アフリカの息遣い、『わたしは、フェリシテ』 | 平平凡凡映画評

平平凡凡映画評

映画を観ての感想です。

【タイトル】『わたしは、フェリシテ

【評価】☆☆(☆5つが最高)

【監督】アラン・ゴミス

【主演】ヴェロ・ツァング・ベヤ

【製作年】2017年

 

 

【あらすじ】

 コンゴ民主共和国のキンシャサで、歌手をしながら一人息子を育てるフェリシテ。だが息子が事故に遭い、手術には大金が要ると言われたフェリシテは、金策に走り回ることになる。

 

 

【感想】

 アフリカのキンシャサを舞台にした映画。なかなか目にすることのない、アフリカの日常や現実を教えてくる。映画祭での評価も高いようで、ベルリン国際映画祭では審査員大賞を受賞している。主人公は歌手のフェリシテ。冒頭で彼女の歌声が披露される。喧騒に包まれている小さなレストラン、演奏が始まり彼女が歌い始めると静まり返るのか思いきや、喧騒の波が大きくなり踊りも始まる。曲はブルースっぽかった。とにかく力強い。

 

 

 ストーリーは、幸福という意味の名前を持つフェリシテが、不幸な現実に立ち向かうというもの。息子が大ケガをしたため、必死の形相で金策に走り回る。しかし卑屈さはなく、堂々として逞しい。映画は、ドキュメンタリーのように映る。登場人物の表情をアップで捉え、徹底的に表情を追い掛けていく。もう少し軽いトーンの音楽映画をイメージしていたので、ちょっと意外だった。貧困や社会問題に関心のある人には、訴え掛ける内容。

 

 

 ただ娯楽性を求めていると、段々辛くなってくる。アップを多用した映像は、迫力はあるもののさすがに飽きもくる。力強い直球ばかりを見ていると、次第に緩い変化球が恋しくなる。それでもアフリカらしさを感じることはできた。言葉や感情が、至近距離で炸裂していく。言葉を惜しんだり、思いを溜め込んだりすることがあまりない。感じた波を、更に増幅させる。街の風景や人々の息遣いなど、エネルギーがひしひしと感じられた。