コロナが世界を覆う前。
伏見稲荷大社には世界中から参拝者さんが訪れ、それはそれはにぎわっていた頃のお話です。
その当時は、足の踏み場もないほど(?)、境内はぎゅうぎゅう詰めの状態でした。
私はそのあまりのにぎわいに辟易しながら、参拝させていただきました。
(今だったら、そんな人が多い時間帯には行かないのだが(笑))
参拝を終え、さて帰ろうという時、ふとご本殿あたりから境内を見下ろすと、
とてもあたたかく
やさしく
やわらかく
包み込むようで
それでいてさわやかな
そんなエネルギーが降り注いでいるのがみえました。
私は見える系の能力者ではなく、感じる(観じる)系の能力者なのですが、その時はあまりにもはっきりとみえ驚いたので今もよく覚えています。
そしてその光あふれる光景を忘れられません。
とてもことばでは言い表せない、愛としか形容のしようがないエネルギーでした。
そのエネルギーは、すべての人すべての者に、ひとしく、降り注いでいました。
普く
平等に
無条件に
これがおいなりさんのエネルギーであり、これだけ多くの人が「行ってみたい」とひきつけられる元となるものなのだと感じられました。
もちろん老若男女は問わないし、美醜や身につけているもの、国籍も人種も、信ずる宗教や信仰もまったく関係ありません。
それはわかるのですが、解せないことがありました。
境内にゴミを捨てる者
あろうことか、境内にツバを吐く者
おいなりさんの愛のエネルギーは、そんな不届き者(と私は思った)にも何も変わらず同じに降り注いでいたのです。
私は腹が立って神様に尋ねました。
「こんな不届き者のことも神様は愛しておられるのですか?」
こたえは
はい。
すべての者を同じに愛していますよ。
でした。
神様というのは
何かをしたから、とか
何かをしなかったから、で選んだりしない存在なんだ。(人智を超えている)
太陽の光は誰かを選んで降り注いだり、誰かを選んで降り注がなかったり、しない。
月の光は誰かを選んで照らしたり、誰かを選んで照らさなかったり、しない。
雨は誰かを選んで降ったり、誰かを選んで降らなかったり、しない。
分け隔てがない。
(神という存在と、「個」として分け隔てがある人間と最も異なる点はここだと思いました。分け隔て=悪ではありませんよ。)
★★★★★
【おいなりさんの愛(伏見稲荷大社で受け取ったみことば)】
誰であれ
何であれ
与えられているものが「同じ」だとしたら、あなたはどう思いますか?
がっかりしますか?
納得できませんか?
ツバを吐くあいつより、まじめに参拝している自分のほうがたくさん愛されている、いいことがあるのだと思っていましたか?
ならばあなたは
自分のところにより多く降り注ぐから、と期待してよき事をするのですか?
自分に、「より多く」を与えてもらうためによき事をするのですか?
自分が他社より多く得たいために、得をしたいために「その行い」をするのですか?
『だとしたらそれは、自分という存在をあまりにも侮っているのではないですか』
ヒトががよき行いをするのは、神様にひいきされたり得をするためではないのでは?
褒美や罰があるから(またはないから)、したりしなかったりするのではないのでは?
「したい」からする。
それだけなのではないでしょうか?
「自然に生まれるこころ」「良心」、よりよき存在になりたいという素直な思いがあるからするのではありませんか。
★あなたはどんな人になりたいのですか?
★どんなことをしたいのですか?
その思いを自分が素直に受け入れて、あなたはただ、すればいいのではないでしょうか。
神のエネルギーは等しく地球・人間に降り注いでいます。
神様からいただいたそのエネルギーを生かすことができるかどうかは、「こちら(私)」のこころ持ち次第なのです。
神のエネルギーは地球人間に等しく降り注いでいる(与えられている)けれど、
そのエネルギーをどれだけの質・量・深さや広さで「使う」「活用する」ことが出来るのか?
生かすことが出来るのか?
それは「こちら」の心持ち(=どのように使うか?何に使うか?)にかかっているのではないでしょうか。
こちらの「器」しだい。ということです。
この器によって、結果としてあらわれてくるものが違う。個々人で、生み出せる結果が違ってくる。
ならば、よき器となろう。
いなりの愛をあなたという器に受けて、神様のエネルギーをあなたという器に受けて、
あなたの気持ちを言ってみればいい、
やりたいことを、やってみればいい。
ただ、素直に。。。
そう心がけることは苦しい修行だったり、辛い事ではありません。
自分自身にとっては、とても楽しく嬉しい事、「よろこびごと」なのです(*^^*)
★★★★★
今日もお読みいただきありがとうございました。あなたに幸あれ(*^^*)