ウレハ二章 ep4 父であり母であり | 長編物語ブログ

長編物語ブログ

 うんざりするほど長い物語です。
 でも不思議と中毒性があるかもしれません。
 
 
<チームイミタン>
イラスト担当:t2 文章担当:イミタン

 椿はセイウチのキーホルダーで部屋の鍵を開けた。リビングに続く扉を開け、冷蔵庫の中身を確かめた。案の定何もなかった。今からでは安売りの時間帯には少し早いので埃を被った部屋を掃除しようと思った。朝は隆の女装というサプライズのおかげで何もできていなかった。椿は鞄を置いて、大掃除を始めた。
 やがてレースのカーテン越しに茜色の空が見え始めると、掃除も大方終わっていた。椿は買い物に出かけた。フルハウスを出て左に折れると、毎朝待ち合わせに使っている交差点に行き当たり、その先にある橋を渡ると二十四時間営業のスーパーが見えてきた。椿が歩道を渡っているとブレザー姿にギンガムチェックのジョッキーヘルメットを被った隆が橋の向かいからやってきて橋を過ぎて、コインランドリーを迂回するようにやってきた。 椿の目前にバイクを止めると隆はギンガムチェックのヘルメット差し出して言った。
「乗って」
 そうして椿は恥ずかしそうにヘルメットを受け取って、伏し目がちに、
「いいの?」
 と、隆の瞳を覗き込んだ。
「え?」
 隆は聞き返したが、椿は「あ、いや」などとごまかして後部座席にまたがった。
 椿は何だか嬉しくなって、空を見上げた。
 
 戸口を派手に叩く音が聞こえて恵は二階からとたとたと降りて玄関を開けた。
 そこには女装して怯えたような目をした兄と弱々しい背を支える椿が立っていた。メールのやり取りで大方の事情は知っていた恵だったが、椿の驚くわよという忠告なしでは今よりも心がざわついたに違いない。兄のその姿は亡き父広大を彷彿とさせた。心のどこかではこうなることが自然なものと捉えている自分もいた。
「遅くにごめんメグ」
「いいけんいいけん。お母さんも喜ぶと思うし、お兄ちゃん最近音沙汰なかったしね」
 隆は少し落ち着きを取り戻した様子で、
「ただいま」
 と言って玄関を上がっていった。椿がそのあとに「お邪魔します」と続いたのだった。 恵は椿のメールで急いで夕食のメニューを変更していた。二人分増えるので手っ取り早く冷凍庫にあった帆立、海老などを解凍し麺をボールに大量に打ち上げていた。
 涼子は隆を見やって辛そうに一瞬顔を背けたが、椿が、「お久しぶりです涼子さん」と挨拶をしたときには普段の顔を上げていた。
 厳かな夕食が始まった。ホットプレートに乗った具材が静かに音を立てている。
 隆に対する涼子の毒舌も恵の母の行儀をしかる声もなかった。椿は広大が亡くなって間もない頃を思い出していた。この家庭の心の傷がまだ生々しく椿が隆に突き放される前のことだ。コンビニの総菜がテーブルに並び、洗いかけの食器が山となって台所を占領し、椿は月とうさぎでバイトした残り物をもらい、隆の家に届けに来て、いつも閉じた隆の部屋の前に菓子を置いて帰る。椿はぎゅっと記憶に胸を掴まれた。隆を失いたくない。これから隆の言動はここにいる誰もが想像できるが、椿だけは味方になってやろうと心に決めた。
 夕食もそろそろ食べ終わる頃になって隆は重い口を開いた。
「わたし……ここに戻りたい」
 涼子は何も答えない。
「もうあそこにいる意味はないし、ここでだって暮らせる」
 涼子は頭をがくりと落とした。
「それでまた、コウちゃんの――広大さんの部屋で過去に生きるんだろ? 苦しいのはおまえだけじゃない」
 涼子は隆の目を見据えて言った。
「どうしてそれがいけないの? 大事な人がわたしの両手をすり抜けていって……わたしがその人になるしかないじゃない!」
 涼子はテーブルを拳で叩いた。
「隆……元に戻ったなおまえは……今度は姫か!」
「涼子さんやっぱり無理かな……あたしからも隆がここで暮らすことを薦めたい。あたしの家族みたいに親子が仲が悪いわけじゃないし――」
「椿は黙れ」
 椿は言葉を詰まらせた。
「ごめんなさい」
「別に身内のことに口を出すなとかそういうことじゃない。おまえも家族同然だと思ってる姫もな、しかし隆がここに帰ってくることだけはゆるさん。広大さんの部屋にこもって前に進もうともしない、最近やっと人前でも歌えるようになったんだ」
 そう言ってばつが悪そうに隆から顔を背け、
「隆の悪いところは好きなことを枷にする部分だ。広大さんもそうだった。好きで歌ってているくせにそれが枷にもなって、度が過ぎ自分が生きているということまで忘れてしまうんだ。どうしてこう芸術肌のやつは……融通が利かないんだ……ほんとどうしようもない」
 広大はそう言ったきり黙った。
「あたしは隆の気持ちがすごくわかります。こんな人間は異常なんです。でもそうでないと心を打つ隆の歌声は成り立たない」
「ああわかってるさでもな、こいつも長い将来歩いていって今はいいけど、ふと落ち着いたときにコウちゃんみたいに壁を壊してしまうんじゃないかってな、だからおれは弱いのは罪だと思うんだ。生きる上でそうするしかできないなら、自分で脳のスイッチを入れたり切ったりしないと駄目だろう。それにはこいつが前を見て歌い続けないと駄目だ。姫もいなくなって今は苦しいだろうがな」
 椿は涼子の言葉がすとんと胸の中に降りてきて、まるでパズルの足りなかったピースがはまったような感覚に陥った。この人は息子のことを見ていないそぶりとは裏腹に、手に取るように理解している。椿は隆がうらやましく思った。自分の横でしゃくり上げながら涙を流している隆。
「本当にコウちゃんとよく似てる。こいつずっと泣いてるだろ?」
「はい。あたしが手を放すだけで」
 そう言って椿は笑った。
「じゃあどうすればいいのわたし?」
 そこで椿はおもむろに立ち上がった。そして掌を裏、表とひっくり返し、
「隆忘れたの?」
 片目を使って合図をした。みるみる隆の表情に生気が灯った。椿は裏、表と口元で掌を返した。
「『あなたの気持ちが転がり込む』真紀は隆のことが嫌いになったと思う? 冷静になってみて」
 隆はゆっくりと口元に掌をかざして裏、表とひっくり返した。
「チェックチェックでもまだ無理……」
「ゆっくりでいいのよ今度はあたしがついてるから、真紀に二度と会えないって思ってるかもしれないけど、あたしはそうは思わないテレビに映る鞘って、憎たらしい口調に聞こえるときない?」
 隆は深呼吸を繰り返した。そしてこくりとうなずいた。
「あれってあなたよ、鞘は隆で隆は真紀なの、あたしからみたら二人とも同じことしてるんだから」
 そう言って椿は笑った。涼子も盛大に笑い、恵はメールが鳴っていたので携帯を開いたそこには真紀という名前でメールが届いていた。