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医師の家庭物語(27)
内科医の夫は藪病院院長の藪武男
から指示された院長命令を思い出し
応援席に歩いてきた市議に歩み
よって行く。
どうやって市議や議長に院長からの
院長命令を働きかけようかと思案して
いただけに渡りに船で、このような町内
行事の場面なら話しかけやすく思わず
拳に力が入った。
市議が応援席に入ってきた。
今だ。
医師の夫が市議に歩み寄る。
医師の夫
「あ、これは比良巻先生。」
比良巻市議
「はあ?」
医師の夫
「お久しぶりですね。」
比良巻市議
「え〜っと、どちら様でしたかね?」
医師の夫
「あ、いや、あの、以前に比良巻先生の選挙区の
校区でPTA会長をしていました。」
比良巻市議
「はあ。」
医師の夫
「時々、小学校の運動会とか卒業式の時にお目に
かかったかと。」
比良巻市議
「はて?」
医師の夫
「覚えていらっしゃいますかね?」
比良巻市議
「う〜ん、あまり。」
医師の夫
「えっ、そんな。ほら、運動会の開会式で以前に
PTA会長として朝礼台に立って挨拶をした私です。」
比良巻市議
「はあ。今までPTA会長は何人もいましたからね。誰が誰だか、印象に残っていない会長もいますから。すいませんが。」
医師の夫
「そんな。ほら、小学校の卒業式の時に一度だけ
ですがPTA会長として舞台から挨拶をした私です。」
比良巻市議
「う〜ん、卒業式は毎年ありますからねえ。何年も
前の卒業式の舞台で誰が挨拶したかなんて、いちいち覚えてませんね。すいませんが。」
医師の夫
「そんな・・・・。」
比良巻市議
「ところで、あなたは今は何をされておられるの
ですか?」
医師の夫
「あ、私は藪病院内科医ですが。」
比良巻市議
「あ、そうでしたか。で、先生は567液体は
どうされていますかな?」
医師の夫
「あ、あの、まあ、結構打ってきましたね。」
比良巻市議
「あ、そりゃダメだ。先生、あんな毒を打つなんて
もはや犯罪行為ですからね。必ず処罰されますよ。」
医師の夫
「しかし・・・、議会でも先生だけですよね。
液体に反対されているのは?」
比良巻市議
「当たり前ですよ。あんなもの打つほうがどうか
しています。あ、そうだ。これ、私のビラです。
ご参考にしてください。」
そうして医師の夫は比良巻市議から液体反対の
ビラを手渡され、しばらく見つめる。
息子の隆
「お父さん、次、お父さんの打順だよ!早く戻って!」
医師の夫
「あ、試合中ですのでとりあえず今日はここで。
またお伺いします。」
比良巻市議
「それではまた。」
小走りに試合に戻る医師の夫。
試合は2対0。
どうやら3番の息子の健二が2ラン本塁打を
放ったようで2点をリード。
4番が3塁打を放ち2アウトランナー3塁と
いう展開だった。
相手の薬師町チームのピッチャーはOLの恭子
ちゃん。
希望ヶ丘5丁目のベンチから大きな声援が飛ぶ。
ヒステリックな声をあげる近所の奥さん。
打席に立つ医師の夫。
ピッチャー恭子ちゃん、第1球を投げる。
ストライク。
主審の声が高らかにグランドに響く。
素振りを何度か繰り返す医師の夫。
双方のベンチから声援が飛び交う。
ピッチャー恭子ちゃん、第2球を投げる。
フワフワッとした普通の女の子らしい緩い球が
山なりに放たれた。
ストライクツー!
主審の声が高らかに響く。
近所の奥様の叫び声が混じる。
隆と健二の声援も聞こえてくる。
2ストライク、ノーボール。
「おい打てよ!ヒットが出たら3点目だ。」
「何とか初戦は勝とうぜ。」
「打てよ!」
様々な声援がベンチから、そして応援席からも
響いてくる。
近所の奥様がひときわ大きな声を出して打てよ打てよ
と叫んでいる。
素振りを何度か繰り返して打席に立つ医師の夫。
打つぞ打つぞ。
医師の夫は自分に語りかけた。
医学的に自己暗示も大切だと立証されている。
自分は打てるのだと大打者に成り切って打席に
立てばヒットは打てる、医師の夫は自分にそう
言い聞かせた。
ピッチャー恭子ちゃん、第3球を投げる。
フワフワッと普通の女の子らしい緩い球が山なり
に放物線を描いた。
カッと目を見開いた医師の夫は雄叫びをあげて
バットを振る。
空振り三振。
バットはかすりもせず空を切った。
3アウトチェンジ。
ベンチから溜め息が漏れる。
相手の薬師町チームのベンチからは歓声が湧く。
近所の奥さん
「も〜、あの医者め!またしても三振よ!一体何を
やってんのよ!な、なんであんな緩い球が打てない
の!なんで!なんで、う・て・な・い・の・よ!」
近所のお年寄り
「まあまあ、奥さん。このような草野球大会で
そんなに怒り心頭になりなさんな。」
近所の奥さん
「腹立つのよ!毎回毎回あの医者でチャンスが
潰れるのよ!何やってんのよ!」
医師の夫は空を見上げた。
まだ一度も球にバットが当たらない。
野次や罵声にも慣れてきた。
しかし希望ヶ丘5丁目チームは2点リードだ。
こちらのチームのピッチャーは女子校のソフト
ボール部のエースピッチャーの真理子ちゃんだ。
華麗なウインドミル投法から繰り出す速球で
相手チームの打者を次々と三振に仕留めていく。
時々、バットに当たるも内野ゴロばかりで零封
している。
何とかこのまま行けば初戦突破はできそうだ。
と、会場のグランドの隅が騒がしくなった。
何やら揉めているのか騒々しい。
守備が下手なために打席のみで守備にはつかない
医師の夫は騒々しい会場の隅に歩いていく。
作家の中瀬俊介が来ていた。
作家として大御所の中瀬俊介は著書も出す傍らで
各地で講演に招かれ、今回も会場近くの場所で
講演会に訪れていたその合間にソフトボール大会
会場にも立ち寄っていた。
何やら中瀬俊介が会場に出展している製薬企業と
言い合っているようだ。
中瀬俊介
「何だと!もう一度言ってみろ!」
モンスターバイオ社員
「ですからそのような根拠はありませんので。」
中瀬俊介
「何だと!この俺が言っていることは陰謀論だ
と言うのだな!この野郎、ふざけんじゃねえ!」
モンスターバイオ社員
「ですから我々はきちんとエビデンスに基づいて
治験を行い、医療機関と連携しましてですね。」
中瀬俊介
「何だと!何がエビデンスだ!そんなもの誰が
作ってんだ!俺の本をきちんと読んだのか!?」
モンスターバイオ社員
「どのような本でしょうか?」
中瀬俊介
「この野郎!てめえ、ふざけんじゃねえ!
本も読まずして何が陰謀論だ!読まずして、
知らずしてなぜ俺が言っている事が陰謀論だと
言えるんだ!言ってみろ、この野郎!」
モンスターバイオ社員
「ですから、そのような事実はございません。」
中瀬俊介
「何だと!きちんと根拠を示しなさい!俺が言って
いる事を陰謀論だと言ったんだ。どこがどのように
陰謀論なのか、きちんと説明しなさい!」
モンスターバイオ社員
「そのように書いてありますから。」
中瀬俊介
「どこに書いてあるんだ!?ふざけんじゃねえぞ。
あなた、きちんと説明するまで帰さねえからな。」
モンスターバイオ社員
「あの〜、営業妨害になりますよ。」
中瀬俊介
「いい度胸してるじゃね〜か。やるか?では
あなたがしている事は犯罪行為であり、私に
対する侮辱行為でもあるぞ。ふざけんじゃね〜。
きちんと説明するまで帰さねえからな。」
モンスターバイオ社員
「我々としましては人々の健康のためにですね。」
中瀬俊介
「何が人々の健康のためにだ!無症状無自覚の
感染用の薬品なんて、一体何を考えているんだ!
無症状無自覚とは健康という意味だろ!」
物凄い迫力で一歩も引かない中瀬俊介の姿に
医師の夫は圧倒された。
この人が大御所作家として名高い中瀬俊介か。
医師の夫は息子の隆と健二が最近書籍を買って
きて読んでいるという事で中瀬俊介の名前だけは
知ってはいたが、実際に見るのは初めてだった。
何か伝わってくるものがあった。
自分はまだ中瀬俊介の書籍を読んだ事はないが
生の人物から伝わってくる人間的な息吹というのか
人間的迫力というのか、理屈を超えて響いてくる
何かを医師の夫は感じた。
それはこれまでの医師免許取得過程から様々な
臨床を経て今日に至るまで、感じたことがない
理屈を超えた人間的な風景だった。
息子の隆や健二は高校生ながら様々な書籍を読んで
いるためか朝食の場ではもはや毎日のように論破
され続けている。
確かに鞄の中に週刊少年ジャンプと週刊プレイボーイ
しか入っていないのは情けないかも知れない。
医師の夫はこれまで感じた事がない感覚が胸の
中に去来している事を感じた。
作家の中瀬俊介がやり取りしているモンスターバイオ
の出展ブースの隣りには医療相談コーナーがあり
そのテントには藪病院小児科の後藤女医が担当
として入っていた。
女医の後藤
「あら、先生。試合は?」
医師の夫
「ああ、今は守備の場面ですから僕はお呼びじゃ
ないので少し散歩中です。」
女医の後藤
「今日こそは初戦突破になれば良いですね。」
医師の夫
「今日は大丈夫でしょう。リードしていますから。」
女医の後藤
「先生、先程言いました日本酒研究会、どう?」
医師の夫
「いや、遠慮しておきます。」
女医の後藤
「そう仰っしゃらず。日本酒は日本文化ですから。」
医師の夫
「そういう意味では素晴らしいですが。後藤先生
は日本酒はあまり、いや、絶対に飲まないほうが
良いと思います。」
女医の後藤
「あら先生、それはまたどうして?日本酒は
とってもとっても美味しいですわよ。先生はお酒
は苦手でしたっけ?」
医師の夫
「いや、そういう意味では。後藤先生、今日は
また短めのタイトスカートですね。」
女医の後藤
「この薄い緑のタイトスカート、お気に入りなのよ。天気も良いことだし、清々しいわ。」
医師の夫
「後藤先生、タイトスカートの時は慎ましく。」
女医の後藤
「ん?何?どういう意味ですか?」
と、大会関係者が女医の後藤のいる医療相談ブース
にフラリと入ってきた。
関係者
「後藤先生、お疲れ様ですね。」
女医の後藤
「ありがとうございます。」
関係者
「まあ、少しリラックスでもしてください。
あ、こちら、美味しい銘酒の竜王です。先生、
少しいかがですか?」
医師の夫
「あ、後藤先生!日本酒はやめたほうが!」
関係者
「大丈夫ですよ、お猪口1杯くらい。さ、先生。
どうぞ。」
医師の夫
「後藤先生!ダメですよ絶対に!」
関係者
「やけに慎重ですね。休日の行事ですからリラックス
しながらしてください。さ、後藤先生、どうぞ。」
女医の後藤は関係者に勧められるがまま銘酒竜王
をお猪口に注がれ、そのままクイッと飲み干した。
固まる医師の夫。
嫌な予感がした。
静寂が流れる。
関係者はそのまま去って行った。
沈黙が長く感じられた。
そのまま医師の夫は試合中のグランドに戻ろうと
医療相談ブースを離れようとした。
と、その時。
女医の後藤がドスの効いたひときわ低い声を放った。
「オラ〜ッ、この内科医!待て!」
医師の夫は凍りついた。
女医の後藤の目は座り薄い緑のタイトスカートに
白衣を羽織った姿で仁王立ちしていた。
まさか・・・。
医師の夫は酒乱に巻き込まれた一夜の悪夢が
甦ってきた。
医師の夫
「ご、後藤先生。まさかこの会場で・・・。」
女医の後藤
「ウイ〜ッ、オラ、内科医!」
青ざめる医師の夫。
医療相談コーナーのテントには女医の後藤と
医師の夫との二人きりになっていた。
つづく。