2023年9月が始まりました
9月1日には、おついたち参りに伏見稲荷大社に参拝、稲荷山に登拝させていただきました。
JRの線路前の案内図で今日の行程を練ります。
この案内図、脳にみえる時もあるし、子宮にみえる時もある。
この日は脳にみえる日でした。
右側がエネルギー不足に感じたので補給しながらお山を歩きます。
8月はさぼってしまいましたが、来てみるとやっぱり月に一度は稲荷山に入らせていただいた方がいいな…と思いました。
『稲荷』は『憑き物落とし』だと思います。
歩き、登り、景色を見、音を聞き、峰々のお社をいくつもいくつもお参りし、その度に祝詞と心経を奏上していく、、、繰り返し繰り返し、、、
そのうちに、
頭にいっぱいだった雑念や思考が払われ、いらんもんが汗とともにドバーッと流れ出ます。
しょーもないもんが足の裏からドバーッと地球へかえってゆきます。
そうしていつしか、
『心身が
カラッポになる』
その瞬間を求めて私は登るのだなあ。
ふと
訪れる
その静寂がよろこびです。気持ちよいのです。
カラッポになっているときはカラッポであることすら忘れている。
カラッポこそが、この世のたのしみなのです。
『魔』とは、自らの外からくる誘惑
『邪』とは、自らの内からわき出るよこしまな思い。
私はそのようにとらえています。
※肉体(皮膚)を境として、肉体の外から来る感覚、
対して、肉体の内から来る感覚、
私はそれらをそれぞれ内・外と表現しております。
肉体の外から来、知覚し得るエネルギー(刺激、誘惑)と、私の肉体の内からわき出るエネルギー。
ですから、
魔は『退けるもの』であり
邪は『破るもの』
なのだということが理解できる。
退魔
破邪
外からの刺激が悪いわけではない、
内からの思いが悪いわけではない。
ただ、その中から私たちは選ばなければならない。
自分は何をよしとするのか。
自分は何をなすのか。
(それによりどのような結果を受け取るのだろうか)。
自分に振りかけられる誘惑を受け入れるか?退けるか?を選び、
内から生まれ来た邪を、なすか?なさぬか?(滅するか?)を選ぶ。
そこには葛藤があるかもしれない。
しかしそれはチャンスだ。
迷いはチャンスなのだ。
葛藤も迷いも、幸いである。
もし他者から与えられた価値観や世間一般などというものを疑問なく生きていたならば(悪く言えば洗脳)、葛藤も迷いもなかろうよ。。。
稲荷山・一の峰を守る対の狐様、
左を退魔・右を破邪。
知れ。と一言。
『私はいま、どのような存在でありたいのか』
それによって自らのなすこと・なさぬことは決まる。
左退魔の狐・巻物→知性(愛と思いやりを由来とする知恵)によって魔を祓い退けること叶う
右破邪の狐・宝珠→根源のいのち・私を生かしているこのエネルギーを思い出すことによって、邪を滅すること叶う
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