医師の家庭物語(25)
まさに豹変である。
小さなグラスにほんの1〜2杯だけ
日本酒を嗜んだだけで目を疑うような
別人格になる人が男女を問わずいる。
体質、体内酵素、遺伝子など色々とある
のだが、性格が全く違うようになり記憶は
しっかりしている場合と翌日には全く記憶
していない場合とがある。
この女医の後藤はどちらのタイプだろうか。
何れにしても酒癖の悪い人は社会的に信用
されないか信用を失い仕事まで失うことも
あるので要注意である。
医師の夫に覆いかぶさってきた女医の後藤。
メガネを外して畳の隅に置く。
メガネをかけた女医の後藤しか見ていなかったが
メガネを外して髪が乱れた後藤を見ると男を
そそるような風貌であった。
医師の夫
「後藤先生、ちょっとやばいですよ。」
女医の後藤
「おら〜、逃さないぞ〜内科医〜。」
医師の夫
「後藤先生って意外と美人だったんですね。」
女医の後藤
「今頃気付いたのか〜!この内科医め。鈍感!」
もはや寝技の状態である。
女医が内科医を押さえつけて覆いかぶさって
いる風景はにわかに信じがたい。
医師の夫
「これがもし、逆の立場だったらセクハラに
なるのではないですか!?」
女医の後藤
「あ〜?何を細々とつぶやいてんの内科医よ〜。
訴えるなら訴えてみろ〜、おら〜。」
医師の夫
「後藤先生、服が。スカートの中が丸見えです。」
女医の後藤
「悩殺されたい?どう?」
医師の夫
「後藤先生、やばいですよ!」
女医の後藤
「私はしおれた男を蘇生させる自信はあるわ〜。
先生、奥様とはうまくいってますか〜?」
そうして女医の後藤が医師の夫に口づけを迫る。
先程は不意をつかれて頬に口づけを浴びてしまった
が今度は真正面から女医の後藤の唇が肉薄してきた。
しかし女医の後藤は男をそそる不思議な雰囲気を
持っていた。
いつもの藪病院ではベッコウ眼鏡をしているため
に堅物の女医としか認識していなかったが眼鏡を
外して髪を振り乱している素顔はつい医師の夫を
男としてそそるものがあった。
一瞬、医師の夫は初めてみる女医の後藤の妖艶な
容姿に見とれ、危うく真正面から女医の後藤の唇
を浴びる寸前でかろうじてかわした。
そして強引に女医の後藤を突き放し、体勢を
立て直した。
女医の後藤
「拒むのか?医者は生の人間を診るのが大切だろ。」
医師の夫
「後藤先生、明日は全く覚えていないでしょう?
とにかく先生はもう日本酒だけはやめてください。」
と、隣の個室部屋に予約客が数名案内された。
襖だけで隣の部屋とは仕切られている。
女性4人組の予約客みたいだ。
声が聞こえてくる。
「やっぱり職場じゃ言えないわよね〜。」
「そうよ、皆、会議では建前しか言えないし。」
「日本人ってさ、建前に生きて本音で苦しむよね。」
「ホントよ。何かやっぱりおかしいわ。」
「やばいって分かっていてもさ、やらないほうが
良いよってなかなか言えないもんね。」
「CT検査なんてさ、受けないほうが良いわよ。」
「でも医療点数が高いから皆使いたがるのよね。」
「良心の呵責に苛まれるわ、いつも。」
「辞めようかしら。」
店員が隣の個室にビールを持ってきた。
「じゃ、先ずは乾杯しましょうか。」
「乾杯!」
「乾杯!」
「でさ、CT検査ってさ、1回受ける度にガンになる
確率が100分の1ずつ上がるらしいよ。」
「え、だったら毎年人間ドックを受けてる人は
10年経ったらどうなるのよ?」
「100分の10になるから10分の1確率が
上がることになるよね。」
「可哀想。会社員なんて半ば強制で毎年人間ドック
を受けさせられてるじゃない?どうなるのよ。」
「50年連続で人間ドックでCT検査を受けたら
100分の50でしょ?つまり2分の1よ。50%
ガンになる確率が上がるわ。」
「それだから日本人がガンになるわけだ。」
「人間ドックって仕組みは日本だけみたいよ。」
「え〜っ、信じられない。何か怪しいわ。」
「だから本当は余程の時以外はCT検査なんて
受けないほうが良いのよ。」
「でもそれを先生に言ったら怒鳴られたのよ私。」
「えっ、どうして?」
「余計な事を言うなって。おかしいわよね?」
「なんかさ、人間不信になりそう。」
「欧米ではさ、ガンになる人が減っているでしょ。
日本は逆に右肩上がりで増えてるわよね。」
「おかしいわよ。」
「この前の研修医の話、聞いてる?」
「え、知らない。」
襖を隔てて聞こえてくる会話に医師の夫は
固まった。
会話内容から医療従事者だと分かる。
世間は狭い。
よりによって、このような酒乱の展開に巻き込まれ
隣の部屋に襖1つだけを隔てて同業者が来るとは
何とも間が悪い。
会話が途切れることなく聞こえてくる。
「研修医がレポートを書いてさ、入院している
ガン患者が死亡した原因の9割はガンが原因では
なく抗がん剤が原因だと書いて提出したらしいの。」
「そしたら?」
「そしたらね、院長が激怒して研修医の目の前で
そのレポートを破り捨てたのよ。」
「え〜、酷い。」
「本当の事を書くなって怒鳴られたそうよ。」
「酷い。」
「その研修医は泣いていたわ。可哀想に。」
「こんな事では藪病院も先は暗いわね。」
医師の夫は凍りついた。
藪病院の看護師たちではないか!
やばい、やばいぞ。
この酒乱の現場を見られたらあらぬ噂や様々な
風説を流されてしまいかねない。
何とかここを脱出しよう。
医師の夫は決意した。
更に隣の個室から会話が流れてくる。
「お待たせ〜。職場を出るのが遅れたから
遅くなってゴメン〜。」
医師の夫は嫌な予感がした。
何か聞き慣れた声である。
「山下さん、待ってたわ〜。」
「山下さんも来たことだし、改めて皆で乾杯よ。」
医師の夫は爪をかじり始めた。
まさか部下の看護師の山下くんが、よりによって
このような時に隣の個室に来るなんて。
医師の夫は大脱出劇を考え始めた。
この酒乱の現場をまかり間違って看護師の山下くん
に見られたら俺は破滅だ。
妻に知らせないとも限らない。
ましてや健二に話されたら更に毎日の朝食が
修羅場になってしまう。
もはや躊躇する時間はない。
医師の夫は立ち上がった。
正面突破だ。
行くしかない。
女医の後藤
「おや、逃げるの〜?」
医師の夫
「後藤先生、すいません。僕はこのような・・・。」
と、女医の後藤がブラウスのボタンを外し始めた。
胸元が露わになってきた。
医師の夫は強引に個室を飛び出そうとした。
女医の後藤が抱きついてきた。
もはや一刻の猶予もない。
隣の個室に入ってきた看護師の山下くんに気付かれ
る前にこの店を脱出しなければならない。
必死で抱きつく女医の後藤を振りほどこうと
する医師の夫。
絡みつく女医の後藤。
力が余って体勢が崩れ医師の夫は前のめりに
転んでしまった。
その瞬間、上半身がはだけて胸元が露わになって
いる女医の後藤に覆いかぶさるようになってしまった。
その時、個室のドアが開け放たれた。
酔っぱらいが立っていた。
あっ!
あっ!
酔っぱらい
「さっきから大声でうるさいんだよ!あっ、
何やってんだこんな部屋でこいつ!」
医師の夫
「ち、違う。誤解だ!」
女医の後藤
「・・・・・・・。」
酔っぱらい
「この野郎、何てことしてやがるんだ!」
医師の夫
「違う!誤解だよ!」
女医の後藤
「・・・・・・。」
医師の夫
「後藤先生、何でこういう時に黙ってるんですか!」
酔っぱらい
「お前!最低な人間だな!この酔っぱらいが!」
そうして酔っぱらいの放った右ストレートパンチ
が医師の夫の左頬にクリーンヒットした。
思わず跳ね上がって部屋を飛び出した医師の夫。
酔っぱらいに酔っぱらいだと罵られて殴られては
たまったものではない。
医師の夫は無我夢中で店を飛び出した。
どこをどう歩いたのかよく覚えていない。
見上げれば満月が綺麗に浮かんでいる。
殴られた左の頬が痛みにうずく。
叫びたくなった。
満月に向かって叫びたくなった。
しかし以前のように通りがかった母子に見られたら
また何を言われるか分からない。
誰もいないか改めて周囲を見た。
と、母親と子供が歩いてきた。
危ないところだった。
よく見ると母親が何やら歩きながら子供を
叱っている。
目をこらす医師の夫。
母親
「何回言ったら分かるの?明日は打ちに行くのよ。」
子供
「嫌だ〜。あんなの打ちたくない。」
母親
「悪い子ね!どうして言う事を聞かないの?」
子供
「だって、あんなもの打ったら変になるもん。」
母親
「いい加減にしなさい!みんな打ってるのよ。
どうしてうちの子だけって言われたら嫌よ。」
そうして母親と子供が歩いてきて医師の夫の
目の前にさしかかった。
子供が液体を打ちたくないと駄々をこねる。
叱る母親。
打ちたくないとしゃがみ込む子供。
叱りながら強引に子供の手を引き起き上がらせ
ようとする母親。
と、その時、医師の夫に何かが降りてきた。
まるで何かに取り憑かれたような感覚になった。
無意識に医師の夫はしゃがみ込む子供の前に
立った。
思わず医師の夫を見つめる母親。
医師の夫はしゃがみ込む子供の手を握った。
しゃがみ込んだ子供が医師の夫の顔をまじまじ
と見つめる。
医師の夫の口が勝手に動いた。
「僕、これでいいのだ~。」
呆気に取られて足早に歩いていく母親。
「まるでバカボンのパパみたいな人。」
そうつぶやいて母親は立ち去った。
ニコッと微笑んで立ち上がり、母親の後をついて
行く子供。
満月が明るく輝く夜だった。
つづく。