この梅も、今年で見納めです。
私は今、祖父母が施設に入ったため空き家になってしまった家に住んでいます。とても古い家で、冬は寒いし夏は虫がひどいし。
祖父母が施設にうつり、半年後にこの家に来たとき、人がすまないと家は朽ちるだけ、というのがどういうことなのか目の当たりにしました。そのときのショックが忘れられず、一人暮らしをするくらいならこの家で住むと決めて、移ってきました。
家族はあんな古い家に住むなんてと言ってたし、どうせすぐ壊してしまう、とも言われましたが、壊すとしても、壊すその直前まで「家」であってほしい。惜しまれてなくなってほしいとそう思っていました。
そうしてここで一人で暮らしていたところに、今のパートナーが移り住み、子供が生まれ、この家に暮らしたのは約6年でした。
この家の歴史にしてみたら20分の1くらいの時間でした。
過去形なのは、この春、この家の取り壊しが決まったからです。
古い家を守るのってすごく大変で。
新しいものをたてた方が簡単なんだそうで。
昨年の台風で家が壊れないかとひやひやしたこともあり、その決断をしたそうです。
私はこの家に対する決断を出来る立場ではなく、その決定に抵抗するだけの金銭も持ち合わせていません。口で古いものを残したいと言うのは簡単ですが、それを守るには相応の資産が必要です。しがない事務員の私にはそんな費用はありません。
それに、私はこの家に移るときこの家がいつか壊されることは覚悟していて、その終末を私が見届けたい、と思ったのです。
何かの終わりを見届けることは、とても辛いし、とても苦しい。
何かが終わり、変化していくことは、恐怖です。
でも、私はその終わりかけた瞬間の美しさを何度も何度も目に焼き付けてきました。
そして、そのどれひとつも、忘れることはできていません。
だから私はこの家の最後をきっと泣きながら見届けて、将来笑いながら話せると思うのです。
終わらせることが美しいと知ることができたのは宝塚のおかげで。
終わる直前がもっとも輝くことを教えてくれたのも宝塚で。
だから私はこの家の終わりを、きっと見届けられると思ってここに来たのだと思います。
もう二度と、この梅を見ることはできないけれど、私はきっとこの梅を生涯忘れることはないと思います。