今井宏オフィシャルブログ「風吹かば倒るの記」Powered by Ameba
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Wed 260624 カウントダウン1/この日が本当に/松和荘2世に帰る/さあ次回だ 4999回

 連日連夜こんなに興奮して、いい歳をしてマコトにみっともないとは思うのだが、もしも「目標は5000回」と設定した何事かがあって、どうやらいよいよそれが達成可能だと言ふゴールラインというかゴールのテープが見えてきて、しかもいま目の前に「4999」の数字が見えたら、それで「興奮しなさんな」なんてのは、そりゃ無慈悲すぎないだろうか。

 

 ワタクシは、何でもかんでも文庫本を尺度に考えるクセがあって、このシロートの長文ブログ、「1日につき文庫本6ページ分」を目安に、18年間たゆまず書いてきたのである。

 

 何しろ曲がりなりにもワタクシは「先生」と呼ばれる立場にいるのだ。京都の居酒屋でも、ヒコーキのCAさんにも、薬師寺を訪れた修学旅行の女子高生たちにも、30年も前に生徒だった税理士や医師や弁護士の先生たちにも、それなりに尊敬のこもったマナザシで「先生ですか?」と声をかけられる。

 

 一般に「先生!!」と呼ばれる人間は、「みっともないことをしちゃダメだ」のプレッシャーに耐えて生きていくのである。ま、生徒諸君には模範演技を見せ続けなければならない。このプレッシャーはなかなかのものであって、特にTVCMにも20年近く顔を出していれば、何が何でも模範演技を続けなきゃいけない。

(4999回にしては、あまりに地味な駅の、あまりに地味な写真であるが、何故これを選択したかは、本日の記事をしっかり読んでくれたまえ)

 

 もちろんそういうプレッシャーこそが、こうして元気に生きていく原動力なので、「先生!!」とも「先生ですか?」とも声をかけられなくなったり、在籍する予備校のCMにも姿を現せなくなったりすれば、きっとたちまち生きていく張り合いを失って一気にヨレヨレ、しょんぼり融けて萎んで消えてなくなってしまうんじゃないか。

 

 だからこのブログも、模範演技のつもりで書いてきた。18年前に「10年、1日も休まず続けます」と宣言した時は、すでに「そろそろ引退」とさえ口にするほどココロは疲労していたが、それでも大震災と網膜剥離の緊急手術時を除けば、ホントに10年休むことなく自分なりの模範演技を続けたわけである。

 

「すでに18年前に『そろそろ引退』を口にしながら」については、2008年6月5日の第1回を読んでいただければハッキリ分かるが(Thu 080605 ブログ開設にあたって)、何しろシツコさと粘り強さが身上の今井君、引退どころかそのまま18年が経過しても、まだまだ模範演技は続けているし、TVCMへの出演も途切れず続けさせていただいている。

 

 だから今回、5000回への直前の4999回に至っても、「これでオシマイにします」とか「筆をおきます」とか、そんな弱気なことを言うつもりは毛頭ないのである。

  (6月22日、京成線柴又駅のホームから、京成金町駅方面を望む)

 

 そもそも「筆をおきます」と言う時、「おく」という漢字は「置く」ではない。「擱筆(かくひつ)」と言って、筆は「置く」ではなくて「擱く」と書くのである。今井君はまだこんな若造であるから、「筆を擱く」だなんて、そんなカッケーことは出来そうにない。だから5001回から先も、まだ続くのである。

 

 そのことについては、すでに1ヶ月も前にこの場で宣言したはずである。タイトル「風吹かば倒るの」の傍に「余滴編」と付け加え、インク壺に残ったわずかなインク、硯の池に残ったわずかな墨を「余滴」と呼んで、「その余滴でまだナンボでも書き続けられるだろう」と言ふ勢いはなくしていない。

 

 硯の場合、墨をためる部分を控えめに「池」と呼ぶ人もいれば、「海」と言う人もいる。ワタクシも海派なので、小学1年生の春に初めてのお習字を習いに行った大口先生と言うオジーチャン(本名です)が、池と呼ばず海と呼んだのがその始まりである。

 

 大口先生はマコトに模範的な字を書かれる方で、小学1年の今井君が半紙に「らくだ」と大書して大きな書道コンクール銀賞に輝いた時も、小学2年の今井君が「しらゆき」で金賞に輝いた時も、ずいぶん歯の抜けた大きなお口で破顔一笑、大いに褒めて下さった。

  (6月22日、京成線柴又駅のホームから、京成高砂駅方面を望む)

 

 だから今井君も、まだまだ模範演技を続けたい。いつ終わるとも分からない。終わることを期待している人もそれなりにいるんじゃないかと思うのだが、ワタクシはそういう人々の期待に簡単に沿うことはしたくない。まだナンボでも続けられるんだから、ヤメないこともまた模範演技なのである。

 

 思えば諸君、1回につき文庫本6ページで5000回続ければ、文庫本にして3万ページになる。標準的な文庫本が250ページだとすれば、3万を250で割った商が120、ワタクシは18年で文庫本120冊を書き上げたことになる。こりゃ諸君、ものすごいことである。

 

 いやもちろん、もしもプロの作家が120冊、そういうことは十分にあり得るだろう。徳川家康だけで文庫本30冊近い大長編を描いた作家もいらっしゃった。しかし今井君は、全くのド♡シロートであって、書いても書いても、どんなに頑張っても、ダーレも褒めてくれはしない。

 

 世間の話題になんかなるわけがいないし、どこかで誰か偉い人が取り上げてくれることもない。若い研究者どころか、例えばオッチョコチョイな学部生が、「ある予備校講師の人生」を卒論のテーマにとりあげようと考えたりして、担当教官にこっぴどく叱られるなんてことさえありえない。

(柴又駅。フーテンの寅さんは、この駅に帰ってきて、再びこの駅から出ていってしまう(はずだ))

 

 そのマコトに悲惨で惨めな状況で、文庫本120冊分、こりゃホントにスゲーじゃないか。ワタクシの微かな微かなホントに微かな希望はといえば、200年後か300年後、何かのはずみで「なんじゃこりゃ?」とコイツを発見してしまった未来人が、「昔こんな変人が存在したんだ」と、ホンの1時間か2時間、しみじみ感激してくれることなのだ。

 

 何でも文庫本に換算するクセがついたのは、学部生時代のことである。19歳の9月に千葉県の北松戸駅から徒歩15分のアパートに引っ越した。その名も「松和荘」、すでに築25年だったか30年だったか、何となく「廃屋の風格」に満ちていた。

 

 風が吹けば今にも倒れんばかりに大きく揺れて、それがそのままこのブログのタイトルになった。もちろん有名な禅の名言「我に大力量あり、風吹かば即ち倒る」も踏まえた上でのことだった。

 

 松和荘での生活については、何度も繰り返しこのブログに詳細を記してきた(今井君の松和荘時代」を参照)。緑色のトタン板を並べただけの外壁、裸電球の台所、すでに茶色く日に焼けた4畳と4畳半の2部屋、汲み取り式のトイレ、そういう場所で今井君の1人暮らしは始まった。

 

 松和荘から続く長い長い坂を下りていくと、駅前に「福岡書店」という小さな書店があって、当時からもうとっくにお客はまばらだったが、19歳の若き今井君は毎日その「福岡書店」で1冊の文庫本を選んだ。

    (柴又駅を出てすぐに、京成金町駅方面への踏切がある)

 

 北松戸から大学までの道のりは何しろ長いから、1冊買って電車に乗り込み、深夜にはその1冊を読み切って松和荘に帰った。何でもかんでも文庫本に換算して考えるクセがついたのは、まさにその当時のことである。で、もちろん分量のことだけではあるが、こうして120冊分を書き切った。

 

 つい2週間前の6月10日深夜、ワタクシは「旅に病んで」というなかなかオシャレな状況に陥った。京都での定宿、北山の深い山の中の「宝ヶ池プリンスホテル」でのことだった(Thu 260611 四苦八苦/居酒屋での災難4連発/ストレスで熱が出る(秒読み11)4989回)。

 

 不思議な高熱が出て、おそらく39℃近かったのであるが、午前3時のベッドの中でうなされつつ、どう言ふわけだか「帰らなきゃ」「帰らなきゃ」と、帰ることばかり思い続けた。

 

 しかし帰るには、その「帰る場所」を特定しなきゃいけない。帰ると言っても、どこに帰るのか分からないようでは、帰るという行為は成立しないじゃないか。「帰らなきゃ」と思いつつ、今度は「どこに帰るか」を考えながら、6月11日の朝はどんどん明けていった。午前5時にはもうすっかり明るくなったが、それでもどこに帰るのか見当がつかなかった。

(京成金町駅に到着した京成電車。金町・柴又・高砂、下町の3つの駅の間を、1日中行ったり来たりを繰り返す)

 

 候補に上がったのは、まずはもちろん東京渋谷区の今のオウチ。でも諸君、そんなの平凡すぎてつまらんじゃないか。では、18歳まで過ごした父と母のオウチ。「ふるさとに帰る」と言ふわけであるが、いやはやそれもあんまり真っ当だ。真っ当すぎて食指が全く動かない。そもそもふるさと秋田のオウチは、はるか昔に父母が売却してしまった。

 

 イタリアのコモ湖・チェルノッビオの「ヴィラ・デステ」というのも、もちろん候補にはあがった。18年にわたってずっとこのブログの表紙を務め続けたわけだし、2018年6月26日、最初の目標だった「10年連続」「3652回」を達成した時も、わざわざヴィラ・デステに宿泊して、新しくその庭園の写真を掲載したはずである。

Mon 180604 帰ってきた/3652回完了/夢は沃野を駆けめぐる(イタリアすみずみ 17)

 

 しかし、何しろあまりに遠いじゃないか。ミラノまでヒコーキで飛んで、ミラノからまた湖水地方まで私鉄でガタゴト走って、しかもシベリア上空を飛べない不幸な時代なんだから、東京⇄コモ湖間を往復すると言うんじゃ、気軽に「帰ってきます」とかヌカせる旅じゃない。

 

 そこで諸君、前回たくさん写真を載っけた葛飾♡柴又の旅を思いついた。とは言ってももちろんワタクシ自身は、柴又なんてのは住んだこともなければ訪問したことさえほとんどない。

(京成金町駅。すぐ目の前にJR常磐線の金町駅がある。ここで乗り換えれば、2駅で北松戸に到着する)

 

 ま、フーテンの寅さんが映画のたびに「帰ってくる」のが柴又だが、普通の旅行記なら「まず出かけて、いろんなエピソードを経て、とうとう無事に帰ってくる」というのが一般的ストーリー。寅さんの場合はその真逆で「まず帰ってきて、いろんなエピソードがあって、またコリもせず出かけていく」、マコトに不思議な旅のパターンなのである。

 

 ふとワタクシが思いついたのは、「柴又に出かけるならば、そのすぐ近くの松和荘に帰ってこよう」というアイディアである。柴又からは京成線1駅で金町、その金町から常磐線各駅停車に乗れば、すぐに江戸川をわたって千葉県松戸、松戸の次が北松戸。懐かしい「福岡書店」も、19歳の9月から24歳の6月まで生活した「松和荘」も、その北松戸駅から至近なのである。

 

 もちろん、若き今井君が生活したホンモノの松和荘は、もうとっくに取り壊されている。24歳の4月末、確か日曜日の夕暮れに不動産屋さんがヌッと訪れて「移転してくれないか」「今井さんが移転してくれたら、すぐに取り壊しを始める」「ついては移転先として、紹介したいアパートがある」と言い出した。6室あった松和荘はすでに5室が空室、最後まで住んでいたのが今井君なのだった。

 

 不動産屋さんを困らせたくなかったから、若き今井君もすぐにそれに応じることにして、まずは松戸駅前の「セザール松戸」へ、続いて新松戸駅から徒歩25分もかかる「テラスエルム新松戸」へ、松戸市内を転々とする20歳代の後半が始まった。

(というわけで、北松戸。24歳の初夏に引っ越してから、ここには一度も来なかった 1)

 

 そういう事情だから、今井君が25歳になった夏のうちに、懐かしい松和荘はとっくに取り壊されて、跡形もなくなったはずである。あの引越し以来、一度もあの辺を訪ねてもいない。どうなったかさっぱり分からないが、建物はなくなっても、土地だけは残っているだろう。もし今「帰る」とすればあそこだ、ワタクシはそう考えたのである。

 

 6月22日、マコトに蒸し暑い午後だったが、ワタクシはブログに掲載する写真が1枚もなくなったわけだから、とにかく北松戸駅前の写真を撮りまくった。懐かしいお蕎麦屋「すずき」は、影も形もなかった。毎日通った銭湯「本郷湯」も、やっぱりなくなっていた。「福岡書店」もなくなって、コンビニに姿を変えていた。

 

 それでも、日曜ごとに食料品を買いだめした中堅スーパー「マルエツ」は、昔のままの姿で残っていた。日曜ごとに、トマトとピーマンと玉ねぎと鶏肉を買って、自分では「ポトフ」と呼んでいた煮込み料理を作った。

 

 ピーマンと鶏肉と玉ねぎを適当な大きさに刻んで鍋に並べ、それをトマトで煮るのである。水はなるべく入れないで、出来ればトマトから出る水分だけで煮込むのである。

(北松戸駅前の「マルエツ」。20歳代序盤、「ポトフ」の材料以外に、朝食用のハム・キュウリ・牛乳も買った)

 

 トマトだけではどうしても水分が足りなくなると、「トマトジュースをドボドボ加える」という裏技ないしズルをやって、1時間もトロ火で煮込めば、それでなかなか旨い「ポトフもどき」が出来上がった。そういうヤツを食べて、元気に生きていた。日曜に作って、すぐに鍋ごと冷蔵庫に入れて、月曜も火曜も水曜もそれで済んだ。ウェルシュ菌やら何やらの心配なんか、昔は誰も言い出さなかった。

 

 そのマルエツの前あたりから坂道が始まって、思っていた以上にキツいその坂を5分ほど、ちょっと由緒ある神社の前で右折する。するとまもなく「吉田松陰が寄寓していた」という大きなお寺が見えてくる。そのお寺と大きな墓地を右手に見ながら、さらにもう数分ゆっくり進むと、かつて「松和荘」が存在した場所はそのあたりである。

 

 かつては一面の畑であって、夏になると畑にナスやらキュウリやらトマトやらがナンボでもぶら下がっていたものであるが、その後に住宅地としての大規模造成があったらしくて、今は大きな邸宅がずらりと並ぶ閑静な住宅地にかわっていた。

 

 しかしそれでも、「その土地特有の空気」というものがあって、草のカホリも当時のまま、吹く風の流れも当時のまま、「とうとうここに帰ってきた」の実感が、かすかに胸に湧き上がるのは間違いない。

(京成バス「明治神社」の停留所。ただしあの当時、バスに乗ったことは一度もなかった)

 

 しかも「ああ、ここだここだ」とハッキリ分かる松和荘の跡地も発見。これ以上詳しく書くのはちょっと問題もありそうだから、いわゆる「差し引かえさせていただく」ことにするが、実はその跡地に、かつての松和荘とそっくりのアパートも発見したのである。

 

 ということは、きっとこの新しいアパート、中の間取りもそっくりそのままなのだ。さすがにトイレは水洗になっただろうし、風呂ナシだった我が201号室にも、小さなお風呂ぐらいは設置しただろう。その新しい「おそらくモト松和荘」いや「松和荘2世」を5分ほど遠くから眺めながら、もう1度「帰ってきたな」を実感したのだった。

 

 さてこうして、4999回目もオシマイになる。残るは記念すべき「カウントダウン0」、記念すべき5000回達成、その1回を明日か明後日中に書かなければならない。何を書けばいいのか、見当もつかないし、おやおや実はまたまた写真が払底して、掲載すべき写真をこれから撮りに出かけなければならない。

 

「松和荘2世」からの帰り道は、北松戸駅から来た道が長い上り坂だったんだから当たり前だが、今度は長い長い下り坂になった。坂を下りながら考えたことは、「思えば18年、ついに5000回を完了することになったこのブログ、結局は長い長い下り坂の記録だったんだな」と言ふことである。

(北松戸駅前の交差点。ここで国道6号線を横切らなければならない。かつて「福岡書店」はこの信号の足許にあった)

 

 2008年、ブログの世界はまさに絶好調、誰も彼もみんなブログを始め、誰がブログを始めても「あなたのブログ見ましたよ、たいへんなことになってますね」と歓声が沸き、まだSNSが本格的に始まる前夜のこと、実際にみんなのブログが「たいへんなこと」になっていた。

 

 だから2008年6月5日に始めたこのブログも、それなりに「たいへんなこと」になりかけ、しかしワタクシの気持ちとしてはどこまでも地味に日記を書きたかっただけなのだから、決して「たいへんなこと」なんかにならないように、他者とクンズ&ホグレツの事態に陥らないように、細心の注意を払ってそろり&そろり、下り坂を静かに下り続けた。

 

 予備校の世界も2008年当時はまだ、予備校文化全盛期の最後の最後のそのまた最後の頃だった。今では信じられないが、当時の巨大予備校には浪人生がそれぞれ5万人も10万人も溢れかえって、駆け出しの新人講師ですら最初からスター気分。赤やグリーンやパープルのスーツを着こなして大スター気どり、たくさんの生徒諸君を引き連れてそこいらを闊歩していた。

 

 だからもちろん今井センセだって、それなりにスター気分。サトイモみたいなルックスでも、どの予備校のどの教室も超満員、どこもみんな大爆笑や大喝采の連続だった。今井派もアンチ今井派も、それぞれの流儀で若き今井君をスター扱いしてくれた。「批判される」「足を引っ張られる」ようなことがあっても、それはスター扱いしてもらえている証拠なのだ。

(というわけで、北松戸。24歳の初夏に引っ越してから、ここには一度も来なかった 2)

 

 ブログに「アメーバ」を選択したのも、そのスター気分のなせるわざである。開始から1年半ほどは、確かビッグローブ系の「ウェブリブログ」を利用していたが、やっぱりスター気分ならアメーバ、そう思って乗り換えた。当時はブログの運営会社もまだたくさん存在していて、よりどりみどりの状況だったはずだ。

 

 しかし諸君、浪人生が対象の予備校は、いまや「消滅するか否か」をメディアで論じられる対象になってしまった。かつて隆盛を誇った予備校文化などというものも、「むかしそんなものが盛り上がったこともあったな♡」という郷愁の対象である。

 

 するとブログも浪人生文化も、要するにみんな下り坂。その中心に(おそらく)君臨、というか君臨気分でいた今井君としては、懐かしい北松戸駅前の下り坂を下りながら、「長い長い下り坂の記録」を、この辺でそろそろオシマイにしなきゃいけないことを実感する。

 

 まああくまでついでであるが、日本という国もこの18年ずっと長い下り坂を下りてきた。2008年、GDPはまだ世界2位をキープしていた。今や世界4位に転落、背後からはインドの足音がヒタヒタ、どんどん近くに迫っている。騒然とした世相は、ドアに鍵を2重3重にかけてもなお治安が気になる、そういう下り坂を下りてきた。

    (北松戸の駅舎。20歳代序盤、毎日毎晩この駅を利用した)

 

 しかし諸君、そこで忘れてもらっては困るのは、誤解してもらっては困るのは、秒読みを20から開始し、やがてカウントダウンを9から始めて、実に見事な模範演技で5→4→3→2→1とカウントダウンを進め、予告通りに6月26日の我が誕生日に「ゼロ!!」の叫びとともに固いコブシを天井に向かって突き上げれば、その「ゼロ!!」と同時に当然「Launch!!」のマコトに勇ましい叫びが湧き上がる、そのことである。

 

 まあ諸君、明日か、明後日だ。本日の記事は以下の4点を確認して、ひとまずここでオシマイにしたい。

 

① 不思議な高熱に苦しんだ2週間前の深夜から未明にかけて「帰らなきゃ」「帰らなきゃ」とうなされたこと、

② ではいったいどこに帰って、掲載すべき写真をどこで撮るべきかを夢中で考えたこと、

③ 懐かしい(おそらく)松和荘2世のあたりに帰ってきたこと、

④ 最後に長い長い下り坂を降りていきながらいろいろな感慨に耽ったこと、

以上4点である。

 

 いやはやいろんな意味で、今日もマコトに長かったですな。では、いよいよ次回、5000回達成の瞬間と、「ゼロ!!」「Launch!!」の瞬間を、どこでどんなふうに書くか、それを楽しみにしていてくれたまえ。

 

1E(Cd) RichterBACHWELL-TEMPERED CLAVIER 2/4

2E(Cd) RichterBACHWELL-TEMPERED CLAVIER 3/4

3E(Cd) RichterBACHWELL-TEMPERED CLAVIER 4/4

4E(Cd) Glenn GouldBACHGOLDBERG VARIATION

5E(Cd) Hilary HahnBACHPARTITAS Nos.2&3  SONATA No.3

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