Tue 090630 教師の読書がなぜ遅くなってしまうか ジェーン・オースティンと「受験英語」 | 今井宏オフィシャルブログ「風吹かば倒るの記」Powered by Ameba

Tue 090630 教師の読書がなぜ遅くなってしまうか ジェーン・オースティンと「受験英語」

 毎日毎日雨模様で、しかも気温が高い。ずいぶん長く生きてきたが、これほど梅雨らしい梅雨というのは珍しい。だいたいにおいてこの時期は「今年の梅雨はカラ梅雨気味で、水不足が心配される」というニュースになり、「心配される」の「れる」は「尊敬」「可能」「自発」「受け身」のうちのどれか、中学校の国文法の時間に国語の先生が必ず盛り上がり、「自発」の「れる/られる」が、初めて中学生の頭の中に染み込むように理解されるキッカケになるのだ(もちろんそんなことはない)。ということになると、たった1行前に自分で使った「理解される」の「れる」は「可能」か「自発」か「受け身」か、書いた自分でも判断がつかなくなってくるから、恐ろしい。


 こういうがんじがらめは、文法の参考書なんか書いていると必ず陥る一種の病気であって、文法書を書けば書くほど、それに比例して自分の読書スピードは下がる。英語でそういう苦しみがしょっちゅう訪れるのが、英語の教師のつらいところである。上下2巻500ページにもなる「わかりやすすぎて、呆れるほどわかりやすい」参考書がまもなく(おそらく7月下旬から8月上旬に)「今井の英文法教室・36日」というタイトルで書店に並ぶことになるが、校正を繰り返し、挿絵代わりの板書を書き(上下巻で150枚以上も書いた)、出版部に作成してもらった綺麗な表紙デザインを検討し、おお、これはいい本が出来ていく、発売が楽しみだ、その思いが高まるにつれて、どんどん英語の読書スピードは低下していくのである。

 

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(ナデシコの座布団)


 どういう苦しみかは、英語の教師以外はなかなか理解できないのではないかと思うが、英語で小説を読んでいても、社会学や心理学の本をめくっていても、旅行先のホテルのホームページを見ていても、それどころかダブリンからリバプールに渡るフェリーの会社のHPからフェリーのチケットを予約しようとしていても、そこに出てくる仮定法や比較表現や関係詞の使い方がいちいち気になって、「これを生徒にどう説明すればいいか」ばかりが頭を占領し、目の前が真っ赤になって、内容の読解なんか、もうどうでもよくなるのである。


 「んな、アホな」というヒトは、英語がよほど出来るおカタか、生徒の理解度を無視して「速読だ!!速読だ!!!」「わからなくても、読んでいればそのうちパッとわかるようになる」と怒鳴ってばかりいるお気楽な先生か、そのどちらかである。少なくとも、テレビのCMで「わからせますから、とにかく、呆れるほどわかるほどわからせますから」と連呼し、そのCMが連日連夜それこそ呆れるほど放送され、テレビを見ながら「あっ、オレだ」と絶句し続けている状況では、「ここを生徒に呆れるほどわからせるには、どう説明すればいいか」で、いちいち立ち止まることになるのは、むしろ当然である。というわけで、もともと丁寧すぎるぐらいに読書するクセがあって、そんなに速いわけではない読書のスピードは、それこそ呆れるほど遅くなっていく。

 

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(続・ナデシコの座布団)


 たとえ短い期間でも英語を教えたことのある人ならわかると思うのだが、こういう状況は何も英語での読書に限ったことではなくて、外国語の本を翻訳したものを読む時にも同様に現れてくる。例えば、最近少しだけ流行したジェーン・オースティンを読むとする。すると、この地味なイングランドの女性作家の小説の翻訳を読みながら、英語教師の関心は、たちまち小説以外のところに強烈に向けられてしまう(この『られる』は自発?受け身?)のだ。つまり、翻訳を読んでいてさえ、「受験英語独特」と呼ばれているような古風な特殊表現の痕跡に次々と気づき、「お、これは、原文ではあれかな?」と思い、原文と照らし合わせては「当たり!!」ほくそ笑む、そういう場面がきわめて多くなるのである。


 流行したといっても、オースティンの本を「購入すること」だけが流行したのであって、実際にあの退屈でつまらないオースティンを何冊も「実際に読破したヒト」がどれだけいるかわからない。だって、時代背景だってなかなか想像がつきにくい18世紀だし、普通のヒトなら馴染みのないイングランドの田園地帯が舞台(ロンドンなんか全く登場しない)だし、中流と上流の中間の微妙な階層が、自分たちより下の階層の人たちに対して変に威張り散らして生きているだけだし、別に大きな歴史的事件を背景にしてもいないし、奇想天外な事件が起こるわけでもないのである。


 田園地帯の名士の令嬢(要するに田舎のお嬢)が、お友達や親戚の人々と穏やかにお茶を飲みつつ、音楽について語り合い、時代の変化について語り合い、結婚観を語り人生観を語るうちに引かれあい、波乱も事件もなしに結婚し、小さな舞踏会があり、そこでも踊りの合間にお茶を飲み、語り合う。死が顔を出すことがあっても、それは天寿を全うしたヒトの穏やかな死であって、事件性は一切なし。酒さえ登場しない。私としては大好きな小説家だが、こういう20世紀のデュラスを先取りしたみたいな「何一つ起こらない」という小説世界をのんびり楽しめるような読者がそんなにいるわけではないのは、そのへんの書店に出かけて「売れてる本」のラインナップを見ればわかることである。

 

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Sat 090628のブログでふれた「アラブ飲酒詩選」など。スペイン旅行の前に是非どうぞ)

 まあ、そういうこともいろいろあって、オースティンに限らず、翻訳物を読むと「おお、これは例の受験英語でお馴染みの、あの表現ね」とほくそ笑む場面が増えすぎるのだ。「the 比較級 for」「no sooner … than」「no more …than」「lest … should」その他、「枚挙にいとまがない」とはまさにこのことであるが、ページをめくりつつ今さらながら実感するのは、「悪名高い日本のいわゆる受験英語を作り上げたのは、この時代のイギリス文学の研究に没頭していた、生真面目(キマジメと発音してください。このあいだ、真顔で『クソマジメ』と読んでいるヒトに出会いました)な英文学者たちではなかったか」ということである。ブロンテ姉妹の小説を翻訳で読んでも同じことを実感することになる。


 そういえば、英語読解の入試問題で「女性作家の小説を読むことは、例えば小銭をたくさん持って街を歩くことに似ている。男性作家は滅多に使わない珍しい表現ばかり使っているが、女性作家のものを読めば、日常的な表現や単語にたくさん出会える。だから初心者は女性作家のものを読むと上達が早い」という内容の文章が出題されたことがあった。あれは、確か名古屋大学だったと思う。

1E(Cd) Karajan & Berliner:BACH/MATTHÄUS-PASSION 1/3
2E(Cd) Karajan & Berliner:BACH/MATTHÄUS-PASSION 2/3
3E(Cd) Karajan & Berliner:BACH/MATTHÄUS-PASSION 3/3
4E(Cd) Krause:BACH/DIE LAUTENWERKE・PRELUDES&FUGEN 1/2
5E(Cd) Krause:BACH/DIE LAUTENWERKE・PRELUDES&FUGEN 2/2
10D(DvMv) THE KINGDOM OF HEAVEN
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