津田美咲は、ホームルームが終わっても浮かない顔で立ち上がろうとしない良太をただ見つめていた。以前は隣の席だったが今は、三列ほど左に良太の席はあった。
「美咲、帰られないの?」
と、声をかけられたが、
「ちょっと用事があるから先に帰って、ごめんね」
「わかった、バイバイ」
教室にだれもいなくなると美咲はおもむろに立ち上がった。そして良太の傍らまで行くと声をかけた。
「良太君、帰らないの?」
「うん、今日は少し遅れて帰る」
「バンドの練習休みなんだ」
良太は一瞬考えてから、
「あ、うん、じつはそうなんだ」
「橋本君は……?」
「知らない」
美咲は口には出さないが何となく事情は察した。こんなことで埋め合わせることがでいないことはわかってるが、凸凹バンドと良太を切り離したくないと思った。
「それなら良太君、一緒に帰らない? まだ前の約束は有効だよね?」
「前の約束?」
「ひどいよ一緒に遊ぶって言ったのに」
「ごめん美咲さん、今からでもそれ遅くないかな?」
美咲はにっこりと笑って、それを答えにした。
スタジオはひっそりとしていた。それは凸凹バンドのメンバーが二人、いや正確に表すなら三人足りていないからだ。
恭介はドラムスローンに座り所在なげに椿はギターを抱えたまま腕を組んでいた。
「山中ごめん、良太君がサボるなんて思いもしなかった」
「良太だけじゃないわ、隆も帰って来て部屋にこもって出てこないのよ」
「二人だけでも練習しよう」
「リーダーのあたしがいけないの、隆が豹変して、どうすることもできないから」
「俺、良太君にきつくいいすぎた、良太君は俺が登校拒否になっても傍に居てくれたのに」
「でも恭介は、良太のためを思って突き放すようなことを言ったんでしょう。やり方が違うだけで間違ってはいないわよ」
「山中……ありがとう」
「隆とあたしは違う。凸凹バンドを組む前は次に会ったとき絶対的にあたしが隆を支えるんだって思ってた、なのにあたし……何もできていない」
恭介は立ち上がった。
「山中は家事洗濯をこなして、隆君の考えや思想を肯定できてた……俺、難しいことはよくわからないけど、それは山中にしかできないことだと思う」
椿は壁際から恭介の方へと身体の向きを変え、しっかりと恭介を視界に収めた。
「恭介は冷静で努力家なのね、それによく人を観察できてる」
恭介は拳を開いたり閉じたりした。
「俺が――俺がよく見てるのは」
丁度恭介の鼓動が高鳴り、口を大きく開けたとき、椿はギターを弾き始めた。恭介の声はギターの音にかき消されていった。
コスモスタウンフリーモールの中央に位置する公園のブランコに美咲と良太は腰掛けていた。二人はフリーモールで遊び疲れたあと、あたりが暗くなるとこの公園に入ったのだった。
「楽しかったぁ」
「でも、良太君はずっと、心ここにあらずって感じだったね、わたしには言えないかな? その悩み」
良太は軽く足を蹴ってブランコを揺らした。しばらくしてブランコを止めて、
「撲、恭ちゃんと同じクラスになれなくて学校がつまらなくなって、今想えば、毎日愚痴ってばっかりだったと思う」
美咲は静かに耳をかたむけた。
「恭ちゃんが朝、怒鳴ったときびっくりしちゃって、どうして撲の気持ちがわからないんだろうって、撲、前髪を切って変わったなんて言ったけど、人がよく見えるようになった分だけその人の顔を見て話すようになって、やっぱり怖いんだよね、だから……何も変わってないんだ。弱くてオタクな撲のままなんだ」
美咲はブランコから降りて良太の前に立った。
「じゃあわたしと話せている良太君は偽物?」
良太は首を横に振った。
「でもやっぱり恭ちゃんがいないと撲――」
「橋本君と良太君は親友でしょ、それは変わらないことだよね?」
首を縦に振る良太。
「わたしと良太君だって友達、前は友達じゃなかった。そうやって少しずつ続いていけばいいと思うよ。良太君とクラスのみんな、その中にはきっと良太君と友達になれる人もいるよ」
「撲には無理だよ」
「無理じゃないよ、わたしたちだって前は仲良くなかったし、でも今はこうして」
美咲はそう言って良太の腕を握った。
「手を繋ぐこともできるよ」
「うん……」
「橋本君はきっとそう言うことを言いたかったんじゃないのかなぁ、良太君のことを嫌いになってるわけじゃないし、良太君って本当はとても人なつっこいと思うから、良い部分を伸ばして欲しいんだよ」
「撲がひとなつっこい?」
「だって良太君の笑顔って、とっても素敵だよ、だから美咲は良太君のことが好きになったんだよ」
美咲はそう言って俯いた。
「ありがとう撲も美咲さんのことは好きだよ」
良太は笑顔でブイサインを作った。
「良太君って自分を客観的にみれない人だね、鏡をよく見て今のその仕草をして」
美咲はそう言ってひとしきり笑った。
不思議とすれ違いは起きなかった。
中学生である椿と隆は土手にどちらかがいれば、その後すぐ三十分もしないで二人揃って曲作りに励んだ。
陽光が西に傾き雑草は光っている。小道をヘルメットを被った同級生の女子が三人三角形に列をなし談笑して通り過ぎようとしていた。会話の内容はというと、
「めんどくさいテスト勉強」
「ねぇそんなことより昨日のドラマ見た?」
「あんた勉強してる? また外出禁止に――」
「お願いだから現実逃避させてぇ」
隆と椿が石段に座り作曲を行っていると三人の中学生は、横目で二人を確認しつつも、「ねぇ今日ノートうつさせて」
「勘弁してよねぇ、今からじゃもう無理」
「やっぱり気が変わった。ノートうつす」
女子生徒たちは通り過ぎていった。隆たちと女子生徒たちはそう離れている距離ではない、女子生徒の自転車の荷台に入れてある鞄と隆が後ろに放り投げている鞄は同じ物だった。
「おまえ気が利くな、テープレコダーがあると便利だぞ」
「隆は今までどうしてたの?」
椿はギターの弦から手を離しテープレコダーの録音を解除した。
「詞はこのノートに書く」
「それから?」
隆は一度椿を見てから首から下げているノートに文字を書き込んだ。
「それで終わり」
「終わりって……広大さん何か言わない?」
「何もいわねぇ、母さんは横でいつも聞いてる」
椿は腕を組んで考えた。広大はあえて曲を録音させないでいるのだろうか?
「これからはあたしが、この白くて可愛いテープレコダーで録音するわよ。それでいい?」 隆は上の空で椿の話しを聞いていない。
「隆! 聞いてるの?」
「いいんじゃねぇの?」
「おまえ変なことにこだわるやつだな……」
「あたしは有名になりたいのよ。そうすれば同じ空の下にいる父さんが、あたしのことをみてくれるかもしれないから」
椿は首を振って空を見上げた。午後の日差しがとても眩しかった。
恭介はつまらそうに登校している良太を励まそうとはしなかった。ことあるごとに愚痴をこぼしてくる良太、今はバンドメンバーと松尾がいるので、そうしつこくはないが、交差点に来るまでに良太は何度も同じ事を繰り返した。「学校には行きたくない」と。
良太のモチベーションの低下、隆の歌うことへの拒否、凸凹バンドの危機をどうやって乗り越えればいいのだろうか? そんなことを考えていた。
「恭介大丈夫か?」
「松尾ならどうする? 隆君を歌わせた超本人。クリスマスライブで裏工作した」
「ひでぇな裏工作とか……」
恭介は肩を揺らして笑った。
「こう、縁の下の力持ち的な……俺にもできるかな?」
松尾は馴れ馴れしく恭介の肩に手を回した。
「俺様は隆を歌わせるためには何だってした、それはなぜかわかるか?」
恭介は考えたが答えはでないので首を横に振った。
「まず第一にあいつら二人の一番のファンだからだ。だれが何と言おうとそれは変わらない、恭介は、同じメンバーでやってきたよな、初めてあいつの歌を山中のギターを聞いたときのこと忘れたんじゃねぇ?」
恭介は腕を組んだ。そして先頭を手を繋ぎ歩く隆と椿の背中を見つめた。初めはおどおどとし良太なしでは会話も成り立たなかった。しかし今はどうだろうか? 隆と話すことに一定の距離感を感じているだろうか?
(もしかしたら一番大事なことを忘れていたのかも知れない俺)
「松尾ありがとう!」
と、恭介に言っていると良太は恭介に甘えるように言った。
「松尾君にクラス変わってって言ってよ……」
恭介はそんな良太を見つめた。
「変われるわけない!」
少しだけ大きな声だった、良太は恭介の以外な言動にびくりと身体を震わせた。そして言った。
「俺も隆君の歌を聞きたい、他の人もきっと聴きたい」
「恭介、何かに行き詰まったら常にそうやって初心に戻れ」
恭介はゆっくりと頭を下げうなずいた。
「良太君に協力してもらわないと」
「何やら考えがありそうだなぁ? 俺様にも聞かせろよ」
恭介は松尾の耳元で囁くように言った。
中学生である椿と隆は土手にどちらかがいれば、その後すぐ三十分もしないで二人揃って曲作りに励んだ。
陽光が西に傾き雑草は光っている。小道をヘルメットを被った同級生の女子が三人三角形に列をなし談笑して通り過ぎようとしていた。会話の内容はというと、
「めんどくさいテスト勉強」
「ねぇそんなことより昨日のドラマ見た?」
「あんた勉強してる? また外出禁止に――」
「お願いだから現実逃避させてぇ」
隆と椿が石段に座り作曲を行っていると三人の中学生は、横目で二人を確認しつつも、「ねぇ今日ノートうつさせて」
「勘弁してよねぇ、今からじゃもう無理」
「やっぱり気が変わった。ノートうつす」
女子生徒たちは通り過ぎていった。隆たちと女子生徒たちはそう離れている距離ではない、女子生徒の自転車の荷台に入れてある鞄と隆が後ろに放り投げている鞄は同じ物だった。
「おまえ気が利くな、テープレコダーがあると便利だぞ」
「隆は今までどうしてたの?」
椿はギターの弦から手を離しテープレコダーの録音を解除した。
「詞はこのノートに書く」
「それから?」
隆は一度椿を見てから首から下げているノートに文字を書き込んだ。
「それで終わり」
「終わりって……広大さん何か言わない?」
「何もいわねぇ、母さんは横でいつも聞いてる」
椿は腕を組んで考えた。広大はあえて曲を録音させないでいるのだろうか?
「これからはあたしが、この白くて可愛いテープレコダーで録音するわよ。それでいい?」 隆は上の空で椿の話しを聞いていない。
「隆! 聞いてるの?」
「いいんじゃねぇの?」
「おまえ変なことにこだわるやつだな……」
「あたしは有名になりたいのよ。そうすれば同じ空の下にいる父さんが、あたしのことをみてくれるかもしれないから」
椿は首を振って空を見上げた。午後の日差しがとても眩しかった。
恭介はつまらそうに登校している良太を励まそうとはしなかった。ことあるごとに愚痴をこぼしてくる良太、今はバンドメンバーと松尾がいるので、そうしつこくはないが、交差点に来るまでに良太は何度も同じ事を繰り返した。「学校には行きたくない」と。
良太のモチベーションの低下、隆の歌うことへの拒否、凸凹バンドの危機をどうやって乗り越えればいいのだろうか? そんなことを考えていた。
「恭介大丈夫か?」
「松尾ならどうする? 隆君を歌わせた超本人。クリスマスライブで裏工作した」
「ひでぇな裏工作とか……」
恭介は肩を揺らして笑った。
「こう、縁の下の力持ち的な……俺にもできるかな?」
松尾は馴れ馴れしく恭介の肩に手を回した。
「俺様は隆を歌わせるためには何だってした、それはなぜかわかるか?」
恭介は考えたが答えはでないので首を横に振った。
「まず第一にあいつら二人の一番のファンだからだ。だれが何と言おうとそれは変わらない、恭介は、同じメンバーでやってきたよな、初めてあいつの歌を山中のギターを聞いたときのこと忘れたんじゃねぇ?」
恭介は腕を組んだ。そして先頭を手を繋ぎ歩く隆と椿の背中を見つめた。初めはおどおどとし良太なしでは会話も成り立たなかった。しかし今はどうだろうか? 隆と話すことに一定の距離感を感じているだろうか?
(もしかしたら一番大事なことを忘れていたのかも知れない俺)
「松尾ありがとう!」
と、恭介に言っていると良太は恭介に甘えるように言った。
「松尾君にクラス変わってって言ってよ……」
恭介はそんな良太を見つめた。
「変われるわけない!」
少しだけ大きな声だった、良太は恭介の以外な言動にびくりと身体を震わせた。そして言った。
「俺も隆君の歌を聞きたい、他の人もきっと聴きたい」
「恭介、何かに行き詰まったら常にそうやって初心に戻れ」
恭介はゆっくりと頭を下げうなずいた。
「良太君に協力してもらわないと」
「何やら考えがありそうだなぁ? 俺様にも聞かせろよ」
恭介は松尾の耳元で囁くように言った。
楽屋で弁当を食べている真紀、鏡越しに自分のその姿とやつれた小城舞の姿が見える。真紀が改名する前は二人は会話が途切れようとも、互いの心がざわつくようなことなどなかったが、今は少々事情が異なっていた。真紀は睨むように鏡を見つめまるで自身を抑える猛獣のような目つきだった。舞の口が少し開いた。
「真紀さん……」
何かを言いかけて口ごもった。真紀は唇を噛みしめていた。そして舞は表情を消して言った。
「次の仕事まであまり時間がありません。急いでください」
「わかってるさ前と違って今は分刻みのスケジュールなんだからな」
真紀がそう吐き捨てるように言うと、舞は瞬きをして、
「真紀さん休みが少しは取れるように調整しましょうか?」
「やめてくれ! 今はこれでいい」
「わかりました。しかしそのときは私に言ってください。どういうことでもしますから」
真紀は頭に手をついてテーブルに肘をついた。そして懇願するように言った。
「チェックチェック、舞ちゃん――真紀がこの変身を解くと隆君に会いたくて会いたくて会いたくて……仕方なくなると思うのだから……ね?」
舞は唇を噛んだ。
「わかりました。それでは行きましょう私は外で待っていますから」
そう言って扉を開けた。
真紀は両手で顔を覆った。透明な液体は次から次へと流れ出ていった。
椿は眠りに落ちている隆を見つめていた。今も腕を握って放そうとしない隆。
バンドの練習は途中で中断されてしまった。隆が歌うということを拒んでいるのだ。仕方がないので隆を見学させ、楽器の練習に終始した。
椿は考えていた。もし自分が隆と引き離され、会うことができなくなればどうなるだろうと、(あたしならきっと耐えられない)絶好したといっても毎日顔を見ることはできたし恵や松尾を通じて隆のことを聞くことができたのだ。それもあってか身近に感じることができていたのだ。真紀は大丈夫だろうか? テレビをつければ何時だって鞘が映ってる。無理をしていなければいい。椿は今日は眠らずに起きていようと思った。
三時になると電話は鳴った。椿はワンコールで電話に出た。
「今日は待ってたわよ真紀」
「嬉しい」
「やっぱり隆は駄目みたい、歌うことを拒んでるのよ、あたしどうすればいいのかもう……」
「隆君と真紀は別れているわけじゃない。勘違いをしてるんだよ」
「わかってるわよ……でも隆はもう真紀に会えないと思ってるのよ」
しばらく真紀からの応答はなかった。
「隆君に会いたいに決まってるよ……でも! 今会ってスクープでもされたら、鞘としてやっていけない! 髪を切って情報操作をした意味もなくなっちゃうよ! 隆君を守れなくなる!」
受話器からは真紀の嗚咽が漏れた。
「真紀……あなたも辛いのね……」
「でもね椿ちゃん、隆君にはいっぱい真紀、もらったから沢山の思いをもらったから、やっていける。もう弱音は吐かないね」
「あたしにはいいのよ親友だし」
「ありがとうでも、椿ちゃんのことも隆君と同じように好きだから、椿ちゃんの気持ちもわかるからもう言わない。真紀欲張りだから」
椿は受話器を抱えたまま固まった。
「それじゃ、椿ちゃん明日からはこの真紀はもういないから」
「真紀っ!」
そうして電話は終わった。椿はベットの端で膝を抱えた。
深い夜が迫ってきて苦しくなった。
キーホルダーを握り閉め目を閉じ遠い日のことを思い描いた。
室内には怒声が響いた。隆は年長者である高校生に対して、殴りかかった。隆は同じロックを愛する者として恥ずかしいと思ったのだ。しかし中学生である隆が背格好も力も違う高校生にかなうわけもなく、隆はスタジオの隅に転がった。
「もうこいつの機嫌を取るのもうんざりだ。ちょっとギターがうまいと思って調子に乗りやがって、こんなくそがき連れてくるなんてよ」
椿は隆を庇うように立って殴った張本人である高校生のドラムの男を睨みつけた。
「あなたたち恥ずかしくないの? 年上でしょ技術もたいしたことないのに口と手は早いのね」
「なぁ、もうそろそろ潮時だろ中学生の機嫌とるのやめようぜ」
ドラムの男は後ろに控えているメンバーに目をやって言った。
「椿ちゃんには悪いけど撲もやめるよ」
「ごめんね、椿ちゃん」
気の短いドラムの男につられるように一人また一人とスタジオをでてゆく。
「こっちからやめてやらぁ」
隆はドラムの男の背中に向かって言った。
スタジオは二回の構造になっており室内は硝子張りなので外の様子が、椿と隆の位置からでも見えた。高校生三人は楽器店の扉を開けると、自転車に乗って帰っていった。
静まり返る室内。隆は切れた唇を腕の甲で拭っていた。
「あなたって協調性ないんだから」
「あいつらがわりぃんだろ、椿あれを口だけって言うんだ」
「わかてるわよでもね、そんなこと言ってたらだれともバンド組めないわよ。あたし言ったでしょう初めに有象無象かって」
椿はポケットからハンカチを取り出すと隆の口に当てた。
「いてぇなぁ」
「我慢しなさいよね」
隆は椿から顔を背け、椿の手は口を追いかけた。ゆっくりと口を開く隆。
「悪かったな……ぶち壊しにして」
椿はハンカチを折りたたみ綺麗な場所で隆の口を拭きながら、
「何だかすっきりしたわ、あたしもね思いはあなたと同じよ、情熱もないし技術もないあいつらとは続かないと思ってた。でも――あたしにはここしかなかったし、自分で探すしかなかったから」
「ごめんな……これからは俺達は二人でやっていこう、曲を作るときも二人の名前を必ず載せるんだ」
「それって……」
「そうそう」
隆は恥ずかしそうに鼻をこすった。
「俺は妥協ってやつが一番嫌いだ。おまえとならやれる」
椿は顔を下に下げしばらくして、隆の隣に腰を下ろした、そして天井を見上げて言った。「ねぇあなたって夜が迫ってくるときってない?」
「真紀さん……」
何かを言いかけて口ごもった。真紀は唇を噛みしめていた。そして舞は表情を消して言った。
「次の仕事まであまり時間がありません。急いでください」
「わかってるさ前と違って今は分刻みのスケジュールなんだからな」
真紀がそう吐き捨てるように言うと、舞は瞬きをして、
「真紀さん休みが少しは取れるように調整しましょうか?」
「やめてくれ! 今はこれでいい」
「わかりました。しかしそのときは私に言ってください。どういうことでもしますから」
真紀は頭に手をついてテーブルに肘をついた。そして懇願するように言った。
「チェックチェック、舞ちゃん――真紀がこの変身を解くと隆君に会いたくて会いたくて会いたくて……仕方なくなると思うのだから……ね?」
舞は唇を噛んだ。
「わかりました。それでは行きましょう私は外で待っていますから」
そう言って扉を開けた。
真紀は両手で顔を覆った。透明な液体は次から次へと流れ出ていった。
椿は眠りに落ちている隆を見つめていた。今も腕を握って放そうとしない隆。
バンドの練習は途中で中断されてしまった。隆が歌うということを拒んでいるのだ。仕方がないので隆を見学させ、楽器の練習に終始した。
椿は考えていた。もし自分が隆と引き離され、会うことができなくなればどうなるだろうと、(あたしならきっと耐えられない)絶好したといっても毎日顔を見ることはできたし恵や松尾を通じて隆のことを聞くことができたのだ。それもあってか身近に感じることができていたのだ。真紀は大丈夫だろうか? テレビをつければ何時だって鞘が映ってる。無理をしていなければいい。椿は今日は眠らずに起きていようと思った。
三時になると電話は鳴った。椿はワンコールで電話に出た。
「今日は待ってたわよ真紀」
「嬉しい」
「やっぱり隆は駄目みたい、歌うことを拒んでるのよ、あたしどうすればいいのかもう……」
「隆君と真紀は別れているわけじゃない。勘違いをしてるんだよ」
「わかってるわよ……でも隆はもう真紀に会えないと思ってるのよ」
しばらく真紀からの応答はなかった。
「隆君に会いたいに決まってるよ……でも! 今会ってスクープでもされたら、鞘としてやっていけない! 髪を切って情報操作をした意味もなくなっちゃうよ! 隆君を守れなくなる!」
受話器からは真紀の嗚咽が漏れた。
「真紀……あなたも辛いのね……」
「でもね椿ちゃん、隆君にはいっぱい真紀、もらったから沢山の思いをもらったから、やっていける。もう弱音は吐かないね」
「あたしにはいいのよ親友だし」
「ありがとうでも、椿ちゃんのことも隆君と同じように好きだから、椿ちゃんの気持ちもわかるからもう言わない。真紀欲張りだから」
椿は受話器を抱えたまま固まった。
「それじゃ、椿ちゃん明日からはこの真紀はもういないから」
「真紀っ!」
そうして電話は終わった。椿はベットの端で膝を抱えた。
深い夜が迫ってきて苦しくなった。
キーホルダーを握り閉め目を閉じ遠い日のことを思い描いた。
室内には怒声が響いた。隆は年長者である高校生に対して、殴りかかった。隆は同じロックを愛する者として恥ずかしいと思ったのだ。しかし中学生である隆が背格好も力も違う高校生にかなうわけもなく、隆はスタジオの隅に転がった。
「もうこいつの機嫌を取るのもうんざりだ。ちょっとギターがうまいと思って調子に乗りやがって、こんなくそがき連れてくるなんてよ」
椿は隆を庇うように立って殴った張本人である高校生のドラムの男を睨みつけた。
「あなたたち恥ずかしくないの? 年上でしょ技術もたいしたことないのに口と手は早いのね」
「なぁ、もうそろそろ潮時だろ中学生の機嫌とるのやめようぜ」
ドラムの男は後ろに控えているメンバーに目をやって言った。
「椿ちゃんには悪いけど撲もやめるよ」
「ごめんね、椿ちゃん」
気の短いドラムの男につられるように一人また一人とスタジオをでてゆく。
「こっちからやめてやらぁ」
隆はドラムの男の背中に向かって言った。
スタジオは二回の構造になっており室内は硝子張りなので外の様子が、椿と隆の位置からでも見えた。高校生三人は楽器店の扉を開けると、自転車に乗って帰っていった。
静まり返る室内。隆は切れた唇を腕の甲で拭っていた。
「あなたって協調性ないんだから」
「あいつらがわりぃんだろ、椿あれを口だけって言うんだ」
「わかてるわよでもね、そんなこと言ってたらだれともバンド組めないわよ。あたし言ったでしょう初めに有象無象かって」
椿はポケットからハンカチを取り出すと隆の口に当てた。
「いてぇなぁ」
「我慢しなさいよね」
隆は椿から顔を背け、椿の手は口を追いかけた。ゆっくりと口を開く隆。
「悪かったな……ぶち壊しにして」
椿はハンカチを折りたたみ綺麗な場所で隆の口を拭きながら、
「何だかすっきりしたわ、あたしもね思いはあなたと同じよ、情熱もないし技術もないあいつらとは続かないと思ってた。でも――あたしにはここしかなかったし、自分で探すしかなかったから」
「ごめんな……これからは俺達は二人でやっていこう、曲を作るときも二人の名前を必ず載せるんだ」
「それって……」
「そうそう」
隆は恥ずかしそうに鼻をこすった。
「俺は妥協ってやつが一番嫌いだ。おまえとならやれる」
椿は顔を下に下げしばらくして、隆の隣に腰を下ろした、そして天井を見上げて言った。「ねぇあなたって夜が迫ってくるときってない?」