Sat 090926 15年ぶりに室井光広の名前を書評欄に発見する 見習えば、人生は変わったか | 今井宏オフィシャルブログ「風吹かば倒るの記」Powered by Ameba

Sat 090926 15年ぶりに室井光広の名前を書評欄に発見する 見習えば、人生は変わったか

 9月27日朝日新聞の読書欄を見ていたら、隅っこのほうにあまり大きくない扱いではあるが、室井光広「プルースト逍遥」(五柳書房)についての書評が掲載されていた。「世界文学シュンポシオン」というサブタイトルがついている。まあ、この本自体はあまり売れそうにないけれども、おお、室井光広である。「なつかしきことかぎりなし」である。もちろん、この15年は室井光広の消息を聞くことは多くなかった。というか、完全に忘却の彼方だった。しかし、芥川賞作家である。1994年「おどるでく」で芥川賞受賞。現在は東海大学文学部准教授とのことである。


 室井光広がどのぐらい「消息不明」だったかは、「室井」でグーグってみればわかる。「室井」で検索して出てくるのは、室井滋、室井祐月、室井慎次。室井慎次なんか、ドラマの中の登場人物にすぎない。芥川賞受賞の有名作家だったのに、フィクションにさえ負けているのである。他に、「室井滋 都市伝説」「室井祐月 嫌い」というのも出てくる。確かに室井祐月は私もあまり好きなタイプではないが、「都市伝説」や「好き嫌い」にまで、芥川賞作家が勝てないのである。おお、グーグるのにも、機械の悲しい限界を感じることになる。

 

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(惰眠をむさぼる)

 

 それでは、室井光広や彼の「おどるでく」を、なぜ今井君が記憶しているかといえば、彼が芥川賞を受賞した15年前、私は駿台講師、彼もまた駿台講師だったからである。しかも、同じように奥井潔師に認められて、同じように郊外校舎で駿台伝説の教材「CHOICE」を担当していたからである。


 今井は柏校、室井師は千葉校。大宮で大島師、横浜でヒゲの斉藤雅師。もちろんお茶の水は奥井師、5号館は太師、市ヶ谷は長内師。駿台の中でもCHOICE担当講師だけは別格扱いで、今は亡き奥井師が首を縦にふらないかぎり、担当させてはもらえない。当時の今井君は「日の出の勢いのつもり」でお茶の水東大スーパークラスに出講し初めていたけれども、それ以上に「ついに奥井先生に認めてもらって、CHOICEがきたか」という喜びで一杯であった(昨年の記事ですが、是非Sun 080810参照)。

 

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(また、惰眠をむさぼる)

 

 お相撲の世界でさえ「品格だ、品格だ」とうるさいが、あえてその言葉をつかわせてもらえば、いくら人気のある講師でも、CHOICEだけは「品格」を認めてもらわないと担当できない。たとえ人気講師の仲間入りをしても、CHOICE組とそれ以外の講師の間には、「大横綱」と「単なる横綱」とのような大差があったのだ。


 もちろん、横綱だの何だのと言ってみたところで、たかが予備校講師である。CHOICE担当になったぐらいで浮かれているのは、何を隠そうこの今井君ぐらい。他の先生方は、東洋大学文学部長であられた奥井先生をはじめ、大島・斉藤雅・室井(敬称略)はみんな大学の世界の人物。予備校で教えている時間は、内心で苦虫を噛み潰すような思いでいらっしゃって、「生活費の足しに」しかたなく予備校の教壇に立っていた。

 

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(まだ、惰眠をむさぼる)

 

 奥井先生も、浮かれている今井君なんか本当は眼中にない。というか、若いのに、この程度のことで「日の出の勢い」とか勘違いしている今井君を、苦々しい気持ちで見ていらっしゃったに違いない。亡くなる何年か前に新宿で食事をご一緒したとき「今井君、室井君を見習いたまえ」と一喝されたことがある。


 15年も前のことだから、まだ今井君も若かったのである。「自分も、すぐにでも作家になるだろう」という思いは当時まだなくしていなくて、奥井先生の前でうっかりその気持ちを口に出してしまった。奥井先生は苦笑いされて、というより明らかに意地悪に口を歪められて、「お話にならん。室井君を見習いたまえ。室井君は毎日必ず3時間でも4時間でも原稿用紙に向かっている。キミは怠けてばかりだ。最後にものを書いたのは、いつかね?」と尋ねられた。


 ごくマジメに考えて、最後にマトモなもの(受験や英語に関連しないもの)を書いたのは、「10年ほど以前です」だった。そこで奥井先生はプッと噴き出されて、いつか書いた(これも昨年の記事ですが是非Fri 080809参照)とおり、
「今井君、キミの、メッチエは、いったい何なのかね?」
「は、メッチエって、何ですか?」
「はっ、お話にならん、はっ。そのままじゃ、キミは、痩せていくぞ」
「ところが、最近太り気味でして」
「馬鹿者、精神の話をしているので、ある!! 痩せていくのは、精神なので、ある!!!」
という奥井節が炸裂することになった。

 

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(パソコンから離れない勤勉さ)

 

 というわけで、今井君は15年前しっかり「室井君を見習」っていれば、人生の展開は全く違っていたのかもしれない。しかし、室井師を見習おうにも、余りに予備校が楽しく、余りに授業が面白くて、見習う気も何もなく年月ばかりが過ぎ去った。2009年9月、気がついてみると「最後にマトモなものを書いたのは25年前」、つまり四半世紀前という取り返しのつかない事態になってしまった。


 当時の芥川賞受賞者を見てみると、まさに錚々たるメンバーである。室井光広の前が小川洋子、辺見庸、荻野アンナ、多和田葉子、奥泉光、笙野頼子、辻原登など。1994年の室井光広の後は、保坂和志、川上弘美、辻仁成、柳美里、花村萬月、平野啓一郎、玄月、町田康、松浦寿輝、玄侑宗久、吉田修一など。
 

 もちろん、浮かれグマの今井君なんかが「室井くんを見習」っても、とてもこのメンバーにちゃっかり入れたとは思えない。しかし室井光広の名前を久しぶりに書評欄に発見した時は、嬉しさのあまり、中年グマは再び15年前の浮かれグマに返り、高い秋空に向かって一声大きく吠えたものである。