”プリウス”じゃ駄目なんだろうなぁ、『グラン・トリノ』 | 平平凡凡映画評

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映画を観ての感想です。

【タイトル】『グラン・トリノ

【評価】☆☆☆☆☆(☆5つが最高)

【監督・主演】クリント・イーストウッド

【製作年】2008年


【あらすじ】

 妻に先立たれたウォルトは、一人暮らしを始めることになった。だが昔気質で自分のスタイルを変えようとしないため、子供や孫たちとの間には目に見えない溝が生まれる。そんなウォルトの生活に入り込んできたのが、隣りの家で暮らすアジア系の一家だった。最初は鬱陶しく感じていた交流も、徐々に楽しいものに変わっていく。


【感想】

 クリント・イーストウッドの主演作や監督作品を、どれくらい観てきただろう。もちろん、「ダーティー・ハリー」や「荒野の用心棒」をリアルタイムで観たわけではない。最初は、テレビの吹き替え版、山田康男の声でクリント・イーストウッドを知ることとなった。タフな刑事や凄腕のガンマンとして認識され、その後もスクリーンの中では強い男のままあり続けたように思う。


 そしてこの映画でも、強い男の最後の日々が描かれている。強い男にも老いが訪れ、死の陰がチラチラするようになる。最愛の妻を亡くし、子供たちとは疎遠。80歳を迎えようとするクリント・イーストウッドの役どころは、フォードの元技術者というもの。しかしスクリーンに映し出されるクリント・イーストウッドが、そのままかつてのタフガイの老いた姿を演じているようだった。


 でも老いたとはいえ、クリント・イーストウッドのたたずまいには変わることのない強さと優しさがあった。枯れてもなお、確固たる芯があったりする。クリント・イーストウッドだからこそ絵になる役であり、他の俳優が演じたりすれば、すぐさま凡庸な作品に成り下がってしまうと思う。孤独な影が差しながらも、決して絶望感は漂わない。差別的で嫌味な言葉を吐いても、どこか救いがあり温かかったりする。


 クリント・イーストウッドの集大成というに相応しい映画になっていた。ただその姿を目に出来るだけで有難く、ついつい拝みたくもなってくる。もちろん監督としての手腕もきっちりと発揮し、時代を捉えた秀作になっている。主人公と息子の対比に車を使い、父親は1972年製のフォード“グラン・トリノ”、息子はレクサス“ランド・クルーザー”。これだけで時代の流れや、父と息子の価値観の違いが浮き彫りになる。


 手入れを怠らず、ピカピカに磨き上げられたグラン・トリノは、個性豊かな車に見えた。決してスマートなスタイルをしているわけではないが、そこにはアメリカらしさが存分に詰まっていた。力強さと大らかさを兼ね備えた車。クリント・イーストウッドの映画のタイトルにも十分堪えられ、渋く重厚なドラマの源泉となっていた。多分、“プリウス”からはこういう映画は生まれないと思う。


 静かに動くストーリーの足取りは巧みで、主人公の心の変化を過不足なく見せていた。人間の老い方や死に方は、なかなか難しそう。音楽には葬送曲というものがあるが、まさにこの映画はそういった雰囲気をもっていた。自分の肉体が死に掛け、長年信じてきた価値観も大きく変わろうとする中、老いた先から眺める風景はそう楽しいものではないのだろう。頑固な老人の気持ちが少しだけ分かりかけた。


ただ、若い人に道を譲るというのは、自然な流れではあるのだろう。クリント・イーストウッドは、道の譲り方や人生の降り方、また生き方を教えてくれているようだった。説教臭くなくこういうことができる老人は、きっと稀有な存在。ラストには色々な意見があると思うが、見事な枯れ方に見えた。老いてもクリント・イーストウッドはクリント・イーストウッドだった。