Tue 220201 伝染力増大と弱毒化(コロナの話ではありません)音楽&予備校編 4163回 | 今井宏オフィシャルブログ「風吹かば倒るの記」Powered by Ameba

Tue 220201 伝染力増大と弱毒化(コロナの話ではありません)音楽&予備校編 4163回

 演劇について前回書いたのと同じような事情は、1980年代の音楽の世界にも存在した。

 

 もちろん音楽だから、アングラ演劇みたいに「コワくて近づけない」というほど暗黒のカオスではなかったけれども、その後の「弱毒化と伝染力増大の連関」は同じように見られた。

 

 まあ諸君、1970年代までは「フォーク」と「ロック」が同一視されるという驚くべきカオス時代。プロ作曲家とプロ作詞家による演歌と歌謡曲が音楽の正統であって、アマチュア音楽の全てがカオス的異端と見なされた。

 

 要するに吉田拓郎と井上陽水の時代であるが、当時「異端」とされた人々は「音楽のメッセージ性」を重視し、何よりもまず「テレビには出ません」という姿勢で、彼ら&彼女らのメッセージ性を訴えかけた。

 

 ライブなら2時間でも3時間でも、場合によっては日没から夜明けまで音楽的カオスを聴衆と共有できるのに、旧態依然としたテレビの世界の音楽では、メッセージを伝えられるのはせいぜいで5分、多くの場合は2分から3分、ワンコーラスしか歌えないというのが当時のスタンダードだった。

 

 1980年代は、そういうフォークとロックのカオス世界がテレビと仲直り、お互いに侵食しあう10年だった。「どうしてもフルコーラス歌いたい」と要求、ついに受け入れられて、テレビで10分も15分も歌い続けるアーティストが現れた。

 

 フォークとロックという用語の使用頻度が減り、音楽が弱毒化した象徴として「ニューミュージック」の世界が出現。「従来の歌謡曲とは違うけど、別に毒性があるわけじゃないから安心してコンサートにも来てください」という流れになった。

(京都、木屋町・先斗町にも、ごく普通の居酒屋が増えた。本文との関係は、諸君が考えてくれたまえ 1)

 

 ちょうどそのころ「オリンピックまゆみ(仮名)」を名乗る女子シンガーがいて、彼女もまた急激に弱毒化していった「ニューミュージック」の代表格と考えていい。

 

(仮名)も何も、オリンピックを「五輪」と書き直せば、要するに「五輪真弓」というミュージシャンであるが、1970年代の彼女と、80年代の彼女を比較すれば、その変化は明らかだ。諸君にはYouTubeという強い味方があるから、是非まず70年代の彼女の「落日のテーマ」「少女」を聴いてみてくれたまえ。

 

「落日のテーマ」はNHK連続ドラマのテーマ曲にも選ばれた名曲。この曲について10年以上前に書いたワタクシのブログ記事が、いまだに人気記事の1つとして1年に500アクセスを超える人気記事になっている。「Sun 090503 NHK銀河ドラマ 五輪真弓「落日のテーマ」 石川セリ「遠い海の記憶」

 

「落日のテーマ」「少女」ともに、1970年代の音楽のメッセージ性を如実に示しているので、21世紀の若い読者諸君にとっても大きな衝撃になると思う。いやはや、薄暗い小さなライブ会場に集まった100人とか150人の聴衆が、こういう曲に熱狂して夜通し燃え上がった時代があるのだ。

 

 ところが諸君、やっぱり「レコード売り上げ」という数字の話になると、当時の彼女はそれほど大きく活躍してはいない。小さなサークルの熱狂に迎えられることは確かでも、一般的な歌謡曲や演歌の世界には遠く及ばなかった。

 

 しかし80年代、小さく暗く熱いカオスから抜け出して「ニューミュージック」の弱毒化した世界に入り込むと、いきなり「恋人よ」(1980年)の大ヒットが待っていた。暗く熱いカオスのメッセージ性を愛していた人々は一斉に離れていったが、弱毒化と伝染性増大の一例として、マコトに分かりやすい例と言っていい。

(京都、木屋町・先斗町にも、ごく普通の居酒屋が増えた。本文との関係は、諸君が考えてくれたまえ 2)

 

 ほぼ同じ時期、「ユーミン」というオカタもほぼ同様の変化を遂げた。もちろんどっちが良くてどっちが悪いという話ではなくて、メッセージ性重視の小さなサークルでボーボー激しく盛り上がっていたものが、とりあえずカオスの魅力を排除して、数字として膨大に稼ぐ音楽に変貌していった。

 

 この辺もやっぱり諸君にはYouTubeという強い強い味方があるから、彼女の変貌というか変身というか、それがいつごろのことだったかそれぞれ判断してほしいが、1976年の「翳りゆく部屋」と、1978年の「埠頭を渡る風」の間に、ワタクシは彼女の中の大きな変化を感じるのである。

 

「クルマに乗っていて爽快になるような曲を作りたい」と、当時の彼女がラジオ番組で語っていた記憶がある。いやはや何しろ当時の今井君はオコチャマもいいところであって、「クルマ」というものにもほとんど縁がなかったが、彼女が言わんとするところはマコトによく理解できた。

 

 その変化を「苦々しい」と感じた先輩ミュージシャンも少なからずいらっしゃったようである。「メッセージ性はどうなった?」「荒井由実時代の強烈なメッセージ性に期待していたのに」とおっしゃるわけである。

 

 しかし諸君、ご存知の通りその後の彼女は売れに売れた。80年代のスキーブームにものの見事に乗った「ブリザード」あたりになると、70年代のメッセージ性はほぼ消滅しているが、間違いなく軽快で爽快、レコード売り上げは間違いなくウナギのぼり。かつての狭く古臭いライブハウスのカオリは微塵も感じない。

 

 そして諸君、90年代から21世紀に入って「ニューミュージック」はもはやググって検索する対象となり、「へえ、むかしむかしはそういう時代もあったんだ」、そういう遥か彼方の地平に消えた。定着したJPOPには、暗いライブ小屋のメッセージ性とか、テントで演じられるアングラ劇の衝撃はもはやほぼ皆無だろう。

(京都、木屋町・先斗町にも、ごく普通の居酒屋が増えた。本文との関係は、諸君が考えてくれたまえ 3)

 

 それとほぼ同じ流れが、我が予備校の小さな世界にもあったのである。1970年代から80年代、予備校には強い毒を持ったカオスが展開していた。

 

 何しろ、正規の教育ではないのだ。18歳の若さで「高校教師になろう」「一生を学校教育に尽くそう」と決意したマジメな先生たちが教えるのではない。予備校講師の多くが大学研究者くずれ、小説家志望に劇作家志望に演出家志望、中には「革命家志望」などという強烈なのも存在した。

 

 それでカオスにならないはずはないので。90分授業のほとんどすべてが「メッセージ」ないし「アジ演説」になり、「オレは本来こんなところで授業なんかしている人間じゃないんだ」と、平気で言い放ったりした。

 

 今ならそのヒトコトだけで大問題になり、ヘタをすれば即刻クビになりかねないが、むかしむかしのその昔は、むしろそういう先生のほうが主流。英語の講師でテキストを全く相手にしないばかりか、1ページも進まない、1行も和訳しない、「こんなテキストやってたらアホになるで」と公言するオカタも少なくなかった。

 (京都・先斗町で、こんな普通のお好み焼き屋に出会う 1)

 

 そのテキストだって、今みたいに品行方正に「入試問題がズラリ」などというシロモノではない。ルース・ベネディクトだの、バートランド・ラッセルだの、トマス・ハーディーだの、ギッシングにT.S.エリオット、スタインベックにモームにヘミングウェイ、サミュエルソン「経済学」の序文なんてのも載っていた。

 

 そういうテキストをすべて無視して、ベトナム戦争を語り、マルクス経済学を語り、場合によっては生徒からの「貢ぎ物」の酒を飲みながら、好き放題に語りまくって90分が過ぎていく。

 

 教卓に置かれた「貢ぎ物の酒」なんてのも、当時の予備校の世界ではごく当たり前。それを飲まずにマジメに英語の和訳なんか始めれば、かえって生徒たちへの裏切りみたいに批判の対象になった。

 

 こりゃ完全にアングラ演劇の世界であって、「早稲田も慶応も合格したが、どうして第一志望をゆずれない」という浪人生諸君は、1教室に200名も300名もギューギュー詰め込まれて、それでも90分の講師の独壇場に大歓声をあげ、教室は大きな拍手に包まれた。

 (京都・先斗町で、こんな普通のお好み焼き屋に出会う 2)

 

 だから諸君、まさにあれは強毒性の世界の典型である。そんな授業を受けて成績が上がるはずはないし、講師も生徒も「偏差値をあげよう」「問題の解き方を研究しよう」「正統派の英文読解法を伝授」みたいなことは考えていなかった。

 

 そういう世界が最高に盛り上がったのが80年代。しかし90年代にはさすがに弱毒化が始まった。テキストにはセンター試験の問題が並び、「どうやったらセンター試験で高得点が取れるか」「制限時間内に解き終わるにはどうしたらいいか」みたいなことを夢中で語る講師が増えた。

 

 そりゃ当たり前だ。ベトナム戦争は遠い記憶になり、学生運動もマルクス主義も東西冷戦も過去のものとなれば、予備校の授業だって弱毒化して、アングラ演劇的なカオスの世界にオサラバ、講師としてもひたすら受講生を増やして生活の向上と安定を図るほうがいい。

 

 それでも一部には、まだアングラ系のカオスで人気を集める者もいた。現代文で「本文を読まずに正解を得る例の方法」を説き続ける人もいたし、見るからに「悪い人」「いけない人」「ずるい人」という風貌でニヤリと微笑み、美男の悪漢を演じ続けた人もいた。

 

 このサトイモ君は、予備校のカオスを愛し続けた最後の世代に属するかもしれない。90分授業の中にどうしても10分か15分のカオスを持ち込み、生徒諸君と熱いカオスを共有することに何よりも大きな喜びを感じる。少なくともワタクシの授業を愛する諸君は、今もカオスへの愛情を共有してくれるのである。

 (京都・先斗町で、こんな普通のお好み焼き屋に出会う 3)

 

 しかし21世紀に入る頃から、カオスを排除する弱毒化の傾向は急速に進んだ。「正統派」と称して、カオスに相当する部分をすべて排除、教材以外の要素を授業から締め出して、淡々と教材の解説に励む人々である。

 

 それでは正規の高校教育とどう差別化するのか、今井君なんかは全く見当もつかないが、まあ何しろ諸君、2022年「共通テスト」の英語リーディング問題を眺めてみてくれたまえ。「これでもか?」と言わんばかりにズラリと並んだ問題文に、カオス侵入の余地はほぼ皆無である。

 

 もちろん今井君はカオスの大王♡だ。意地でもカオスの要素を持ち込んで見せる。1月29日、京都での公開授業では「共通テストの全問を解説する」という暴挙を試し、しかしその中でカオスの魅力を持ち込む方策を何とか発見した。

 

 共通テストの英文には、もはや毒の要素はカケラも見当たらない。ここで試されるのは、深い読書力ではない。読書力ではなくて、きわめてコマゴマとした「校閲」の能力である。

 

 特に第6問B、腹が立つほど情報を読みにくく混乱させた下手な説明文を読ませて、受験生を時間との戦いの中でイラダチの泥沼に追い込み、そこで「校閲能力」の限界を試そうという、極めてタチの悪い出題だ。これに対処するのに、アングラ演劇やメッセージ性やシェイクスピアの毒のカホリは一切無用のはずだ。

 (京都・宝ヶ池プリンスホテルから朝の雪景色を楽しむ)

 

 しかし諸君、ワタクシには夢がある。17歳とか18歳の若者が人生をかけて真剣に取り組む全ての文章に、機械的な校閲を超えた高い次元の読書の要素を盛り込みたいのだ。

 

 家電量販店に関するブログだの、キリンの赤ちゃんに名前をつけるコンテストだの、たこ焼きと焼き鳥と落語と流しそうめんの体験談だの、そのレベルをズラリと並べられて、素直に粛々と「正統派」の勉強に励む18歳じゃ、ちっとも魅力がないじゃないか。

 

 もちろん21世紀の日本でそんな夢を語っていれば、おそらく「浦島太郎」のソシリを免れない。そんなことは分かっている。21世紀にアングラ演劇を持ち込んだり、70年代フォーク&ロックのメッセージ性を求めたり、予備校の授業に熱いカオスを煮え立たせようとしたり、そんなのは浦島太郎の無いものねだりに過ぎない。

 

 しかし諸君、浦島太郎ご自身は、今も人気者だ。ぐいっと開き直って、「浦島太郎で何が悪い?」なのである。このあいだ我々のポスターを眺めたら、誰かがつけてくれた今井のキャッチフレーズは「予備校界のスーパースター」ということになっていた。

 

 おお、いいじゃないか&いいじゃないか。ついこの間までの「予備校界の大物」から脱皮、ついに「スーパースター」だというなら、煮えたぎるカオスの魅力を受講生諸君にたっぷり伝えてもいいはずだ。

 

1E(Cd) Kirk WhalumHYMNS IN THE GARDEN

2E(Cd) Kirk WhalumUNCONDITIONAL

3E(Cd) Sheila E.SEX CYMBAL

4E(Cd) Sheila E.SHEILA E.

7D(DPl) 文楽:妹背山婦女庭訓②「猿沢池の段」「鹿殺しの段」「掛乞の段」「万歳の段」竹本津駒大夫「芝六忠義の段」竹本綱大夫「道行恋苧環」竹本春子大夫 竹本津大夫 豊竹嶋大夫 竹本南部大夫 豊竹咲大夫

10D(DMv) CARLITO’S WAY 

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