Fri 090925 クマ除けを徹底すべきだった 「攻撃してきたら、射殺は当たり前」なのか | 今井宏オフィシャルブログ「風吹かば倒るの記」Powered by Ameba

Fri 090925 クマ除けを徹底すべきだった 「攻撃してきたら、射殺は当たり前」なのか

 もう1週間も前のことだから、忙しい国民はもうすっかり忘れてしまったかもしれない。岐阜の山中のバスターミナルに現れたクマについては、人間たちが狭い売店に追い込み、地元猟友会の猟銃で有無を言わせず射殺してしまったわけだから、もう取り返しがつかない。「冥福を祈る」「天国で幸せに暮らしてください」というしかない。床に流れた生々しい血の跡を見たまえ。殺されて手足を縮めた姿、悲しげに見開いた小さな瞳を見てみたまえ。あれは虐殺である。「こっちに向かって攻撃してきたら、虐殺してもOK」という発想は、「人間みな兄弟」「宇宙船地球号」「命の大切さを子供たちに伝えたい」などという、大人たちの大好きなキレイゴトを、一瞬でひっくり返してしまう。
 

 9月27日日曜日の朝日新聞に、この虐殺事件についての中学生の投書が掲載されている。「声」のページ、「若い世代」の上から2つ目。埼玉県入間市の14歳の中学生、明石瑞恵さんという署名もある、たいへんキチンとした投書である。「クマは殺されなければならなかったのか」について立派な考察が行われていて、我々大人は心して読むべきである。「みづえ」さんであろうか、我々の世代は「みづえ」というと「高田みづえ」→「硝子坂」→「私はピアノ」→「元大関・若島津の奥様」というバカバカしい連想がどこまでも広がっていくのであるが、まあバカバカしい話はそこでヤメるとしよう。

 

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(クマとの共存。ネコの顔までクマに似てくる)

 

 クマが以前から目撃されていたというなら、なぜもっとクマ除け対策を講じなかったのか。クマの棲息する山間部に人間が進出するなら、キチンとしたクマ除け対策を講じなければならない。クマは完全に被害者である。


 あのとき、クマは必死だったのである。「助けてくれ」「逃がしてくれ」「お願いだ、オレに向かってくるな」と叫んでいたのである。以前から何度も近くに姿を現していたというのだから、「自分の存在は認識されている」「だから人間たちがパニックになるはずはない」と、クマなりの頭で、優しく、大人しく、ぼんやり考えていたのである。激しい身振りで追い払われたクマの困惑、狭い物置小屋に追い込まれたクマの恐怖、騒然としたバスターミナルの中に迷いこんだクマの混乱。それを人間に当てはめて考えたとき、素手のクマ(あたりまえだ)丸腰のクマ(あたりまえだ)が必死で戦った勇敢さは、誠に立派なものである。

 

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(野生動物との共存を考える 1)

 

 オスだから、子グマ連れではなかっただろう。それだけが救いである。しかし、何らかの事情で子グマを連れていたとでも考えてみると、この虐殺は許されるべきことではない。お腹をすかせた子グマが泣き出して、「何か食べたい」とダダをこねただろう。「おお、それならお父さんが何かもらってきてあげよう。このあたりではちょっと知られてるかもしれないんだ」と子グマをなだめただろう。「大丈夫かねえ。人間は優しくしてくれるかねえ」と不安になりながらも、子グマの無邪気な笑顔を見て、「でも、やってみようかね。当たって砕けろ、とも言うしね」と思い直しただろう。


「おまんじゅうか、おだんごでいいか?」
「うん。おだんごがいいな」
「よし、おだんごだな。じゃ、ここで待ってなさい。動いちゃダメだぞ」
みたいな会話があって、お父さんは初めて人間たちの社会に向かって歩き出したのである。

 

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(野生動物との共存を考える 2)

 

 ところが、思ってもみなかったほど近いところに、突然人間たちが現れる。激しく追い払われる。追い回される。たくさんのヒトが逃げ惑う。クラクションが一斉に鳴る。慣れない狭い空間に閉じ込められる。後は、惨劇である。「向かってきたから、射殺した」である。
 

 万が一、殺されていく彼の姿を物陰から見守る子グマがいたとして、子グマの胸がどんな感情で満たされたか。どれほど呆然としたか。死んでいく彼のうめき声をどんな思いで聞いたか。どれほど泣きじゃくったか。これからの厳しい冬を前にして子グマをどんな運命が待ち受けているか。森の中の野犬やカラスの群れからどうやって身を守っていくのか。そういうことを考えて、我々はもっと涙を流すべきである。
 

 いつか「奈良漬けグマ惨殺事件」の時にも書いたのだが(Tue 090811)、麻酔銃の使用、睡眠薬の使用、はるか遠くの山中での解放、そういう道は残されているはずだ。「歯向かうものは射殺」「自分たちに危害を加えたものは虐殺」「向こうが攻撃してきたのだ、惨殺は当然の処置」というのでは、この先進国の国民は、余りに原始的、余りに野蛮である。

 

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(野生動物との共存を考える 3)

 

 まず、クマがどれほど優しく、どれほど不器用な愛すべき存在か、上野動物園に出かけて、よく観察すべきである。時間とお金をかけて旭山動物園なんかに出かけなくても、近くの上野動物園で十分である。


 土管の中に頭をつっこんで、腹這いで眠りこけている黒い毛玉のような獣を10分でいいから眺めてみたまえ。座り込んでイモやリンゴをかじっているクマの、のどの真っ白なツキノワがキラキラ光るのを目撃したまえ。秋田犬と比較しても、その大きさに大差はない。パンダと比較しても、その不器用な優しさではヒケをとらない。それをしっかり観察したまえ。「命の大切さ、伝えたい」も何も、全てはそれからである。
 

 それさえ面倒だ、「クマなんかいくら殺されてもかまわない」「じゃあ、おめえは、クマが向かってきても殺さねえのか?」「ナニサマのつもりだよ?」というあなたは、せめて東京・恵比寿「ベアホリック」のベアケーキでも食べながら(新聞チラシによると新宿小田急デパートの「おめざフェア」で買えるみたいです)、テディベアその他どれほどクマの世話になってきたか、のんびり考えてみていただきたい。
 

 せっかくTSUTAYAで「ネットで借りて自宅に届く」なら、映画「子熊物語」も観てみるといいい。あんなにカンタンに「向かってきた」「射殺した」では済まないことがわかるかもしれない。