Mon 230619 明治100年/もうすぐ昭和100年だ/千葉県飯岡と天保水滸伝 4390回 | 今井宏オフィシャルブログ「風吹かば倒るの記」Powered by Ameba

Mon 230619 明治100年/もうすぐ昭和100年だ/千葉県飯岡と天保水滸伝 4390回

 明治維新は1868年だったから、その100年後、1968年は「明治100年」のお祝いをした。記念切手も出たし、当時の人気雑誌「アサヒグラフ」では「明治百年 記念号」も出した。

 

「アサヒグラフ」は朝日新聞系の写真誌で、戦前からの長い伝統をもち、幼い今井君のオウチには、「東京オリンピック記念号」「メキシコオリンピック記念号」「明治百年記念号」「ミュンヘンオリンピック記念号」、すべて書棚にそろっていた。

 

 コドモの頃の今井君は、梅雨の雨が降って友だちと野球ができなくなるたびに、暇を持て余してその種の「アサヒグラフ記念号」をめくって過ごした。どの雑誌もいつの間にか全ページ暗記してしまい、雑誌はページはボロボロ、閉じ目もバラバラ、散々な有様になっていた。

 

 明治100年の頃には、まだ明治人はナンボでも生き残っていて、ワタクシの母方のオバーチャンも明治生まれだったし、「日本文学全集」だって明治生まれの文豪たちでほとんど埋め尽くされていたが、それでも遥かな明治時代を惜しんで、「明治は遠くなりにけり」が流行語になった。

(あと3年、2026年は「昭和100年」だ。ワタクシはきっとその日、銀座ライオンの黒ビールで乾杯するつもりだ 1)

 

 しかし諸君、時の経つのはマコトに速いもので、もう3年が経過すれば2026年だ。昭和元年は1926年だから、3年後の2026年は「昭和100年」にあたる。

 

 まだどこからも「昭和100年」の声は出て来ていないようだし、「昭和100年記念切手」が出るのかどうか、あるいは「昭和100年記念硬貨」はどうなるのか、500円玉か、それとも1000円玉か、いやもうキャッシュレス時代なんだから、1000円ペイペイみたいなものになっちゃうのか、そういう企画はあまり進んでいないようである。

 

 3年も先のことだから、あまりに気が速いかもしれないが、昭和100年記念日には、学校は休みになるのか、職場はどうか、カレンダー屋さんたちのためにも、そろそろ議論が始まってほしいじゃないか。

(あと3年、2026年は「昭和100年」だ。ワタクシはきっとその日、銀座ライオンの黒ビールで乾杯するつもりだ 2)

 

 雑誌社の中には「昭和100年記念」に何かする企画が進んでいるところもあるかもしれない。ただし懐かしの「アサヒグラフ」はもうとっくにない(2000年で廃刊)し、朝日系ということなら「週刊朝日」もついに休刊になっちゃった。何しろ「昭和」は思想的にいろいろ微妙な問題があって、扱い方も難しいだろう。

 

 しかしやっぱり昭和100年、盛大にお祝いしたいじゃないか。確かに「反省」という部分が大きいにしても、ほぼカンペキな昭和人間であるワタクシとしては、昭和100年が何もなしに過ぎてしまうこと、ちっともお祝いする機運もなしに通過してしまうのは、たまらないのだ。

 

 まず何としてもやってほしいのは、テレビの企画「昭和は遠くなりにけり」。ネット検索すればナンボでも出てくるにしても、昭和のCM、昭和のバラエティ番組、昭和の歌謡曲ベスト1000、雑誌・ベストセラー・新聞1面・新聞スポーツ面・新聞テレビ欄、いやはや昭和100年企画だけで丸1年は視聴率が維持できそうだ。

(6月8日、東京駅地下ホームから特急「しおさい」で千葉県銚子の小旅行に出た 1)

 

 今年の初夏のワタクシがやたら関東平野にこだわり、潮来に鎌倉に銚子に小田原、そういう小旅行を繰り返したり、ブログに書いてもあんまりアクセスが増えないだろう股旅・侠客・無宿渡世人の話なんかを延々と書いたりしたのも、マイ昭和100年の祝賀をそろそろ始めようと思ったからである。

 

 無宿渡世人のヒーロー沓掛時次郎(くつかけ・ときじろう)がどんな人生を歩み、どんな最期を遂げたか、昭和前半の日本人なら誰でも知っていた。

 

 沓掛時次郎を主人公にした流行歌もあって、田舎の子供でも、山の中のオヤジでも、ラジオでその流行歌を繰り返し耳にするうちに、誰でもみんな歌えるようになった。

 

 もしも村や町の夏祭りの夜に、「一本刀土俵入」のお芝居が広場に急設された芝居小屋で上演されるとなれば、千葉県我孫子と茨城県取手が舞台のそのお芝居のストーリーをオジーチャンが語り、孫たちは手に汗を握って話に聞き入り、お芝居の本番の夜をみんなで楽しみに待ち受けた。昭和中期とは、そのような時代だったのだ。

(6月8日、東京駅地下ホームから特急「しおさい」で千葉県銚子の小旅行に出た 2)

 

 諸君も、両国の国技館に飾られた大相撲の「優勝額」を、テレビ中継で見たことがあるだろう。白鵬や鶴竜や照ノ富士や稀勢の里、お相撲の横綱の優勝額で、「どうしてお相撲さんが刀を持って写真に収まってるの?」と、疑問に思ったことはないだろうか。

 

 もちろんお相撲には神道の儀式と深い関わり合いがあって、野見宿禰(のみのすくね)と当麻蹴速(たいまのけはや)からの長い長い歴史があるわけだけれども、お相撲さんと刀という話になれば、江戸期から昭和期にかけてのお相撲とケンカの関係、いろんなお芝居に描かれて、その連想が今でも影響を残しているのだ。

 

 あんまり好きな芝居ではないが「一本刀土俵入」、「立派な横綱になって、母の墓前で土俵入りをして見せたい」と念願するお相撲さんが主人公。しかしなかなか思いは果たせず、飢えて苦しんでいる様子を垣間見た「お蔦」という名のおねぇさん。お蔦は手元にある何もかもをお相撲さんに投げ与え、「必ず横綱になって、立派な土俵入りをなさいな」と声をかける。

 

 その有名な場面が、我孫子・取手のあたり。長い利根川もすでに中流域、無宿渡世人やら、食いつめた相撲取りやら、「飲む」「打つ」「買う」の侠客たちの活躍も派手になり、ついには水郷・潮来の下流域に入って、たくさんの子分を引き連れた親分&大親分の羽振りもどんどん派手になる。

(6月8日、東京駅地下ホームから特急「しおさい」で千葉県銚子の小旅行に出た 3)

 

 6月8日、ワタクシは東京駅から銚子の旅に出た。潮来にはバスで行ったが、銚子なら、東京駅地下ホームから特急「しおさい」が利用できる。高速バスもあるが、やっぱりワタクシには乗り鉄の傾向があって、列車があるなら自然に列車を選択してしまう。

 

 東京駅発、10時11分。千葉・八街・八日市場・旭・飯岡を経由して、銚子まで約2時間の道のりだ。すでに何度か書いた通り、千葉までは息苦しくなるほど人口密度の高い市街地が続き、千葉を出た途端に市街地は魔法のように姿を消して、見渡す限りの農村風景の中、大好きなシラサギたちがノンキに餌を漁っている。

 

 このあたりからは、駅のホームや看板を見ても、昭和の真っただ中に取り残されたみたいな風景が続く。まだ蒸気機関車が長い客車の列を牽引していた時代のプラットホームは、よく見ると下の土台がレンガで出来ている。レンガの土台がホームを支え、その上をコンクリートで固めているのだ。

      (総武本線・八日市場の駅にて)

 

 例えば「ようかいちば」の看板、白い鉄板の上に黒ペンキで「ようかいちば」と書き込んだものだが、すでに何箇所かで黒ペンキが剥がれ、「ば」の濁点はすでに消滅して「は」のみが残り、漢字で「千葉県八日市場市」と書いた部分は、何があったのか白ペンキで無残に消されてしまっている。

 

 やがて特急「しおさい」は、旭の駅を過ぎて飯岡に至る。車内の乗客は大半が旭で下車してしまい、車内は銚子まで行って銚子電鉄に乗る鉄ヲタの姿ばかりが目立つようになる。

 

 しかし諸君、この飯岡こそ、かつて大親分「飯岡助五郎」vs 大親分「笹川繁蔵」の対立から、天保水滸伝「大利根河原の決闘」の舞台となる町である。しかも何度も繰り返すが、昭和中期のオヤジもジーチャンも子供たちも、「大利根河原の決闘」といえば、そのストーリーも人物関係も、みな熟知していた。昭和の民間教養の基礎中の基礎だったのだ。

         (総武本線・旭の駅にて)

 

 かつて有名だった大親分といえば、国定忠治・大前田英五郎・飯岡助五郎・新門辰五郎・相模屋政五郎・笹川繁蔵・清水次郎長など。何だかずいぶん「ゴロー」が多い。

 

 こういうゴロー系というかGORO系というか、かつてのスーパーヒーロー親分の名が、若い男子の雑誌名なんかにも採用されていった理由なんじゃないかと、ふと思ったりする。20世紀終盤、小学館の雑誌「GORO」に、10歳代20歳代の男子が夢中になった時代があった。

 

 大利根河原の決闘は、元相撲取りの大親分・笹川重蔵と、歌舞伎や講談では悪役として描かれる飯岡助五郎の対立から始まる。笹川繁蔵もまた元相撲取りであり、お相撲の祖・野見宿禰を祭ったりしている。

 

 相撲取り時代の笹川繁蔵の兄弟子に横綱「稲妻雷五郎」なんてのもいるが、稲妻と雷がくっつき、その後ろに「ゴロ」がくっつく、マコトに念の入ったお名前がまた楽しい。

        (総武本線・飯岡の駅にて)

 

 笹川繁蔵と飯岡助五郎の対立は、ついに激烈な大決闘に発展するわけであるが、きっかけとなったのは潮来の花街での花魁の奪い合い。おお、相撲に潮来、花街にオイラン、この数日ワタクシが書いて来た記事の締めくくりに相応しい。

 

 決闘の規模には諸説あって、「双方合計で200名超」という情報もあれば、笹川方20数名、飯岡方も20数名、合計しても50名に満たない小競り合いだったとする者もある。

 

 何しろ天保12年、しかも関東平野の親分どうしの「出入り」の話だ。河竹黙阿弥による歌舞伎でも、「見てきたようなウソをつき」の講談や浪曲でも、しっかりした史料があるわけではない。できるだけストーリーに花があるように、ナンボでも脚色を加えているはずだ。

     (総武本線、終着・銚子の駅に到着する)

 

 この大ゲンカの中で、有名な剣の使い手・平手造酒(ひらてみき)が非業の最後を遂げる。「北辰一刀流の使い手」として用心棒を務めていたが、この決闘の時、手元にあったのは子分たちが使う粗末な刀、いわゆる「ドス」「長ドス」だけ。決闘が始まってすぐに、刀は根元からポキリと折れてしまい、もう北辰一刀流も何もあったものではなかった。

 

 ワタクシが子供の頃には、この平手造酒がいろんな時代劇の中に登場。剣の腕は神ワザに近いが、何しろ酒の飲み過ぎで身体をこわしており、ドラマによっては「肺結核の末期」で、血を吐きながらでも茶碗酒を煽り続ける。

 

 決闘の場でも、最初は粗末な刀で次々と敵を切り倒すが、やがて激しく咳き込んで刀もポキリ、全身に11か所の刀傷を負って、ついに力尽きる。諸君、酒の飲み過ぎには十分に注意だ。

 

 ま、「酒の飲み過ぎに十分に注意」「お酒の量は減らしましょう」というたいへんマットーな自戒を胸に、ワタクシは終着・銚子の駅に到着した。

 

 つい1ヶ月前の今井君も「お酒を減らします」と高らかに宣言したばかり。第2の平手造酒にならないように気をつけながら、昭和120年まではぜひ健康寿命を維持したいと、熱く願う日々なのである。

Sun 230521 「お酒を減らします」宣言/広島の光景に感激/4月10日、角館へ 4365回

 

1E(Cd) King’s College Choir:ABIDE WITH ME(50 Favorite Hymns) 2/2

2E(Cd) King’s College Choir:ABIDE WITH ME(50 Favorite Hymns) 2/2

3E(Cd) Böhm & Berliner:MOZART 46 SYMPHONIEN 2/10

6D(DMv) CLOSE RANGE

total m109 y442  dd28392