若気の至りなのか、『沈黙 サイレンス』 | 平平凡凡映画評

平平凡凡映画評

映画を観ての感想です。

【タイトル】『沈黙 サイレンス

【評価】☆☆☆☆(☆5つが最高)

【監督】マーティン・スコセッシ

【主演】アンドリュー・ガーフィールド

【製作年】2016年

 

 

【あらすじ】

 17世紀初頭、日本では幕府によってキリスト教が禁じられ、キリスト教徒は厳しく弾圧されていた。マカオにいた宣教師のロドリゴとガルペは、師であるフェレイラが棄教したと聞き、その真偽を確かめるため日本への密入国を決行。そして二人は九州にたどり着き、そこで隠れながらも信仰を続ける農民たちの姿を目の当たりにし、宣教師としての使命を果たそうとする。

 

 

【感想】

 信仰を正面から取り扱った映画。アメリカでの興行成績はあまり芳しくはないようだが、それも当然なのかもしれない。この映画には娯楽の要素が少なく、キリスト教徒の多いアメリカでウケる内容でもなかった。キリスト教が日本を圧倒するわけでもなく、また宣教師がはっきりとした勝利を収めるわけでもない。映画を観て胸のすく思いをしたい人は、敬遠しそうな物語。

 

 

 主人公は、キリスト教が弾圧されていた日本に密入国した宣教師。布教活動を行いながら、棄教したという師の消息を確かめようとする。弾圧されるキリスト教徒の苦難を次々に見せ、それを傍観するしかない主人公の苦しさが滲み出る。一方、体制側である幕府の役人は余裕のある態度を崩さず、ゆっくりといたぶるように主人公や信者を追い詰めていく。その様は、大人と子供の対決のようでもあった。

 

 

 映画を観ながら、何か結論めいたものを出したくもなるが、出てくる結論は安直なものにも思えてくる。あの当時、キリスト教の禁止は正しかったのか間違いだったのか、日本にキリスト教が根付く要素はあったのか、そもそも人はなぜ信仰してしまうのか。しかも自らの命を犠牲にしてまで。悶々とした問い掛けが続き、晴れ渡る瞬間をなかなか目にできない。マーティン・スコセッシらしい骨太な映画だった。