Sun 210404 何度も訪れたヌルッ点/スタイリッシュ(アドリア海岸探険記26)4021回 | 今井宏オフィシャルブログ「風吹かば倒るの記」Powered by Ameba

Sun 210404 何度も訪れたヌルッ点/スタイリッシュ(アドリア海岸探険記26)4021回

「パチンと音がしてタガが外れた」「頭蓋骨の内容物がヌルッと外に溢れ出した」という体験について書いてきたが(スミマセン、一昨日と昨日の続きです)、つくづく思い起こしてみれば、実はワタクシ、その体験を何度も繰り返している。

 

 何かの授業の中でも言及しているはずだが、ワタクシはその瞬間を「ヌルッ点」と呼び、いくら頑張って努力を続けても成績が伸び悩んで苦しんでいる人たちに、「必ず近い将来ヌルッ点がきますよ」と励ますことにしている。

 

 思い起こせば、ワタクシ最初のヌルッ点は小学5年の春のことで、体育の授業をズル休みして教室で半分居眠りしていた午後、よそのクラスの音楽の授業の様子を聞きながら、いきなり「パチン」→「ヌルッ」と生ぬるい脳味噌が動いた。

 

 脳全体が30度ほど回転する感覚。その午後から今井君は異様に明るくなり、悪質なイタズラが止められなくなり、担任教師は通信簿に「言動に落ち着きが見られなくなったのが本当に残念です」と書いた。それまでの模範生が、一気に問題児に変わったのである。

 

 いやはや、叱られ放題に叱られた。午前中の授業4時間を全て費やして、今井君の問題行動をみんなで追及するクラス会なんてもあった。

 

「クラス全体の連帯責任」というコトバも飛び出して、今井君のせいでクラス全員が懺悔しなきゃいけない情勢にさえなった。それでもニタニタ最後までゴマかしていたら、最後には親が呼ばれて親が叱られた。

(南イタリア・バーリ「Grande Arbergo delle Nazioni」。無料でアップグレードされたスイートルームは、いわゆる「スタイリッシュ」を狙ったお部屋であった 1)

 

 その父が亡くなったのが1997年の2月。あれから25年が経過する。明日4月5日が父の誕生日であるが、あの時はマジメ一方の父に迷惑をかけ、今思えばマコトに申し訳なかった。

 

 もっとも「マジメ一方の父」とは言っても、若い頃の父にもナンボでも叱られて然るべき「パチン」「ヌルッ」があったのであって、息子である宏君はその詳細もある程度は知っている。父のそのまた父「今井小作」から、実は延々と続く「パチン」「ヌルッ」の系譜なのかもしれない。

 

 記憶に残るヌルッ点は、高3の晩夏にもあって、ガチガチの理系で通していたワタクシがいきなり文転を思いつき、いったん文転を思い立つと矢も盾もたまらず、文学書と歴史書以外は全く読まなくなった。「受験勉強」と言ふ古風な努力は完全に投げ打って、ひたすら音楽を聞きまくった。

 

 当然のように浪人生活を送ることになったが、せっかく入学した駿台予備校には1ヶ月ほど行ってみただけ、後は池袋と飯田橋と高田馬場と三鷹の映画館で過ごし、映画がなければ上野か竹橋の美術館の常設展をブラブラした。そんなわけで、こんな人生になった。

(13連泊した部屋からの、懐かしい海岸風景。海の向こうが旧市街)

 

 1983年にもパチン&ヌルッ、1989年にもパチン&ヌルッ、そして1997年にもパチン&ヌルッ、何だ要するにナンボでもパチン&ヌルッを繰り返して、この人は延々とパチン&ヌルッを繰り返しているのだ。自分で自分を省みて呆然とする。

 

 自分で自分にタガをかけようとして、その都度タガは10年も持たずにパチンと弾けるのである。ならば諸君、タガをかける努力自体が無用のもの。何でワザワザ無駄なことをしたがるのか、したがってきたのか、それももう分からなくなった。

 

「いいや、もうタガなんか無理にかけることにこだわらなくても」と諦めたのが、2005年ごろのこと。そしてそのままタガを締める努力をやめてコンニチに至る。

 

 諸君、マコトに古いレコードであるが、矢野顕子のデビューアルバム「Japanese Girl」(1976年)の中から「気球に乗って」をYouTubeで聴いてみたまえ。ついでに「ふなまち唄」もどうぞ。気球に乗るどころか、今井君みたいに気球になりたくて、矢も盾もたまらなくなる。

 

 当時の日本の音楽界はそれこそクンズ&ホグレツのたいへんなことになっていて、笠井紀美子「Tokyo Special」などというのも見逃せない。「やりかけの人生」「Very Special Moment」、これもまたYouTubeでどうぞ。戦後30年しか経過していない日本の音楽って、いやはやマコトに激しかった。

(南イタリア・バーリ「Grande Arbergo delle Nazioni」。無料でアップグレードされたスイートルームは、いわゆる「スタイリッシュ」を狙ったお部屋であった 2)

 

 さて「旅行記」であるが、2019年9月8日、ワタクシは13連泊したバーリのホテル「Grande Arbergo delle Nazioni」をチェックアウトすることにした。朝8時に起床して1時間ほどお風呂に入り、荷造りをする段階になって、無性に悲しくなった。

 

 こういう時は、ホントに危険なのである。何が危険かと言って、もちろん「パチン」「ヌルッ」の危機が迫っている。長い人生を思い返してみると、ワタクシの「パチン」と「ヌルッ」は、必ず苦悩と悲嘆の中で訪れる。

 

 小5の時も、高3の時も、最後の1997年も、みんな同じだった。その後は苦悩も悲嘆もほとんど訪れていないし、2005年以降は「タガ」という存在を忘れてしまったから、フワフワ&ニコニコ、楽しい気球生活を続けてきた。しかし今、こんなに穏やかなアドリア海岸の街にサヨナラを告げようとしているのである。

 

 いやはや、13連泊のこのホテル、「スタイリッシュをやりそこねました」という可愛らしいホテルだった。いきなり電気がみんな切れてしまうし、シャワーブースにドアがないのはカッケーとしても、ドアがないせいで夏なのに異様に寒いシャワーブースだった。

 

 進撃の巨人でも入れるぐらいの巨大バスタブはジャグジーつき。おかげで温泉旅行並みに連日お風呂ばかり入って、19年3月に南フランスの田舎町ヴァンスで購入したプロバンス石鹸1個が2週間でなくなった。風呂上がりにスイカ半個をまるまる貪り尽くし、スイカの皮の捨て場に困った。ホントに楽しい滞在だった。

(ホテルロビー。部屋とそっくりのデザインでまとめようと頑張ったらしい)

 

 正午前、泣きだしそうになりながら、ロビーに降りて精算を済ませた。「3時ごろまで、荷物を預かってください」とフロントにお願いして、すっかり慣れ親しんだ海岸の道を旧市街に向かって北上した。

 

「えっ、しつこいですね。まだ何かやるの?」であるが、もちろん諸君、まだ何かやるに決まっている。こんなに慣れ親しんだ町に別れの挨拶をしないで無慈悲に立ち去るようなことをすれば、どうせまた「パチン」と「ヌルッ」がやってくる。

 

 向かった先は、「イタリア語しか絶対に話してくれない店」。またイタリア語でタコの丸焼きとスイカを注文し、ガハガハ笑いながら南イタリアを満喫して帰りたい。イタリア語しか通じない店の詳細は、以下をクリックしてくれたまえ。

 

Tue 200616 医学部バブルの話/イタリア語オンリー(アドリア海岸探険記15)3945回

 

1E(Cd) Maazel & WienerTCHAIKOVSKYSUITE No.3  R.STRAUSSTOD UND VERKLÄRUNG

2E(Cd) Dorati & Washington D.C.TCHAIKOVSKYSYMPHONY No.4

3E(Cd) Barenboim & ChicagoTCHAIKOVSKYSYMPHONY No.5

4E(Cd) Gergiev & KirovTCHAIKOVSKYSYMPHONY No.6

5E(Cd) Argerich, Chailly & RSO BerlinTCHAIKOVSKYPIANO CONCERTO No.1 & RACHMANINOVPIANO CONCERTO No.3

6E(Cd) Gergiev & KirovRACHMANINOVSYMPHONY No.2

7E(Cd) AshkenazyRACHMANINOVPIANO CONCERTOS 1-4 1/2

8E(Cd) AshkenazyRACHMANINOVPIANO CONCERTOS 1-4 2/2

9E(Cd) The State Moscow Chamber ChoirRACHMANINOVVESPERS op.37

10E(Cd) Brendel(p) Previn & WienerMOUSSORGSKYPICTURES AT AN EXHIBITION

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