物だけは
まだ私の手の中にある
休日にでもなれば
人ごみの中に貴方がいるんじゃないかって
新しい彼の車で遠出をすれば
渋滞の中貴方の車の車種を追いかけたりして
私はときどき思ういつから私の視線は
こうも固定されてしまったのかって
十代の頃はピンク色のコーチのバッグを買って
喜んでいたのに
歳が経つにつれて
私の視線の向かう先は決まってしまう
やっかいな恋に
やっかないな仕事
あげくの果てには
やっかいな飲み会
変わらない気持ちがあって
五年十年と積み重なる中
当時の私だけは知らなかった
こんなにも貴方というものに奪われてしまうなんて
着るものなんか決まってくるし
ときどき癒しという名目の
マッサージは何かを刺激している気がする
でもそれは気のせい気のせい
都会っていう空しさがあるように
いつからか私の中には寂しさがあった
それは固定され普段は抑圧されているのだけれど
躓いたときや
よし頑張るぞと前向きになった瞬間にやってくる
だから普段の私は偽物だ
そのときに限って
視線が固定され縛られていることに気づくのだからね
夕暮れ時になると少しだけ憂鬱になるのだが、今日はその気持ちは不思議とわかなかった。椿はカーテンを開けて室内に迫る茜色の空をバックにしてギターをひいていた。
隆は少しだけ声量を下げて歌う。首からさげているノートに時折詞を書き込む。椿はレコーダーの録音スイッチを操作しながら、しかし襖が開いて母が顔を見せると椿の音はぴたりと止んだ。
「ただいま椿」
「おかえりなさいおばさん」
母はおずおずと椿の部屋に入り、畳の上に弁当を並べ始めた。
それを隆が手伝いながら、
「椿ちゃんも手伝って」
と、言ったが歯牙にもかけない。困った隆は椿が腰掛けているベットの上に弁当と飲料水を置いた。
母が入った途端に椿の表情は硬くなった。
母がしばらく所在なげにキョロキョロと部屋を見渡していると、軽蔑した目線を椿は投げかけた。隆は肝を冷やした。
「おばさん、椿ちゃんいただきましょう」
椿は無言で食べ始めた。
「隆君涼子さんには連絡を入れたわ、オーケーが出たわよ」
椿の眉はぴくりと動いた。
「じゃあ、ここに通ってもいいんですね?」
「ええいいわよ」
椿は箸を置いた。
「ママはこの部屋に入らないで、向こうにいって」
それだけ言うと箸を持ってまた弁当を食べ始めた。
「信頼ないのね私」
母は少しだけ上ずった声を出し唇を震わせた。
「おばさん、椿ちゃんはおばさんの負担を減らそうと思って言ってるんですよ、料理だったらわたしも頑張りますから」
椿は柳眉を上げて、
「うるさい隆だまりなさい!」
この一言で沈黙が落ちた。
食事が終わっても部屋からは一歩も外に出ようとはせず、隆が大掃除をしているというのに椿は部屋の中でただギターをひいていた。
隆と母は掃除をしながら重い雰囲気に潰されそうだった。椿の部屋から流れる音はもの悲しく孤独だった。
隆は畳に布団を敷いて、椿はベットの上で眠っていた。
どうあがこうともすぐには眠れない椿だったが、隆が今日は泊まると言って、初めの数時間緊張した時間を過ごした後、耐えられなくなったのか、ベットに入ってからは数分としないうちに眠りについた。
普段なら近くにある携帯電話が今日は遠い。
時計の針がゼロを過ぎて三時になると目が覚める者は椿の身近な存在では、二人いた。
このとき隆は何の意識もせずに椿の携帯電話を取った。半ばこうなることを予想していたのだ。何度も何度も考え初めに言う言葉はもう決めてあった。
隆は送話ボタンを押して言った。
「チェックチェックわたし 真紀です」
無言が続いた。受話器口からはむせび泣くような声が漏れていた。
「チェックチェック俺 隆です」
隆は思った。これ以上はもう無理だ。この思いをせき止めることができなくなってしまう。あふれ出したら最後、何も見えなくなってしまう。隆は唇を噛んで、電話をきった。
そして椿のメールの一番新しい件名を確認して、そこに映っていた自分と椿の写真を祈るような気持ちで真紀に送った。
会いたくて会いたくて、苦しくて苦しくて、それでもあなたは前に進んで行くのでしょう真紀、がんばって、わたしもあなたに届くように頑張るから。
隆は少しだけ声量を下げて歌う。首からさげているノートに時折詞を書き込む。椿はレコーダーの録音スイッチを操作しながら、しかし襖が開いて母が顔を見せると椿の音はぴたりと止んだ。
「ただいま椿」
「おかえりなさいおばさん」
母はおずおずと椿の部屋に入り、畳の上に弁当を並べ始めた。
それを隆が手伝いながら、
「椿ちゃんも手伝って」
と、言ったが歯牙にもかけない。困った隆は椿が腰掛けているベットの上に弁当と飲料水を置いた。
母が入った途端に椿の表情は硬くなった。
母がしばらく所在なげにキョロキョロと部屋を見渡していると、軽蔑した目線を椿は投げかけた。隆は肝を冷やした。
「おばさん、椿ちゃんいただきましょう」
椿は無言で食べ始めた。
「隆君涼子さんには連絡を入れたわ、オーケーが出たわよ」
椿の眉はぴくりと動いた。
「じゃあ、ここに通ってもいいんですね?」
「ええいいわよ」
椿は箸を置いた。
「ママはこの部屋に入らないで、向こうにいって」
それだけ言うと箸を持ってまた弁当を食べ始めた。
「信頼ないのね私」
母は少しだけ上ずった声を出し唇を震わせた。
「おばさん、椿ちゃんはおばさんの負担を減らそうと思って言ってるんですよ、料理だったらわたしも頑張りますから」
椿は柳眉を上げて、
「うるさい隆だまりなさい!」
この一言で沈黙が落ちた。
食事が終わっても部屋からは一歩も外に出ようとはせず、隆が大掃除をしているというのに椿は部屋の中でただギターをひいていた。
隆と母は掃除をしながら重い雰囲気に潰されそうだった。椿の部屋から流れる音はもの悲しく孤独だった。
隆は畳に布団を敷いて、椿はベットの上で眠っていた。
どうあがこうともすぐには眠れない椿だったが、隆が今日は泊まると言って、初めの数時間緊張した時間を過ごした後、耐えられなくなったのか、ベットに入ってからは数分としないうちに眠りについた。
普段なら近くにある携帯電話が今日は遠い。
時計の針がゼロを過ぎて三時になると目が覚める者は椿の身近な存在では、二人いた。
このとき隆は何の意識もせずに椿の携帯電話を取った。半ばこうなることを予想していたのだ。何度も何度も考え初めに言う言葉はもう決めてあった。
隆は送話ボタンを押して言った。
「チェックチェックわたし 真紀です」
無言が続いた。受話器口からはむせび泣くような声が漏れていた。
「チェックチェック俺 隆です」
隆は思った。これ以上はもう無理だ。この思いをせき止めることができなくなってしまう。あふれ出したら最後、何も見えなくなってしまう。隆は唇を噛んで、電話をきった。
そして椿のメールの一番新しい件名を確認して、そこに映っていた自分と椿の写真を祈るような気持ちで真紀に送った。
会いたくて会いたくて、苦しくて苦しくて、それでもあなたは前に進んで行くのでしょう真紀、がんばって、わたしもあなたに届くように頑張るから。
