Mon 210621 大学学部に映像授業を/ナマか映像か19(ウィーン滞在記32)4075回 | 今井宏オフィシャルブログ「風吹かば倒るの記」Powered by Ameba

Mon 210621 大学学部に映像授業を/ナマか映像か19(ウィーン滞在記32)4075回

 こんなふうにして出来上がる新聞雑誌記事が(スミマセン、前回の続きです)、果たして「論理的思考」の名に値するかどうか、誰の目にも明らかだ。

 

 数学の証明問題なら全く話は別だが、出発点と結論が先にあって、その2点を直線的に極太ベクトルで結ぼうという魂胆で書かれた記事は、前回の記事に示したとおり、単なる言い訳や辻褄合わせに過ぎなくなる。

 

 枕コトバの「塾には通わず、自分で考えて勉強しました」も、決まり文句のように繰り返される「単語や文法の暗記ではなく、実戦的な英語発信力をつけましょう」なんてのも、記事の筆者の論理的思考の結果ではなく、実は論理的思考のニセモノに過ぎない。

 

 そもそも、数十万人もの受験生が実践すべき学習法を、教育欄担当に回された新聞記者2名か3名で方向づけしようとするのは、あまりに傲慢で不遜。塾に頼り、暗記と記憶に頼って、それで学力を大きく伸ばす受験生も極めて多く存在するのだ。

(2019年12月28日、モーツァルト交響曲36番で有名なリンツを訪問。キレイなトラムが走る清潔な街だった 1)

 

「テクニックに頼らず」という定番のセリフについても、ワタクシがこのブログで何度も指摘してきた通り、

「そもそも、テクニックって何ですか?」

「具体的にどんなテクニックが存在し、どの科目のどの問題に対して、どんなテクニックがどう有効だというんですか」

という質問に、新聞雑誌が答えたことはない。

 

 つまり諸君、「テクニック」というコトバを使いながら、その「テクニック」というコトバの定義を怠っているのである。論理的思考のイロハとして、前提としての「用語の定義」ほど重要なことはなくて、用語の定義が曖昧なままなら、そもそも論理は成り立たない。

 

 そういう人々が世論を誘導しようとする不遜さを、われわれは放置すべきではない。「テクニック」とは何か、「論理的思考」とは何か。「役に立つ」「役に立たない」とは、正確にはどういうことか。AI時代の国際コミュニケーションとは何か。その定義が曖昧なままだったから、新・共通テストは結局こんな有様になってしまった。

(2019年12月28日、モーツァルト交響曲36番で有名なリンツを訪問。キレイなトラムが走る清潔な街だった 2)

 

 今から2年前、まだ「試行テスト」だった段階で、朝日新聞はその大見出しに「テクニック、通じない」と書いた。予備校で教えているらしい「軽薄な」テクニックの通じない素晴らしい問題がズラリ、試行に参加した高校生たちが朝日新聞紙上の座談会でその感動を開陳しあっていた。

 

Thu 180104 「テクニック、通じない」のこと/寒波の函館で寿司屋/飯寿司のこと

 

 しかし諸君、蓋を開けてみれば、特に英語の問題は「テクニック」の巣窟みたいなアリサマだ。暗い洞窟をのぞいたら、無数のコウモリが天井からぶら下がっている。その光景を見た衝撃に匹敵する。「テクニック」の定義によるが、2021年共通テスト英語は、正直言って呆れるぐらい「テクニックだらけ」である。

 

 今ごろは日本中の塾で、ナマ授業であれ映像授業であれ、講師たちは新聞雑誌の論調に迎合して「テクニックなんか使えない良問ぞろいだ」「テクニックじゃダメなんだ」とか言いながら、しかしこっそり次々とテクニックを展開している。コトバの定義がいい加減だと、悪質なものはどんどん地下に潜って、繁殖と繁栄の限りを尽くす。

(2019年12月28日、モーツァルト交響曲36番で有名なリンツを訪問。キレイなトラムが走る清潔な街だった 3)

 

 以上のような思いも込めて、ワタクシはこのシリーズで「論理的思考力よりも、多面的な思索力をつけましょう」と主張してきた。どうしても言いたい結論や主張が先にあって、そこに無理やり導こうと辻褄合わせに腐心するなどというのは、要するに不毛なのだ。

 

 マスメディアともあろうものが、そんな魂胆丸出しでは困る。結局ツジツマが合わなくなって、上手の手から水はどんどん漏れ出している。しかも、顔を真っ赤にして主張している本人が、それに気づかない。気づかないからますます躍起になって、新しい不毛な辻褄合わせが始まる。

 

 そういう思考を思考と勘違いして生きるのは不幸だ。諸君、思索はしなやかに、広く深く豊かに、たっぷり時間をかけて、ゆったりと進めていくものではないのか。明日や明後日が締め切りの原稿を大慌てで切り貼りする辻褄あわせの作業は、実は思索でも思考でもないんじゃないか。

(2019年12月28日、モーツァルト交響曲36番で有名なリンツを訪問。キレイなトラムが走る清潔な街だった 4)

 

 日々のウォーキングで東京大学の前を通るたびに、対面授業を受けられないない大学生の不満を思うのである。このまま丸2年が経過すれば、「駒場キャンパスに1度も通わなかった東大生」が3000人も出現する。

 

 すると当然「本郷キャンパスに1度も通わずに卒業した東大生」「本郷にも駒場にも行かずに修士号を取得した東大院生」などにも思いが及ぶ。「駒場を経験しなかった東大生」ならまだしも、「本郷♡無経験」で東大の学部卒になっちゃう諸君は、余りにも可哀そうである。

 

 教養課程の大教室での授業なら、まあオンラインでも構わない。というか、予備校の映像授業に慣れ親しんだ諸君なら、大教室での概論系の授業は「映像授業のほうがサクサク進んで効率がいい」と感じるかもしれない。しかしさすがに、ゼミとか演習とか研究室での実験の類いは、映像授業で済ますわけにはいかないだろう。

(2019年12月28日、モーツァルト交響曲36番で有名なリンツを訪問。キレイなトラムが走る清潔な街だった 5)

 

 今回のコロナ禍を契機にして、教養課程の大教室系は、映像授業に転換を図っていいんじゃないかとも考える。「サンデル教授の白熱講義」みたいなエンタメ系は、日本を代表する白熱タイプの超人気スター教授の映像に任せれば、他の教授連は、少人数のゼミや研究室での演習に注力できる。

 

「日本国憲法概論」「西洋政治哲学史入門」「国際法概説」「理論経済学の道しるべ」「比較言語学への手引き」「微分積分学概説」。大きな階段教室に400人も500人も登録させるそういう概論系は、東大や京大や早慶の超人気スター教授が、サンデル氏顔負けの映像で焚き木をボンボン燃やし、サッサと赤熱でも白熱でもさせたほうがいい。

 

 それに対して「大教室での講義で、居眠り・遅刻・私語・無表情に耐えるより、研究室での真剣な演習や実験が大事」と考える大多数の教授は、きっと大喝采するはずだ。世界の将来を担う青年たちを、そういう教授連はホンキで育てようとしているのだ。私語や遅刻や居眠りのストレスに、マジメな先生たちを晒すのは「百害あって一利ナシ」だ。

(2019年12月28日、モーツァルト交響曲36番で有名なリンツを訪問。キレイなトラムが走る清潔な街だった 6)

 

 例えば東大なら、駒場での大教室授業を映像授業に切り替える。同じ映像を日本中の大学が利用してもいい。東大のスター教授の白熱講義なら、他大学の学生が聴いても間違いなく面白いし、もっと広く日本中や世界中の人々に映像を公開したっていい。

 

 そのぶん、手の空いた教授連は演習やゼミや研究室での実験に時間をバリバリさける。学生たちだって、少人数の対面授業が倍増すれば(一応タテマエとしては)嬉しくて悲鳴を上げるほどだろう。ゼミだって、教養学部時代に1つ、専門課程で1つ、最終的には「学部で卒論を2つ」を、学部のスタンダードに出来るかもしれない。

 

 予備校での映像授業全盛時代は、おそらくまだまだ続くのであるが、大学側の積極性によっては、学部から効率の低い大教室授業を減らし、徹底した少人数のゼミや演習を激増させるという方向性に、カジを切るチャンスが見えてくる。

 

 外国語の習得だって、別に入口の学部入試を改革しなくても、学部での少人数対面型演習を増やしさえすれば、4技能の獲得はグッと容易になってくる。あらゆる分野での映像授業の活用と、対面授業の少人数化を推し進めれば、日本の学部教育の質は飛躍的に向上するんじゃないか。

 

 それこそウィン&ウィン。教授のストレスは激減し、対面演習のクオリティは向上、学部生の語学力も向上、専門分野の研究にもますますホンキになれる。スター講師の白熱講義は大学の知名度を支え、世界中から優秀な学生が集まることも間違いない。今や予備校なんかじゃなくて、学部こそ積極的に映像授業の収録に取り組むべき時代だと愚考する。

 

1E(Cd) Philip CaveCONONATION OF THE FIRST ELIZABETH

2E(Cd) RampalVIVALDITHE FLUTE CONCERTOS 1/2

3E(Cd) Human SoulLOVE BELLS

4E(Cd) CHET BAKER SINGS

7D(DMv) THE BOURNE LEGACY

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