Tue 210518 日本の黄昏/ツンドラ/ブラチスラバの黄昏(ウィーン滞在記18)4054回 | 今井宏オフィシャルブログ「風吹かば倒るの記」Powered by Ameba

Tue 210518 日本の黄昏/ツンドラ/ブラチスラバの黄昏(ウィーン滞在記18)4054回

 田植えも済んでいないのに、いきなり梅雨入りを宣言されたカエルどんたちも慌てふためいているだろうが(スミマセン、昨日の続きです)、地中のセミ幼虫軍団にも「今年はずいぶん出番が早いらしいよ」と情報が駆け巡り、緊張が走っているはずだ。

 

 このぶんでは、セミ軍団に出番が回ってくるのは6月中旬か下旬。地中で雌伏7年の後ついに出番の7日間、晴れの舞台が近づいてくるのに、それが1ヶ月も早く来たんじゃ、おちおち居眠りもできないだろう。今年が出番のセミ君たちについては、明日か明後日の記事で詳述しようと思う。

 

 それよりもずっと問題が大きいのは、「いきなり日本にタソガレがやってきた」という事実である。いや、もちろん黄昏は誰もが予測したことであるし、どんなに輝かしく晴れた日でも、必ず黄昏はやってくる。避けられない運命であることは知っていても、2021年初夏、何だか急速に黄昏が迫ってきた。

    (2019年12月25日、ブラチスラバの黄昏 1)

 

 名優:田村正和が亡くなった。ということは、眠狂四郎と古畑任三郎も亡くなったということ。昭和は確実にフェードアウトしつつある。さらに営業終了・廃業・倒産・解体、その類いのニュースがあまりに頻発する。昭和の時代から今井君が慣れ親しんだ、輝かしい歴史に彩られた店舗や施設が、次々と消えていく。

 

 渋谷東急百貨店本店、金大中事件の現場になった東京九段のホテルグランドパレス、京都タワー地下の大浴場、福岡の西新パレス、同じく福岡のロシア料理店「ツンドラ」。西新パレスは、この10年何度も公開授業の舞台となった。福岡の東進関係者との懐かしい思い出が詰まっている。

 

「ツンドラ」は、「それがなくなったら、もう福岡じゃない」というぐらい、ワタクシにとって大切なお店。すでにこのブログでも2回にわたって「ツンドラ」でのディナーを紹介している。

 

Fri 161007 鹿児島で講演会/次々と「今井先生ですか?」/天神でロシア料理を貪る

Sat 180217  福岡で20世紀の3大予備校を思う/駿台福岡の思ひ出/ツンドラ/ソ連青年達

 

    (2019年12月25日、ブラチスラバの黄昏 2)

 

 1994年、駿台予備校の福岡校が誕生、東京本校の代表として今井君が毎週1回福岡への出張を命じられた。月曜・御茶ノ水、火曜・大宮、水曜・柏、木曜・池袋、金曜・福岡、土曜・大宮。50分授業ではあるが、毎日8コマも9コマも目いっぱいこなしながらの福岡出張はキツかった。

 

 それでも諸君、25年も前の今井君だ。ギュッと若々しく、ギュギュッと精悍なカッケー♡青年講師だ。当時の駿台は、こういう出張でも「エコノミー席」。前日池袋での7コマが終わった後で羽田に向かい、2時間のエコノミー席に耐えて福岡入りした。

 

 ホテルは駿台に指定された「アークホテル」。典型的なビジネスホテルで、部屋の広さは16㎡。それでも若く精悍な青年イマイ♡は一言も文句なんか言わず、翌朝7時半には朝食ビュッフェの会場にその健康な姿を現した。

 

 ところが諸君、「福岡校開校」ということで、何としてでも他校に勝利を収めなければならないから、京都と大阪から各科目のナンバー1講師が「週1、金曜日、全員集合」ということで派遣されてきていた。

 

 その総帥は、伝説の名物講師:O師(仮名)。一応「英語」ということになっているが、授業の中身ははほとんどマルクス経済学。「50行ある読解問題の、最初のTheについて50分語り尽くした」という伝説さえある。ウソかホントかわからないが、いかにもむかしむかしのスター講師。何と言っても話の中心は「東京本校批判」である。

    (2019年12月25日、ブラチスラバの黄昏 3)

 

 4月、初めての「アークホテル」の朝食ビュッフェで度肝を抜かれたのは、朝メシの席がすでにOセンセを囲む御前会議になっていたという事実。数学・物理・化学・地理・古文・現代文、京都と大阪で人気No.1の先生方がOセンセの前に集まり、朝7時半というのに、そのありがたいお説教を拝聴しているのである。

 

 ワタクシの福岡の最初の記憶は、あの4月の朝に凝縮されている。「東京から派遣されてくるおかしな講師に、絶対負けたらあかんで」「まだ講師歴3年らしいで」「関西の名誉にかけて、東京に追い返さなあかんで」。そういう作戦会議の席に、まさにその「東京から来る3年目のヤツ」が姿を現したわけだ。

 

 気まずい雰囲気の中、若き精悍な青年イマイは、彼らをほぼ無視してビュッフェの朝食をトレーに盛って歩いた。塩鮭、きんぴら、玉子焼き、ひじき、ご飯に味噌汁に生タマゴにヨーグルト、ありったけのフルーツ各種。いやはやマコトに豪快な朝食で、「東京の3年目ですが、ワタクシは絶対に負けません」の心意気を示した。

    (2019年12月25日、ブラチスラバの黄昏 4)

 

 しかも諸君、青年イマイはあっという間に彼ら彼女らと打ち解けていったのである。翌週にはもう、福岡天神の焼肉屋「じんじん」で、Oセンセの作戦会議に同席していた。毎週毎週「じんじん」で焼肉を貪り、最後に残った若手メンバーだけで、深夜までカラオケに入り浸った。

 

 その「じんじん」のすぐそばにあったのが、ロシア料理「ツンドラ」である。「ツンドラも試してみましょうよ」と何度も誘ってみたが、どうしても結局「じんじん」になった。

 

 マルクスやらエンゲルスがそんなにお好きなら、きっとソビエト連邦も好きなはず。ボルシチにピロシキ、ウォッカに壷焼き、「レーニンやフルシチョフやブレジネフと同じものを食べましょう」と誘ってみたがダメだった。

 

 その後の今井君は、ちょっと贅沢を言って「アークホテルは地味すぎてイヤです」と、駿台福岡のスタッフに言ってみた。その結果、今井君だけが超老舗「西鉄グランドホテル」に宿泊することになった。

 

 いやはやマコトに生意気な青年イマイであるが、その西鉄グランドホテルもシングルルーム17㎡。わずか1~2㎡の違いで、関西地区No.1の人気を誇る先生がたとちょっと疎遠になってしまった。

 

 中でも物理と地理と古文の3先生が懐かしいが、あんなに親しくしていただいた京大卒の先生たちとは、結局「ツンドラ」を探検することはなかった。実際にツンドラでウォッカを痛飲したのは、代ゼミ時代を飛ばして東進に移籍した後である。しかしあの赤い看板、今となってはもう見ることができない。

    (2019年12月25日、ブラチスラバの黄昏 5)

 

 以上のような話が「どこでどうウィーン滞在記になるんだ?」という疑問については、どうか優しく許してくれたまえ。なにしろこのコロナの真っただ中、東京は今日も丸1日雨模様で、掲載すべき写真が1枚もなくなってしまった。

 

 あえて言えば、「日本の黄昏」と「ブラチスラバの黄昏」に繋がりを感じるのである。大事な大事な思い出の場所が、次から次へとなくなってしまう2021年の東京。同じような寂寥感が、20191225日のブラチスラバにも横溢していた。

 

 元は「チェコスロバキア」といって、チェコとスロバキアはひとまとまりの国だった。だから東京オリンピックの体操の女王チャスラフスカはチェコスロバキアの女王だった。

 

 しかしいつの間にか先進国に成長したチェコは、スロバキアと分離。このブラチスラバがスロバキアの首都になった。12月下旬の冷たい雨の中、ブルーチャーチ周辺を散策するうちに、雨は次第に激しく冷たくなり、まもなく日も暮れて、雨は痺れるほど冷たくなった。

 

 ブラチスラバの黄昏は、実は6年前にも経験したのである。ブダペストから急行電車のコンパートメントを独占して、雪混じりの雨に濡れる東欧の薄闇の中をプラハまで移動した。あのとき眺めたブラチスラバ駅の濃紺の看板を、この日も駅のホームに確認し、寂しくもあり、懐かしくもあり、その辺を日本の黄昏と重ねてくれたまえ。

 

1E(Cd) Mehta&LondonBERLIOZSYMPHONIE FANTASTIQUE

2E(Cd) SCHUBERTERLKONIG SUNG BY 18 FAMOUS SINGERS

3E(Cd) Haydon Trio EisenstadtJOSEPH HAYDNSCOTTISH SONGS 13/18

4E(Cd) Haydon Trio EisenstadtJOSEPH HAYDNSCOTTISH SONGS 14/18

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