Sun 080810 伝説の駿台テキスト「CHOICE」 ボローニャ紀行2「サンルーカ」 | 今井宏オフィシャルブログ「風吹かば倒るの記」Powered by Ameba

Sun 080810 伝説の駿台テキスト「CHOICE」 ボローニャ紀行2「サンルーカ」

 奥井潔先生の思い出を一昨日のブログで語ったついでに、本棚の奥から駿台の伝説のテキスト「CHOICE」1994年版を探し出してきた。下の写真がその表紙である。当時、駿台講師としては憧れが2つあって「いつか本部校舎の東大スーパークラスを担当してみたい」という憧れと「いつかCHOICEを教えてみたい」というのであった。その2つともが一気に実現したのが1994年。私は全く面識がないが、当時名物講師でいらっしゃった入不二基義師が国立大学教授になられて、私はその空きにうまく入り込んで「お茶の水本部校舎・東大スーパー担当」になった。

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 その同じ年、駿台・柏校が開校。当時は予備校バブルの最終盤で、「新規開校ラッシュはもうこれで最後」という感じで柏校がオープン、私は水曜日のみ柏に出講して「CHOICE」を担当。千葉県の柏まで出かけてでも、それでも「CHOICE」を教えることには魅力があった。とにかく「CHOICEだけは滅多な講師には任せられない」という誇りが学校側にもあって、駿台でも選りすぐりの講師だけが毎年これを担当。本部校舎はかつて東洋大学文学部長も勤められた奥井潔師。市ヶ谷医学部校舎は長内師。お茶の水の京大コースでは太師。大宮は千葉大学講師でもあった大島師。千葉は芥川賞を受賞した直後の(いまどうなさっているのか全く知らないが)室井師。横浜と池袋は忘れてしまったけれども、とにかくこれは不動の布陣であって、駿台講師3年目の私などに入り込む余地は全くなし。柏校の開校はまさに千載一遇のチャンスだった。伊藤和夫師やその直系の高橋師・佐藤師・斉藤師など、いわゆる「駿台流構文主義」の先生方とは一線を画す、学者タイプ・教養優先の上品な先生方ばかりがCHOICE担当。その錚々たるメンバーの端くれに入れていただけること自体が「光栄の至り」と言ってよかった。

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 で、それほど講師たちの憧れを集めていたテキストの中身の写真が上。当時の私が夢中で予習していた後も残っている。おお、ケナゲである。この短くて難解極まる英文を、年間で約35問解説するのである。授業は年間で22回だから、1回の授業で1.5問ずつ進んでいけばいい。何とも中途半端な進み方になるが、今の高校生からみたら、このわずかな分量は驚きではないだろうか。1問14~15行。ということは一回の授業で20数行進めばそれでOKなのである。設問も、一切なし。英文を和訳すれば、それで終わり。素っ気ないことこの上なしである。そして、何という薄っぺらいテキストであろう。計ってみると、わずか2mmしかない。このテキストは、枕にするのではなく、ウチワにするのである。ウチワにすれば、下敷きより快適。

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 しかも、このテキストを最後まで終わる講師は一人もいない。1学期の「CHOICE」には17問入っていたが、一番進まなかった講師は4番まで。11回も授業があって、何をやっていたかといえば、担当した当人がいうには「クラスの雰囲気づくり」だというのだが、それはその講師独特のテレであって、実はずっと哲学と倫理学を論じていたのである。奥井先生も得意の奥井節でひたすら哲学を語り、英語のことなどほとんど語らない。何しろ大学の文学部長である。受験生の向学心をそそらずにはおかない。それまで英文を文法に頼ってやっとのことで和訳していた受験生は、みな自らの軽薄な読解を恥じ、奥井師の一言一言を一切聞き逃すまいとひたすら耳を傾け、ノートは間違いなく哲学のノートになる。間違いなく、あれは素晴らしい時代だった。


 講師たちの進度があまりにも遅いので、奥井先生による「進度調査」というのがあった。1学期も2学期も、CHOICEをどこまで講義したか、奥井先生が聞き取り調査を(つまり飲み会を)行うのである。奥井先生が納得しなければ、厳しい叱責を受ける。ただし、どれほど遅くても叱責を受けることはない。叱られるのは「速すぎる」「進みすぎる」講師なのである。「キミ、そんなに速く進んで、講義内容は痩せていないかね」「たった11回の授業で、なぜ6問も進んだのかね。キミの授業は痩せ細っている。痩せ細った講義をカテに、若者の精神の成長がありうると考えられるかね」「キミは、若者の心の不安を感じ取っていないのだ。」


 私は、いつでもテキストを最後まで解説し「やり残し」は決してしない主義で生きてきたから、こういう叱責はすべて自分に対するものとして受け止めた。叱られることを苦にする必要はない。こういう場面で「理不尽だ」「納得がいかない」といっていちいちむくれていては成長などありえない。奥井先生には、叱る権利があって、たとえ正しいことをしていても、叱られることに利益もある。先生の言葉を聞ければそれでいいのであって、理不尽に叱られてもそれをプラスに変えられれば、全てがプラスになるだろう。


 もちろん、こんなテキストで「受験テクニック」などという下品きわまりないものが身につくわけはない。そういうものとは全く無縁のところに「CHOICE」は位置づけられていたのであって、予備校の世界の良心の、または予備校の世界に残った夢と希望の、最後の輝きだったかもしれない。21世紀も最初の10年が過ぎようとしている今の受験生にああいう授業を強制するのには無理があるだろう。時代が違うのだ。2008年のセンター試験を見てみればいい。出題傾向は「暴漢によってメチャメチャに荒らされたオフィスを、短時間内で元のように整理整頓し直す能力」を問うような問題ばかりであって、しっかりした哲学や教養をじっくり試す出題とはほど遠い。それが良いとか悪いとかの問題ではなくて、単に時代がかわってしまい、奥井先生のように悠然と「CHOICE」を片手に「私にとって所謂(いわゆる)受験英語というものは存在しない。本物の英語力を身につけることが全てだ」と言い切ることは不可能な時代になってしまった、ということである。

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 4月19日、昨日書いたボローニャDuomo前の場面までで、既に時刻は16時を過ぎていた。しかしこれから、「マドンナ・ディ・サン・ルーカ」に参拝しようと考える。今いる旧市街Duomo前から南西に向かって約5km、標高約300m。ボローニャに到着しようとする列車の車窓から、この3日間何度も見た聖堂である。緩やかな緑の丘、周囲に広がる田園の風景、少し夕焼けの色がさしはじめた空、全てが非常に印象的である。片道1時間半かかるとして、往復3時間強、19時過ぎまでには旧市街に戻ってこられる計算である。「登山」と表現してもおかしくない道のりだが、イタリアの夜は遅い。暗くなるのが20時過ぎだから、焦らずにゆっくりポルティコの道を楽しんでくることが出来る。

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 というわけで、16時過ぎ、ついにサン・ルーカに向かって歩き出してしまった。上の写真はポルティコの道の入り口。ここでも既に旧市街から20分ほど歩いた場所である。あとは、3.5kmにわたってポルティコが延々と続くのである。

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途中インドからの移民労働者の店が多くなったり、それが中国系になったりモロッコ系になったりするが、ポルティコは色も形も変化せず、本当に3.5km、これでもかこれでもかと連続する。

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バラ色の石材、丸いアーチ、人々はそのアーチの下を黙々と歩いてサン・ルーカを目指す。途中ポルティコの道は左に90度折れ、下の自動車道を渡り、今度は右に90度折れ、いよいよ山登りに入って、少しずつ傾斜がきつくなっていく。

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右の崖下にサッカー場を見下ろし、西からの強烈な直射日光を受けて人々は汗を拭い、行き会う人は何故かみな挨拶代わりに微笑してみせ、「きついですね」「つらいですね」という意味の苦笑や目配せを互いに交わし合う。

やがて坂道は暗い階段にかわり、

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暗い階段を登り詰めると、

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一気に山の上に出る。サン・ルーカは、目の前である。

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9D(DvMv) ALEXANDER
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