第1部10章 ①堕天使伝承と新約聖書 | imaga114のブログ

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第1部 堕天使と洪水伝承は10章で終了です。

10章は2つに分割しています。

引用は↓
ヘブライの伝承とイエスの霊性
 
 

 

第1部 堕天使と洪水伝承

http://www.koinonia-jesus.sakura.ne.jp/apoca/11datensint.htm

 

 
第1部10章 ①堕天使伝承と新約聖書
 
■堕天使伝承とサタン
 
 ここで、主としてペイゲルスの『悪魔の起源』松田和也訳(青土社)"Elaine Pagels. The Origin of Satan. Random House (1995)."を参照しながら、堕天使伝承と新約聖書との関係を観ていくことにします。
 伝統的なヘブライの思考法は、神の民を「われら」とし、これに敵対する異邦の諸国民を「かれら」とする二分法でした〔ペイゲルス『悪魔の起源』70頁〕。
イスラエルのこの二分法は、その範囲がさらに広く、人の住む陸地と、その外側に広がる海という二分法にまで及んでいます。
イスラエルの住む陸地の外には、海が広がっていて、そこには、混沌の悪の力を象徴する怪物レビヤタンが宿っていました(イザヤ書27章1節)。
このような「混沌の海」は、その起源をたどると、はるか昔のメソポタミアの神話に行き着きます。
このレビヤタンは、人間の力を超える存在ですが(ヨブ記40章25節)、レビヤタンのような外から来る悪/敵が、イスラエル内部に入り込んで来て「イスラエルの敵」となる時に、「サタン」が登場します〔ペイゲルス前掲書75頁〕。
 
「サタン」は、イスラエルの内部に分裂と敵対関係をもたらすものです。
 
 
 すでに見てきたように、このサタンの起源は遠い昔の「神の子たち」の堕落にさかのぼります。
歴史的に見れば、イスラエル同士の争いをサタンに帰するこの思考方法は、歴代誌上21章1節の「ダビデの人口調査」に始まると考えられます。
歴代誌(上下)が編纂された時期は、450年~350年と考えられますから〔新共同訳『旧約聖書注解』(Ⅰ)670頁〕、早ければペルシア帝国の支配の時期で、エルサレムの城壁が再構築されていた頃のこと、遅ければペルシア時代の末期、アレクサンドロス大王によるペルシア征服の少し前になります。
 
 
 時代が降って、ユダヤがギリシア系のセレウコス朝に支配されていた時代に、アンティオコス4世からの弾圧に耐えかねて、これと闘ったユダ・マカバイオスは、イスラエルの外からの敵だけでなく、セレウコス朝と内通するイスラエル「内部の敵」(サタン)とも闘うことになります。
マカバイの勝利によってユダヤにハスモン王朝が成立しますが、成立したこのハスモン朝に対抗して、今度はファリサイ派やエッセネ派が興ります。
イスラエル内部に働く「サタン」は、この段階でますます強くなったとも言えましょう。
 
 
 この段階でのサタンは、ユダヤ教の内部に潜む敵ですから、遠い敵ではなく、最も近いところに宿る敵になります。
中でも、霊的に最もラディカルな宗団と言えるクムラン宗団と、これを核に広がるエッセネ派では、イスラエルの内なるサタンは、堕天使伝承の流れを汲む次のような特徴を帯びていました。
 
(1)ギリシア的な支配権力とこれを支える悪霊の働きを揶揄(やゆ)すること。
(2)エルサレムの神殿祭司制を批判すること。
(3)人間の歴史を超えた黙示的な視点から、世界の歴史の展望を眺めること。
この三つです〔ペイゲルス前掲書90~91頁〕。
 
 
 堕天使伝承は、このように、ユダヤ人と異民族という伝統的な二分法に変化をもたらすことになります。
『第一エノク書』の中でも最も新しい文書で、イエスの時代とほぼ同じ頃の「たとえの書」(前40~後20年頃か)では、ユダヤ人と異邦人の全体が、神の天使の側とサタンの側とに分けられています。
この新たな二分法は、キリスト教が、最終的に民族的アイデンティティを捨て去り、個人の倫理に基づく普遍的な共同体へ向かう重要な背景になりました。
黙示文学は、ほんらい律法には関心が無く、異民族に対して異常なほど開放的であり、その上で、イスラエルの民に対して否定的な傾向があったのでしょうか。
 
 
 こうして、エッセネ派とその中心となるクムラン宗団において、共同体の「内部の敵」を悪魔化する事態が生じることになりました。
エッセネ派は、天使と悪魔との抗争をイスラエルの内部に見出すことによって、ユダヤの多数派を呪われた存在と見なしたのです。
「光の子」と「闇の子」、すなわち、神の側にある天使と人間、これに対する悪霊ベリアルとサタンの側の人間、という対立の構図がこのようにして生まれました。
これがキリスト教へ受け継がれて、反セム(ユダヤ)主義の遠因になったというのがペイゲルスの見解です〔ペイゲルス前掲書67頁〕。
 
 
■福音書のサタン(悪魔)
 
 マルコ福音書では、聖霊はイエスの洗礼に際して降りますが、マタイ福音書では、イエスの母が聖霊によって身ごもります。
マタイ福音書は、かつてのエジプトのファラオと、ユダヤのヘロデ王とを同一視していますから、ユダヤのベツレヘムでの初子の虐殺とイエスの家族のエジプト<への>逃避を、かつてのエジプトでのファラオによるイスラエルの民の虐殺と、これによるイスラエルの民のエジプト<からの>脱出とを対応させることになります。
エジプトへ逃れるメシアは、出エジプトのイスラエルとモーセという伝統的な関係を逆転させることになりました〔ペイゲルス前掲書131~32頁〕。
マタイ福音書はまた、ファリサイ派をサタンと同一視する傾向があります。
 
 
 マルコ福音書が描くイエスの敵は、神のメシアを拒否したエルサレムの最高法院であり、マルコの関心はユダヤ共同体内部での抗争にあります。
しかもマルコはイエスを取り巻くその抗争を宇宙規模での善と悪との闘争に関連させて描くのです(マルコ13章)。
悪の諸勢力は、見えない悪霊となって人間に憑依したり、実在する人間の姿を採る敵となります。
このため、イエスも悪霊の頭ベルゼブルだと見なされることになります。
「内輪もめする国は立ちゆかない」(3章6節)とあるこの事態に対処するために、十二使徒が任命されますが、それでもイエスは、ファリサイ派、律法学者、故郷の人、家族や身内までも敵に回すことになり、少数の弟子を連れて民衆を相手に巡り歩くのです。
 
このようにマルコ福音書では、エッセネ派と同じ様に、ユダヤ人の内部抗争が、イエスの宣教によってもたらされる対立の構図へ転じて描かれるのです。
ルカ福音書は、この対立の構図をさらに異民族への布教へと拡大するというのが、ペイゲルズの見解です。
 
 
 ヨハネ福音書はセクト的な宗団ですが、この宗団は、ユダヤ共同体から疎外されたために、自分たちを疎外した敵をサタンと同一視しました。
ヨハネ福音書は、天地創造における光と闇の分離から始まります。
この福音書の世界は、本質的に黙示的でありながら、しかもそれが黙示的な表象で語られることがなく、人間世界の出来事として描かれています。
イエスは、人間に潜む悪魔の正体を暴きますが、その結果、神の子イエスに敵対する「ユダヤ人」は悪魔の子として裁かれることになります。
 
 
 紀元後100年頃に、キリスト教は東地中海一帯に広がりますが、この頃から、ユダヤ滅亡の後を受けて、ユダヤ人キリスト教徒に代わって異邦人キリスト教徒が優勢になってきます。
ただし、キリスト教がユダヤ教から分離する過程は、地域によって一様ではなく、その分離形態も単純ではありませんでした。
かつてのユダヤ教がそうであったように、キリスト教もその多様性においてユダヤ教を凌いでいたからです。
そこには、おおざっぱに見ただけでも、ヤコブ系のエルサレム宗団の流れを汲む教会があり、ペトロ系のアンティオキアの教会を中心にした地域があり、アジアでのパウロ系の異邦人世界の諸教会があり、同じくヨハネ共同体あり、ギリシアには、コリントを中心とするパウロ系の教会があり、そのほかに、アレクサンドリアの諸教会があり、ローマを中心に広がる異邦人キリスト教徒とユダヤ人キリスト教徒との諸教会がありました。
 
 
■ヨハネ福音書の受肉と堕天使
 
 一般的に、ヨハネ福音書は神学的/霊的であり、共観福音書のほうは歴史的だと言われますが、これは必ずしも正しい見方ではありません。
共観福音書もまた、それぞれに神学的だからです。
ただし、ヨハネ福音書の霊的な視野は、「歴史を貫通する」こと、言い換えると「歴史的諸段階の境界を通り抜ける」"trans-historical" 特徴を具えていると言えます〔Sanders, The Historical Figure of Jesus. 71-73.〕。
 
 
 『第一エノク書』で見たように、天界の天使たちが、地上で肉の人間と交わることで、霊と肉とが混じり合った結果、神の知恵が人間にもたらされ、人間が神の知恵である「永遠の秘密」を知ることになります。
しかし天使の堕罪よって、彼らの霊性が悪霊に変貌し、地上に罪と暴虐による流血がもたらされるのです。
 天使の堕罪と地上の人間の暴虐行為との関係は、神の霊を宿す神の御子の受肉によって人間が「神の子となる」という関係から見れば、ちょうど逆になります。
一方は、天使たちの堕罪によって罪と暴虐が地上にもたらされ、他方では、神の御子が受肉することによって、人間に救いがもたらされるからです。
 
 
 『第一エノク書』15章では、「なぜお前たち(堕天使たち)は、永遠の聖所である高き天を棄てて、女たちと寝て、人間の娘たちによって自分たちを汚したのか? 
地上の人間の子たちのするように、自分の妻を娶り、自分の子孫である巨人ども(ネフィリーム)を生んだのか?」(同3節)と非難されます。
「天の諸霊の住まいは天にあるのに、今やお前たちが生んだ巨人どもが、地上の悪霊どもと呼ばれて、地上に住む」(同7~8節)ようになったからです。
 
 
 このように、天上のものと地上のもの、霊的なものと肉的なものとの結合が、天の霊性を貶める堕罪であり、これが地上に罪をもたらすことになります。
だとすれば、ヨハネ福音書にあるように「天から降ったみ言は、自分を受け容れた者に神の子となる資格を与えた」(同1章12節)とあることと、この両者はどのように関連し合い対応するのでしょうか? 
ヘレニズム・ユダヤ教から新約聖書のキリスト教へのこの大逆転は、いったい何を物語るのでしょうか?
 
 ヨハネ福音書1章12節に続く13節では、主語を単数に読んで、「彼(み言)は、血筋によってではなく、肉の欲(性欲)によってではなく、人の欲によってではなく、神によって生まれた」とあって、読みようによっては、これはイエス・キリストの処女降誕を指していることになります〔新約原典テキスト批評197頁〕。
現在では、前節のつながりから主語を複数に読むのが一般ですが、この13節には、マタイ福音書とルカ福音書の処女降誕伝承のもととなった思想が含まれているのではないか?とわたしは想定しています。
 
このように見ると、堕天使伝承と処女降誕伝承とは、旧約から新約への転換を理解する上で、重要な意義を秘めていると考えられます。
 
 
■黙示思想の人間化
 
 イエスの宣教は、抑圧されたイスラエルの民に与えられる「アポカリュプシス」(黙示/啓示)を背後に有していて、それは、貧しい者たちに御国の到来を告げるものでした。
 
キリストの福音がユダヤ教の黙示と異なるのは、「アイオーンの転換」、すなわち「新しい創造」が死ぬべき命(肉体とこの世)のただ中で<すでに>始まっていることです。
キリストの御霊の注ぎによって万物が新しく創造されるのです。
しかしその一方で、ヨハネ黙示録が書かれた1世紀末の前後には、ローマ帝国に姿を変えた「この世の権力」による重圧が、世界規模で破局をもたらす「黙示」として意識されるようになったのです。
黙示思想には、このように「創造」と「破局」の二面性があります。
 
 
 ただし、世界の破局によって終末の再創造(イエス・キリストの再臨)がもたらされるのではなく、キリストの再臨が終末をもたらし、邪悪を終わらせるのです。
黙示思想の二面性は、このように、キリストと反キリストとの闘いの様相を呈します。
新しい時代(アイオーン)と古い時代とが重なり合いながら、闘いは終末まで継続します。
だから、終末へ向かう「この時代」は、これと重なり合うように働く神の創造、無から有を呼び出す神の創造の働きに裏打ちされています。
世界の終わりには、新しい始まりが秘められているのです(ヨハネ黙示録21章6節)。
 
 
 荒れ野でのイエスへの誘惑の場面に見るように、共観福音書の世界では、サタンは人間世界とは別個の霊的な存在として顕われます。
共観福音書では、程度の差こそあれ、黙示的な宇宙は人間世界と連動してはいるものの、人間を超越した別の世界として描かれ、しかも人間世界と呼応し連動するのです(マルコ13章とその並行箇所)。
黙示思想に表われる宇宙的な霊界は、人間世界と関わりながらも、そこから区別された独自の世界を形成しているように見えます。
 
 
 こういう二面性は、ヨハネ福音書でその様相を一変させます。
ここでは、創世記の光と闇との分離に始まり、光と闇とのこの相克が福音書全体を包んでいます(ヨハネ1章5節)。
この意味でヨハネ福音書は、共観福音書よりもはるかに徹底した黙示世界を提示していると言えます。
ところが、ヨハネ福音書では、共観福音書のように、サタン(悪魔)がそのままの姿で顕われることがないのです。
サタンはユダとなり、大祭司カイアファとなり、「ユダヤ人」となり、時にはイエスを信じた者たちの中にさえ存在します。ヨハネ福音書では、黙示の世界が徹底的に人間化されるのです。
 
 
 この福音書が描く物語全体は、光と闇の二元的な闘争と、その闘争を通じて永遠のロゴスが闇に勝利するという黙示的な図式で構築されています。
それでいてその世界が、人間化されるという不思議な性格を帯びています。
そこでは、イエスは人間でありながら同時に神的な存在であり、これに対応する大祭司やユダヤ人も、人間でありながら悪魔なのです。
黙示世界のこのような「人間化」、逆に言えば、人間世界の黙示的霊界化の下にあっては、人間は自分の意志や努力によって、自己の運命を切り拓くことができません。
自分を超えた力に支配され、導かれているからです。
これがヨハネ福音書の特徴です。
 
 
 このように見ると、ヨハネ福音書は、全体が黙示的な世界観によって成り立っていながら、しかもその世界観を非黙示的に表現するという、
不思議な手法で書かれているのが分かります。
黙示世界の人間化というヨハネ福音書のこのような特徴は、コロサイ人への手紙やエフェソ人への手紙にも見ることができますから、この傾向はすでにパウロに現われているのでしょう。
パウロ書簡では、サタンや天使がそのままの姿で人間に働きかける場合がほとんど見られません。
こういう黙示世界の<非黙示的なとらえ方>こそ、ヨハネ福音書が、後の教会に向けて、三位一体を初めとする神学的な土台を提供することになった理由の一つだと考えられます。
 
 
■パウロ書簡と黙示思想
 
 四福音書に表われた黙示思想は、これに先立つパウロ書簡の黙示思想とも一致します。
パウロの最初期の書簡である第一テサロニケ4章15~17節では、大天使の声と最後のラッパの合図と共に、主御自身が天から再臨し、先ず「眠りについた人たち」が復活します。
続いて「まだ生きているパウロと信徒たち」が、空中で主と出会い、雲に包まれて昇天します。
これとマタイ24章29~31節とを比べると、マタイ福音書でも、人の子の再臨に際して、合図のラッパと共に天使たちが遣わされて「選ばれた者たち」を集めます。
それから人の子が、大いなる栄光と共に雲に乗って顕われます。
だから、「人の子=主」と見るなら、マタイ福音書とパウロとは一致しています(さらにマタイ16章27~28節を参照)〔Sanders.The Historical Figure of Jesus. 181.〕。
 
 
 このようにパウロ書簡にも、共観福音書と同じ黙示思想を見ることができますが、パウロの場合は、サタン/悪魔が人間の姿を採っているのに対して、共観福音書では、サタン/悪魔が超人間的な悪霊として人間に働きかけるのです。
もっとも、第二コリント6章14~16節では、「キリスト」と「ベリアル」(ここでのベリアルはサタン/悪魔と同じ)の世界が、光と闇との対立関係に置かれていて、人間はその狭間に立たされています。
ただし、第二コリントのこの部分は、その前後と内容が一致しないだけでなく、これがクムラン宗団的な特徴を持つために、パウロ以外の人による挿入ではないか?と疑われています〔岩波訳『パウロ書簡』138~40頁〕。
これに反論して、たとえ挿入的な性格であっても、それだけでパウロ自身によるものでは<ない>と見なすことはできず、むしろ、パウロ自身が、イエス時代のパレスチナ的黙示思想を保持していることをこの挿入は示唆していると見ることもできます〔Murphy-O'Connor.Paul.255.〕〔Thrall. IICorinthians.Vol.(1).31-35.〕〔Harris. The Second Epistle to the Corinthians. NIGTC. 24-25./497.〕。
 
 
 第二コリント11章1~15節で、パウロは、彼の福音に反する教えを宣べ伝える者たちを「偽使徒」と読んで、彼らをほとんどサタン同様に見なして厳しく攻撃しています。
「偽使徒」の正体が何かは議論の的ですが、おそらくパウロの伝える十字架の福音と御霊にある律法からの自由に対抗しようとする律法主義的なユダヤ人キリスト教徒のことでしょう〔Thrall. IICorinthians.Vol.(1).474-75.〕〔Harris. The Second Epistle to the Corinthians. NIGTC. 744-47.〕。これにフィロンの流れを汲むアポロ的な信仰者が同調したのかもしれません〔Murphy-O'Connor.Paul.302-303.〕。
パウロ書簡では、これら偽使徒たちを動かしているのは堕天使たちで、パウロは彼らを楽園でエヴァを誘惑した蛇にたとえています(第二コリント11章3節/同13~15節)。
ここでは、楽園でエヴァを誘惑した蛇は堕天使と結びついていますが、ルカ福音書では、蛇はサタンと結びついています(ルカ10章17~20節)。サタンと蛇とのこの同一視は、ヨハネ黙示録において完成することになります(ヨハネ黙示録12章7~9節)〔フォーサイス『古代悪魔学』409~21頁〕。
 
 
 後述するように、パウロ系のエフェソ6章11~13節でも、人間の力を超えた悪霊の支配がでています。
サタン/悪魔が人間の姿を採るのは、ヨハネ福音書でも同じですから、福音書とパウロ書簡とを併せるなら、黙示的なサタン/悪霊と、人間としてのサタン/悪霊と、両方が表われていると見るほうが適切です。
 
 
■ユダヤ的対立の相対性
 
 ヘブライの伝統では、肯定と否定という正反対の方向から事柄を観る「並行法」という独特の思考様式を採ります。
並行法は、ギリシア・ラテンの西方の思考様式とは異なっています。なぜなら、並行法は、ある種の修辞法であり、それは、論理よりも比喩的な類比によって支えられているからです。
だから霊的な事柄を対立する両面から見る場合に、その違いは<論理的対立>としてではなく、<比較対照による差異>として表わされます。
この場合、対立/対決は、論理的な対決ではなく、相対的な観点の違い/差異から生じています。
 
 
 この思考方法は、比較的小さな相対的な違いでも、これを拡大して過大に見せる効果を伴います。このために、対立点が拡大して鋭くえぐり出されるのです。
イエスは、この方法を用いて、富と神、義人と罪人、律法と赦し、指導者と庶民の差異/違いを、譬えを通じて鋭く比較対照させ、こうすることで、人々に霊的な真理を会得させるのです。
 
 相対的な差異をこのような方法で指摘し論じるやり方は、対立点をいっそう先鋭化させる傾向を帯びますから、たとえ相対的な意見の違いでも、相手を敵視する傾向に走ることになります。
問題の相対性とこれを論じる際の鋭い対立関係、この二つの立論の仕方を見損なうと、わたしたちはイエスやパウロの時代のユダヤの思考法を見誤ることになります。
 
互いに近い関係にありながら、両者の間にあたかも絶対的な違いがあるかのように敵対し論じ合うこと、これが黙示思想に受け継がれた特徴だと言えましょう。
自分とは少しでも違う視点から見る者は、「不信者」であり「偽善者」であり「サタン」であり、悪霊として敵視するのが黙示思想の特徴なのです。
だから、パウロに限らず当時のユダヤ人は、一見相矛盾することをもあえて並列させて語り、しかも自分と異なる見方を厳しく糾弾するのです。
ちなみに書簡のある部分が、他の部分と論理的に相容れないから、それはパウロに由来するものでは<ありえない>という論理は、このようなパウロのヘブライ的な思考様式を見落とすところに生じると思われます。
 
 
 
第1部10章 ②堕天使伝承と新約聖書につづく