Sun 130922 予想通り初雪が降った 道東の思ひ出 オホーツクとサロマ湖をあきらめる
10月16日、早朝3時まで台風の激しい雨の音を聞きながら起きていた。いつでも午前3時にベッドに入るのが習慣だから、このことは別に何の不思議もないのだが、この段階でちょうど首都圏が暴風雨圏に入ったぐらいの時刻。風雨が急に強まって、「お、いよいよ来たな」という緊張感の漂う頃だった。
ところがサト助は危険に対してマコトに鈍感であるから、午前8時に目覚まし時計が鳴るまで、一切の記憶なしにグッスリ眠ったのである。目が覚めるとすでに雨雲は首都圏を去り、台風の中心は犬吠埼の北東に出て、進路をさらに東寄りに変えた後だった。
お昼の天気図を見ると、台風が太平洋をどんどん北上するにつれ、気圧配置は西高東低の激しい冬型に変わっている。台風は温帯低気圧に変わるか変わらないかの段階だったが、中心気圧965hPaの低気圧が三陸沖とかオホーツク海上にあれば、これがもし12月や1月なら、北日本全域が大雪やドカ雪に襲われ、秋田県の日本海岸なんかは猛烈な吹雪にさらされる。
(1982年3月、湧網線・佐呂間駅の若き今井君)
天気図の等圧線が言語道断に混み合っているのを見て、北国生まれの今井君の本能は、天候の急変が差し迫っているのを察知した。
「まだ10月だけれども、これは必ず大雪がくる」
「先週の日本は夏日だの真夏日だのを連発したが、北海道はおそらく今日が初雪だ」
諸君、冬眠を間近に控えたツキノワグマの嗅覚は確かだ。その直後、まず旭川と帯広から、富良野と札幌からも、初雪の知らせが届いた。
北海道での初雪はNHKニュースでも報じられた。降り積もった富良野の雪の中で、オバーチャンが天を仰いで苦笑しながら、「これから、たいへんです」と溜め息をついた。
おやおや、「これから、たいへん」も何も、クマ蔵は明日がもうたいへんそうだ。明日は昼のヒコーキで移動して、夕方から北海道北見市でお仕事がある。もちろん、もしお仕事が今夜だったら、台風のせいでヒコーキが欠航してお仕事も何もかも台無しになっていただろうが、あんな大雪だとすれば、明日も十分たいへんそうだ。
(湧網線。超・大昔の国鉄時刻表より)
実は、明日17日のお仕事が終わったら、翌18日は北見から石北本線のローカル列車に乗って1時間、網走まで小旅行をしてこようと考えていた。いや、もっと正直に言えば、網走からさらに足を伸ばし、常呂→佐呂間→湧別と、むかしむかし国鉄・湧網線が走っていたあたりをバスでブラブラ旅することさえ企てていたのである。
湧網線は、1987年に無慈悲に廃止されてしまった。今井君が旅したのは1982年の3月。能取湖・オホーツク海・サロマ湖の沿岸を走って、そのまま乗っていれば、中湧別からさらに北の興部まで行けた。北上するときは、進行方向右に乗る。次々と現れる荒れ果てた湖岸や海岸の風景を、心行くまで満喫できたはずだ。
30年も前の今井君の旅は、その後もさらに北上を続けた。興部から名寄本線に乗り換えても北上は可能だが、ボクらは興部から「興浜南線」というディーゼルカーに乗った。乗り鉄のヒトも撮り鉄のヒトでも、みんなが遠い目をして涙を流す例の「キハ」が、たった4駅の間を30分かけて走っていた。
(大昔のキハと、大昔の今井君。大昔の北海道にて)
むかしの北海道にはいくらでもあった「盲腸線」である。本線から短い盲腸みたいにニョキッと突き出して、やがて行き止まりになる。興部を出て、マコトに不承不承に唸りながらキハが走り出すと、右の車窓に冬の真っ青なオホーツク海が広がった。
まだ温暖化はそんなに進行していない時代だから、3月上旬の北海道はまだ真冬の真っ盛り。いったん吹雪になれば、命の危険性すら感じずにいられない北の果てを、「オム」という街までキハで走った。「雄武」と書いてオムと読む。興浜南線はここが終点。駅から西に漁村の坂道を降りていけば、もうそこは冬のオホーツク海であった。
ここから先の線路はないから、北上したいならバスを利用するしかない。北見枝幸まで、真冬のオホーツク海を右に眺めながらバスで走り、そこから興浜北線に乗る。これもまた短く垂れた盲腸線であって、最北の稚内を目指すには終点で天北線に乗り換えなければならなかった。
(興浜南線。超・大昔の国鉄時刻表より)
台風の去った2013年10月、ふと大昔の時刻表を取り出し、現在の時刻表を見比べると、余りに多くの鉄道が廃止になってしまったことに気づく。もちろん、その時刻表だって、表紙には「交通公社監修」とあり、裏表紙には「長銀のワリチョー」の広告がある。時代が違うのも当たり前だ。
1982年の若き今井君たちは、北海道の全ての列車に1ヶ月間何度でも乗れる「北海道周遊きっぷ」というものを東京で購入して旅に出た。
周遊きっぷなら急行も無料だったから、無理をして夜行急行を乗り継ぐ旅を選択したが、今思えばあの貧乏旅行こそ、ここまでの人生でももっとも楽しい旅のうちの1つだった。2005年早春のヨーロッパ40日大周遊に勝るとも劣らないのである。
(網走・北見付近の国鉄路線図。超大昔の国鉄時刻表より)
当時、道央の炭坑地帯には、まさに編み目のように鉄道が走っていたし、道東も道北も、鉄道で旅をしようとして、出来ないところは少なかった。浅田次郎原作、1999年公開の映画「鉄道員(ぽっぽや)」が描いた北海道の鉄道を、1982年の今井君は思うぞんぶん乗り回したのである。
明日の北見での仕事の後、計画では翌朝の石北本線で網走に出て、今は廃線になった湧網線ルートをバスで北上、湖やオホーツク海の風景を満喫しながら、湧別あたりまで行ってみるつもりだった。
しかし諸君、初雪だ。テレビで見たところでは、富良野や旭川の今日の積雪は半端なものではない。夜7時のNHKニュースは網走の海の荒れ模様を最後に映したが、あれほど激しい波が逆巻く海岸に出たら、サトイモなんかひとたまりもなさそうだ。
うにゃにゃ、マコトにマコトに残念であるが、密かに温めてきた計画は、「また次回」ということにせざるを得ないようである。
1E(Cd) Ricci:TCHAIKOVSKY/VIONLIN CONCERTO・PAGANINI/CAPRICES
2E(Cd) Maazel & Wiener:TCHAIKOVSKY/SUITE No.3 R.STRAUSS/TOD UND VERKLÄRUNG
3E(Cd) Dorati & Washington D.C.:TCHAIKOVSKY/SYMPHONY No.4
4E(Cd) Barenboim & Chicago:TCHAIKOVSKY/SYMPHONY No.5
5E(Cd) Gergiev & Kirov:TCHAIKOVSKY/SYMPHONY No.6
total m128 y1659 d11855
ところがサト助は危険に対してマコトに鈍感であるから、午前8時に目覚まし時計が鳴るまで、一切の記憶なしにグッスリ眠ったのである。目が覚めるとすでに雨雲は首都圏を去り、台風の中心は犬吠埼の北東に出て、進路をさらに東寄りに変えた後だった。
お昼の天気図を見ると、台風が太平洋をどんどん北上するにつれ、気圧配置は西高東低の激しい冬型に変わっている。台風は温帯低気圧に変わるか変わらないかの段階だったが、中心気圧965hPaの低気圧が三陸沖とかオホーツク海上にあれば、これがもし12月や1月なら、北日本全域が大雪やドカ雪に襲われ、秋田県の日本海岸なんかは猛烈な吹雪にさらされる。
(1982年3月、湧網線・佐呂間駅の若き今井君)
天気図の等圧線が言語道断に混み合っているのを見て、北国生まれの今井君の本能は、天候の急変が差し迫っているのを察知した。
「まだ10月だけれども、これは必ず大雪がくる」
「先週の日本は夏日だの真夏日だのを連発したが、北海道はおそらく今日が初雪だ」
諸君、冬眠を間近に控えたツキノワグマの嗅覚は確かだ。その直後、まず旭川と帯広から、富良野と札幌からも、初雪の知らせが届いた。
北海道での初雪はNHKニュースでも報じられた。降り積もった富良野の雪の中で、オバーチャンが天を仰いで苦笑しながら、「これから、たいへんです」と溜め息をついた。
おやおや、「これから、たいへん」も何も、クマ蔵は明日がもうたいへんそうだ。明日は昼のヒコーキで移動して、夕方から北海道北見市でお仕事がある。もちろん、もしお仕事が今夜だったら、台風のせいでヒコーキが欠航してお仕事も何もかも台無しになっていただろうが、あんな大雪だとすれば、明日も十分たいへんそうだ。
(湧網線。超・大昔の国鉄時刻表より)
実は、明日17日のお仕事が終わったら、翌18日は北見から石北本線のローカル列車に乗って1時間、網走まで小旅行をしてこようと考えていた。いや、もっと正直に言えば、網走からさらに足を伸ばし、常呂→佐呂間→湧別と、むかしむかし国鉄・湧網線が走っていたあたりをバスでブラブラ旅することさえ企てていたのである。
湧網線は、1987年に無慈悲に廃止されてしまった。今井君が旅したのは1982年の3月。能取湖・オホーツク海・サロマ湖の沿岸を走って、そのまま乗っていれば、中湧別からさらに北の興部まで行けた。北上するときは、進行方向右に乗る。次々と現れる荒れ果てた湖岸や海岸の風景を、心行くまで満喫できたはずだ。
30年も前の今井君の旅は、その後もさらに北上を続けた。興部から名寄本線に乗り換えても北上は可能だが、ボクらは興部から「興浜南線」というディーゼルカーに乗った。乗り鉄のヒトも撮り鉄のヒトでも、みんなが遠い目をして涙を流す例の「キハ」が、たった4駅の間を30分かけて走っていた。
(大昔のキハと、大昔の今井君。大昔の北海道にて)
むかしの北海道にはいくらでもあった「盲腸線」である。本線から短い盲腸みたいにニョキッと突き出して、やがて行き止まりになる。興部を出て、マコトに不承不承に唸りながらキハが走り出すと、右の車窓に冬の真っ青なオホーツク海が広がった。
まだ温暖化はそんなに進行していない時代だから、3月上旬の北海道はまだ真冬の真っ盛り。いったん吹雪になれば、命の危険性すら感じずにいられない北の果てを、「オム」という街までキハで走った。「雄武」と書いてオムと読む。興浜南線はここが終点。駅から西に漁村の坂道を降りていけば、もうそこは冬のオホーツク海であった。
ここから先の線路はないから、北上したいならバスを利用するしかない。北見枝幸まで、真冬のオホーツク海を右に眺めながらバスで走り、そこから興浜北線に乗る。これもまた短く垂れた盲腸線であって、最北の稚内を目指すには終点で天北線に乗り換えなければならなかった。
(興浜南線。超・大昔の国鉄時刻表より)
台風の去った2013年10月、ふと大昔の時刻表を取り出し、現在の時刻表を見比べると、余りに多くの鉄道が廃止になってしまったことに気づく。もちろん、その時刻表だって、表紙には「交通公社監修」とあり、裏表紙には「長銀のワリチョー」の広告がある。時代が違うのも当たり前だ。
1982年の若き今井君たちは、北海道の全ての列車に1ヶ月間何度でも乗れる「北海道周遊きっぷ」というものを東京で購入して旅に出た。
周遊きっぷなら急行も無料だったから、無理をして夜行急行を乗り継ぐ旅を選択したが、今思えばあの貧乏旅行こそ、ここまでの人生でももっとも楽しい旅のうちの1つだった。2005年早春のヨーロッパ40日大周遊に勝るとも劣らないのである。
(網走・北見付近の国鉄路線図。超大昔の国鉄時刻表より)
当時、道央の炭坑地帯には、まさに編み目のように鉄道が走っていたし、道東も道北も、鉄道で旅をしようとして、出来ないところは少なかった。浅田次郎原作、1999年公開の映画「鉄道員(ぽっぽや)」が描いた北海道の鉄道を、1982年の今井君は思うぞんぶん乗り回したのである。
明日の北見での仕事の後、計画では翌朝の石北本線で網走に出て、今は廃線になった湧網線ルートをバスで北上、湖やオホーツク海の風景を満喫しながら、湧別あたりまで行ってみるつもりだった。
しかし諸君、初雪だ。テレビで見たところでは、富良野や旭川の今日の積雪は半端なものではない。夜7時のNHKニュースは網走の海の荒れ模様を最後に映したが、あれほど激しい波が逆巻く海岸に出たら、サトイモなんかひとたまりもなさそうだ。
うにゃにゃ、マコトにマコトに残念であるが、密かに温めてきた計画は、「また次回」ということにせざるを得ないようである。
1E(Cd) Ricci:TCHAIKOVSKY/VIONLIN CONCERTO・PAGANINI/CAPRICES
2E(Cd) Maazel & Wiener:TCHAIKOVSKY/SUITE No.3 R.STRAUSS/TOD UND VERKLÄRUNG
3E(Cd) Dorati & Washington D.C.:TCHAIKOVSKY/SYMPHONY No.4
4E(Cd) Barenboim & Chicago:TCHAIKOVSKY/SYMPHONY No.5
5E(Cd) Gergiev & Kirov:TCHAIKOVSKY/SYMPHONY No.6
total m128 y1659 d11855