楽屋で弁当を食べている真紀、鏡越しに自分のその姿とやつれた小城舞の姿が見える。真紀が改名する前は二人は会話が途切れようとも、互いの心がざわつくようなことなどなかったが、今は少々事情が異なっていた。真紀は睨むように鏡を見つめまるで自身を抑える猛獣のような目つきだった。舞の口が少し開いた。
「真紀さん……」
何かを言いかけて口ごもった。真紀は唇を噛みしめていた。そして舞は表情を消して言った。
「次の仕事まであまり時間がありません。急いでください」
「わかってるさ前と違って今は分刻みのスケジュールなんだからな」
真紀がそう吐き捨てるように言うと、舞は瞬きをして、
「真紀さん休みが少しは取れるように調整しましょうか?」
「やめてくれ! 今はこれでいい」
「わかりました。しかしそのときは私に言ってください。どういうことでもしますから」
真紀は頭に手をついてテーブルに肘をついた。そして懇願するように言った。
「チェックチェック、舞ちゃん――真紀がこの変身を解くと隆君に会いたくて会いたくて会いたくて……仕方なくなると思うのだから……ね?」
舞は唇を噛んだ。
「わかりました。それでは行きましょう私は外で待っていますから」
そう言って扉を開けた。
真紀は両手で顔を覆った。透明な液体は次から次へと流れ出ていった。
椿は眠りに落ちている隆を見つめていた。今も腕を握って放そうとしない隆。
バンドの練習は途中で中断されてしまった。隆が歌うということを拒んでいるのだ。仕方がないので隆を見学させ、楽器の練習に終始した。
椿は考えていた。もし自分が隆と引き離され、会うことができなくなればどうなるだろうと、(あたしならきっと耐えられない)絶好したといっても毎日顔を見ることはできたし恵や松尾を通じて隆のことを聞くことができたのだ。それもあってか身近に感じることができていたのだ。真紀は大丈夫だろうか? テレビをつければ何時だって鞘が映ってる。無理をしていなければいい。椿は今日は眠らずに起きていようと思った。
三時になると電話は鳴った。椿はワンコールで電話に出た。
「今日は待ってたわよ真紀」
「嬉しい」
「やっぱり隆は駄目みたい、歌うことを拒んでるのよ、あたしどうすればいいのかもう……」
「隆君と真紀は別れているわけじゃない。勘違いをしてるんだよ」
「わかってるわよ……でも隆はもう真紀に会えないと思ってるのよ」
しばらく真紀からの応答はなかった。
「隆君に会いたいに決まってるよ……でも! 今会ってスクープでもされたら、鞘としてやっていけない! 髪を切って情報操作をした意味もなくなっちゃうよ! 隆君を守れなくなる!」
受話器からは真紀の嗚咽が漏れた。
「真紀……あなたも辛いのね……」
「でもね椿ちゃん、隆君にはいっぱい真紀、もらったから沢山の思いをもらったから、やっていける。もう弱音は吐かないね」
「あたしにはいいのよ親友だし」
「ありがとうでも、椿ちゃんのことも隆君と同じように好きだから、椿ちゃんの気持ちもわかるからもう言わない。真紀欲張りだから」
椿は受話器を抱えたまま固まった。
「それじゃ、椿ちゃん明日からはこの真紀はもういないから」
「真紀っ!」
そうして電話は終わった。椿はベットの端で膝を抱えた。
深い夜が迫ってきて苦しくなった。
キーホルダーを握り閉め目を閉じ遠い日のことを思い描いた。
室内には怒声が響いた。隆は年長者である高校生に対して、殴りかかった。隆は同じロックを愛する者として恥ずかしいと思ったのだ。しかし中学生である隆が背格好も力も違う高校生にかなうわけもなく、隆はスタジオの隅に転がった。
「もうこいつの機嫌を取るのもうんざりだ。ちょっとギターがうまいと思って調子に乗りやがって、こんなくそがき連れてくるなんてよ」
椿は隆を庇うように立って殴った張本人である高校生のドラムの男を睨みつけた。
「あなたたち恥ずかしくないの? 年上でしょ技術もたいしたことないのに口と手は早いのね」
「なぁ、もうそろそろ潮時だろ中学生の機嫌とるのやめようぜ」
ドラムの男は後ろに控えているメンバーに目をやって言った。
「椿ちゃんには悪いけど撲もやめるよ」
「ごめんね、椿ちゃん」
気の短いドラムの男につられるように一人また一人とスタジオをでてゆく。
「こっちからやめてやらぁ」
隆はドラムの男の背中に向かって言った。
スタジオは二回の構造になっており室内は硝子張りなので外の様子が、椿と隆の位置からでも見えた。高校生三人は楽器店の扉を開けると、自転車に乗って帰っていった。
静まり返る室内。隆は切れた唇を腕の甲で拭っていた。
「あなたって協調性ないんだから」
「あいつらがわりぃんだろ、椿あれを口だけって言うんだ」
「わかてるわよでもね、そんなこと言ってたらだれともバンド組めないわよ。あたし言ったでしょう初めに有象無象かって」
椿はポケットからハンカチを取り出すと隆の口に当てた。
「いてぇなぁ」
「我慢しなさいよね」
隆は椿から顔を背け、椿の手は口を追いかけた。ゆっくりと口を開く隆。
「悪かったな……ぶち壊しにして」
椿はハンカチを折りたたみ綺麗な場所で隆の口を拭きながら、
「何だかすっきりしたわ、あたしもね思いはあなたと同じよ、情熱もないし技術もないあいつらとは続かないと思ってた。でも――あたしにはここしかなかったし、自分で探すしかなかったから」
「ごめんな……これからは俺達は二人でやっていこう、曲を作るときも二人の名前を必ず載せるんだ」
「それって……」
「そうそう」
隆は恥ずかしそうに鼻をこすった。
「俺は妥協ってやつが一番嫌いだ。おまえとならやれる」
椿は顔を下に下げしばらくして、隆の隣に腰を下ろした、そして天井を見上げて言った。「ねぇあなたって夜が迫ってくるときってない?」