第1部 堕天使と洪水伝承
http://www.koinonia-jesus.sakura.ne.jp/apoca/11datensint.htm
第1部10章 ②堕天使伝承と新約聖書
■エフェソ6章の堕天使
最後に言う。主にあって、
彼の全能の力に強められなさい。
神の武具を身にまといなさい
あなたたちがしっかりと立ち
悪魔のもろもろの策略に対抗できるために。
わたしたちには、血肉との格闘などでなく
諸支配と諸権威、
暗闇の世界の諸力、
諸天にいる悪の諸霊との
戦いがあるのだから。
(エフェソ6章10~12節)
エフェソ人への手紙のこの部分は、神の天使たちの位階さえまだ十分発達していなかった1世紀に、悪魔の天使団の組織を示唆している点で注目に値します。
作者は、エクレシアに属するクリスチャンたちの戦いが、人間の力を超えるもろもろの霊力との戦いであることを示し、われわれも自力に頼ることをせず、人間を超えた「神からの武具」を身にまとうように警告しています。
だから、ここで語られている闘いは、個人の自己分析や自己反省によって解決できるものではなく、また、エクレシア全体としての人間の組織力による闘いでさえありません。
作者は、エクレシア全体であれ個人であれ、闘うべき相手が霊力であって、「諸支配(the principalities)と諸権威(the powers)/暗闇の世界の諸力(the world rulers of this present darkness )/諸天にいる悪の諸霊(the spiritual hosts of wickedness in the heavenly places)」であると述べています。言うまでもなく、これらは、すでに見てきた通り、神の天使たちに対立/対応する悪の諸霊力のことです。
初めの二つ、「諸支配」(the principalities)と「諸権威」(the powers)は、すでにエフェソ1章21節と3章10節にもでていて、それらの霊力は、復活したキリストの支配の下に置かれており(1章21節)、「わたしたちの主キリスト・イエスにある神の知恵」によって制御可能です(3章10節)。
これらの堕天使どもは、後の中世における神の天使の位階に照らしてみても、それほど高位の霊力とは思われません。
作者はおそらく、これらの堕天使たちによって、人間世界と天との中間に介在する悪の諸霊力「かの空中に勢力を持つ者」(2章2節)を指しているのでしょう。
問題はこれに続く「暗闇の世界の諸力」と「諸天にいる悪の諸霊」です。
これら後半の二つを前半の二つの説明だと考えることはできません。
彼らは惑星にかかわる天文/占星に登場する堕天使どもを指すからです〔Best, Ephesians. 593.〕。
これらの堕天使は、エフェソ人への手紙の作者のはるか以前から知られ伝えられていて、この書簡の読者/聴衆にも知られていたのでしょう。彼らは、地上にあって目に見える支配者たちや権威・権力者のことを直接に指しているのではありません。「直接に」と言うのは、人間世界の支配者たちは、彼ら堕天使どもに操られてその悪しき策略に与し、神に逆らう場合が少なくないからです。
「暗闇の世界の諸力」(コスモクラトールたち)は、ここだけに表われる用語です。
もともとは天体が運行する「圏」"sphere"を司る力を指すギリシア語で、それらが人間の運命を左右すると信じられていました。
エフェソ人への手紙では、この用語が表わす霊力が、時代・時期的な支配のことなのか、それとも空間的な領域に属するのかが論じられていますが、『第一エノク書』の堕天使伝承から見れば答えは明らかです。彼らは神の裁きを「すでに予告」されていますから、時代(アイオーン)の最終的な審判を待つ者たちです。
現存する「闇の世」" this world"が、堕天使ども悪霊の跋扈(ばっこ)する世界を指し、彼らの頂点に立つのが「サタン」すなわち6章11節の「ディアボロス」(悪魔)です。
堕天使伝承に照らすなら、サタンのこの支配権は比較的新しく(前2世紀の頃から)、彼の威力と互角に戦えるのは大天使ミカエルくらいですから(ユダ9節/ヨハネ黙示録12章7節)、その威力は後の中世の天使の位階に照らして見れば、第三位の「座天使」級でしょう。
「闇の天使たち」はクムラン文書では「ベリアルの軍勢」として登場しますが、クムラン文書では、堕天使どもの力は彼らに支配されている人間と結びついて、「闇の子ら」として表われされます〔『戦いの書』1章1節〕。彼らは神に選ばれた「光の子ら」と戦いますが、クムランで言う「光の子ら」は、イスラエルの会衆の中から特に神に選ばれて「契約に忠実な」者たちに限定されます。
したがって、「光の子ら」は、それ以外のイスラエルの民からも、異教世界の「闇の子」からも厳しく区別されています。
この点で、新約聖書の「光の子/闇の子」、特にヨハネ福音書に表われる「光」と「闇」とはかなり内容が違ってきます。
単数の「コスモクラトール」(世の支配者)は、七十人訳にもでてきません。これに対して単数の「パントクラトール」(全能者)は、ヘブライ語の「シャダイ」(全能/力)と「ツィーヴォート」(軍勢:特に天使の軍勢)の訳語として七十人訳にも新約聖書にもしばしばでてきます〔TDNT(3)914.〕。
例をあげると、ヨブ記5章17節の「全能者」、アモス3章13節〔七十人訳14節〕の「主なるヤハウェ、万軍(パントクラトール)の神」などです。
アモス書のこの箇所のように神名の全部を網羅した名称は外に例がありません。パウロはここを「全能(パントクラトール)の主」(第二コリント6章18節)として引用しています。
なおヨハネ黙示録1章8節には「神である主、今おられ、かつておられ、やがて来られる方、<全能者>がこう言われる。
『わたしはアルファであり、オメガである』」や同4章8節「<全能者>である神、主、かつておられ、今おられ、やがて来られる方」などがあります。
ちなみに、この「パントクラトールなるキリスト」は、東方正教会では特に重要で、ギリシア正教の聖堂や修道院の礼拝堂を覆うドーム型の天井の頂点には、パントクラトールとしてのキリスト像が描かれています。
パウロとパウロ系の書簡では、先にもあげた第二コリント6章18節の「パントクラトール」が注目に値します。
ここでパウロは、「キリストとベリアル」を「光と闇」との対照関係においています。「全能の主」とはキリストを指していますから、これに敵対する「闇の主」として、パウロはサタンと並ぶベリアルを念頭に置いているのでしょう。
アモス書では「パントクラトール」が天使の軍団を意味しますが、パウロが「パントクラトール(全能者)である主」と言う時に、はたして天使の万軍を率いるキリストを意味しているのかどうか確かではありません。
しかし、イエス自身が天使の軍団を率いることができると明言していますから(マタイ26章53節)、おそらくパウロも、このキリストに対抗してコリントのクリスチャンたちを「汚そうとする」ベリアル(=サタン)配下の諸霊力のことを指すのでしょう。
パウロは、彼らの悪の手管を避けて、全能のキリストの名によって身を聖く保つように教えているのです。
最後に出てくるのは「諸天にいる悪の諸霊」です。ここで言う「諸霊」とは堕天使の働きですが、問題は「諸天」にあります。
天上にも悪霊が働くのか?という疑問が初代の教父たちを悩ませたようで、このためか「諸天にいる」を省いた異読もあります。
これを「諸天の<下にいる>」と読もうとした教父たちもいますが、これは無理です〔Best, Ephesians. 594.〕。
欽定訳もこの辺を配慮してか"in high places" となっていて、横に "Or, heuenly" と異読があげてあります。現代の英訳は"in the heavenly places"〔RSV〕〔NRSV〕と欽定訳の異読のほうを採っています。
サタン/アサエルの率いる堕天使たちが<もともとは>天にいたという伝承はすでに『第一エノク書』にでていて、「天の諸霊たち、彼らの住まいは天にある。
だが今や、これらの諸霊と肉(人間の女性)との間に生まれた巨人たち(ネフィリーム)は、地上の悪霊と呼ばれる。
彼ら(巨人たち)の住まいは地上にあるのだから」(『第一エノク書』15章7~8節)とあります。
これで見ると、堕天使である悪霊どもは人間の女性と交わって巨人を産み、そこから出た悪霊どもが地上で働くことになりますが、堕天使たち自身は一体どこに住んでいるのかがはっきりしません。
それだけにエフェソ6章12節がいっそう注目されることになります。
ところが、『イザヤの殉教と昇天』(紀元1世紀末頃?)では、イザヤが栄光の天使に導かれて「わたし(イザヤ)と彼(天使)は大空に昇ったが、そこにわたしはサマエルと彼の軍勢を見た。
また、そこでは大がかりな殺し合いが行なわれていて、サタンの天使たちはたがいにそねみ合っていた。地上も上界と同じである。
大空で行なわれていることと似たようなことは、ここ地上でも行なわれる」(村岡崇光訳「預言者イザヤの殉教と昇天」7章9~11節)とあります〔『聖書外典偽典別巻』補遺Ⅱ191頁〕。
この文書の後半(6~11章)はキリスト教起源ですから、これから判断すると、「諸天にいる悪霊ども」という見方は、ユダヤ教の黙示思想を受け継いだキリスト教の黙示思想において現われたのかもしれません。ただし、以後のキリスト教では、「上位の諸天」と「下位の諸天」との区別がなされるようになりました〔Best, Ephesians. 595.〕。
■2世紀以後の堕天使伝承
キリスト教がユダヤ共同体の内部に留まっている間は、キリスト教徒は、他のユダヤ人を潜在的な敵と見なし、異邦人を潜在的な改宗者と見なしていました。
パウロのローマ人への手紙では、ローマ帝国は必ずしもサタンの支配下にあるとは見ていません。
この意味で、パウロの信仰は「脱黙示思想」の方向を指していると言えましょう。
しかし、ネロ皇帝の迫害でパウロが殉教すると、その弟子の一人は、キリスト教が直面する危機を認識して、キリスト教徒の相手は血肉(人間)ではないと警告したようです。エフェソ人への手紙の作者も、この霊的な闘いの意味を悟ったのです。
さらにヨハネ黙示録の作者は、ローマの総督たちによってキリスト教が迫害されることを知って、ローマの権力を「悪魔・サタン」の怪物・獣として描くことになります〔ペイゲルス前掲書180~81頁〕。
異教の神々を信じる者はサタンに唆されている。こう信じるようになったキリスト教徒は、自分の家族や同じ町の住民や支配者から憎悪されるようになります。
キリスト教徒は、彼らがかつてユダヤ人から怒りをかったと同じ理由で、今度は異教徒から、さらに大きな怒りをかうことを徐々に悟り始めます。
キリスト教が、異教の国家や民族やその伝統との紐帯を断ち切るように教えたからです。
異教徒にとって、敬神とは、古代からの慣習を守り、伝統的な道徳に敬意を払うことだったのですが、キリスト教は、まさにその紐帯を断ち切ることを奨励したのです。
では、なにゆえにキリスト教は、このような迫害の中で多数の信仰者を獲得することができたのでしょうか?
その理由の一端をユスティノスの場合に見ることができます。
彼は、キリスト教徒が闘技場で野獣に引き裂かれる時でさえ冷静な勇気を見せているのを目撃したのです。彼はその姿に、プラトンや最高の哲学者たちの境地と同じ高さを見出したのです。
彼はそこに、自然を超越する何か奇跡的なもの、宇宙規模の闘争において、サタンと闘う神の戦士を見たのです。
これこそ、キリスト教がユダヤ黙示思想から受け継いだ力にほかなりません。
ストアの哲学者たちは、自然科学を学ぶことで、人生に起こるいっさいの出来事を超越する悟りに到達することができると教えました。
ところが、そのような神的な理性をまさにキリスト教徒が実践していたのです。
ユスティノスは、キリスト教の老人から、人間がどのように努力しても、神を知る知識にいたることは不可能であると教えられました。
ユスティノスは、キリスト教徒にそのような力を与えているのが、聖霊であることを知ったのです〔ペイゲルス前掲書184~186頁〕。
こうしてユスティノスは、神とキリストの聖霊によって生まれ変わったのです。彼は、それまで彼が神々だと信じていたものが、実は悪霊にほかならなかったことを知ったのです。
その上、全宇宙が、キリストとサタンとの<戦場>だと悟ったのです。
神々を体現すると称するローマ皇帝さえも、これら悪霊に支配される道具にすぎないことを彼はキリスト教から学んだのです。
ストアの哲学では、敬神とは、自然の因果とその運命を平然と受け容れることでした。しかし、キリスト教は、現在の自然とは全く異なる新たな世界を待ち望むことに命をかけるのです。
だからキリスト教にとって、「生まれ変わる」とは、自然を乗り越えることにほかなりません。
キリスト教徒は、サタンとの全宇宙的な闘いに身を投じることになり、今や人間のすべての倫理が、この一事へと方向付けられることになります。イエスはサタンとその手下の悪霊たちと闘いました。聖霊を受けた者は、このイエスと同じ闘いを継続するのです〔ペイゲルス前掲書193~95頁〕。
タティアノスは、ユダヤ黙示思想の堕天使伝承に基づいて、人間世界の不公平を創り出しているのは、神ではなく、サタンの軍団であり、堕天使どもの子孫であると見ています。
惑星や諸霊を信仰する代わりに、唯一の主を知ることを教えるタティアノスのこの信仰は、以後の西欧世界をして、ギリシア文明に対する見方を一変させることになります〔ペイゲルス前掲書210~11頁〕。
以上で分かるように、2~3世紀の教父たちがエノク伝承に触れる時に、彼らは、エノク伝承のほんらいの姿を「悪の起源」の伝承として正しくとらえています。
エイレナイオスも、テルトゥリアヌスも、アレクサンドリアのクレメンスも、エノク伝承をよく知っていました〔Nickelsburg, 1 Enoch. Hermeneia. 101〕。
オリゲネスは、キリスト教徒として、人民が暴君を暗殺する倫理的な権利を有すると公言した最初の人です。
彼の父レオニデスは、セプティミウス・セウェルス帝の迫害で殉教しました。
しかしオリゲネスは、ある裕福なキリスト教徒によって保護されました。
カラカラ帝は、キリスト教徒を寛大にも放置し、アレクサンデル・セウェルスが帝位に就くと、彼はキリスト教徒に好意を持つようになります。
続くマクシミヌスは、キリスト教を迫害しますが、続くゴルディアヌス3世は、キリスト教に無関心でした。
続くフィリップス・アラブスは歴史上最初のキリスト教の皇帝になります。
しかし、次のデキウス帝の時代に帝国全土でキリスト教への迫害が行なわれました。
この時期にオリゲネスもとらえられ拷問を受けましたが、釈放され、間もなく天に召されます。オリゲネスは、帝国が悪魔の支配下にあるとは言いませんが、ローマに平和が保たれているのは、ひとえに神の恩寵であると讃えています。彼は、暴君が国民の自由を奪う場合には、彼を暗殺する秘密結社に入ることは善だと考えたのです〔ペイゲルス前掲書218頁〕。
タティアノスたちキリスト教神学が到達して霊性は、ヘレニズムの宗教・哲学を超えるものですが、それは黙示世界を基調として異教世界を否定するものでした。
現代日本のキリスト教的な霊性もまた、仏教の伝統的な因果応報の世界観とこれに基づく空思想を超える「聖霊の創造的な働き」を知っています。
しかし、かつての初代教父たちが異教世界を敵と見なした視野とは対照的に、仏教の宇宙観が「悪霊的」だとは考えないのです。
仏教的な空思想が、福音の霊性を証しする<準備段階>だと見なすことが可能だからです。
こういう視野に立つことで、全宇宙をサタンとキリストとの闘争の場と見る世界観を克服することができます。
悪霊と堕天使伝承は、「人間の文明」それ事態に潜む矛盾を言い表わしていることを洞察するからです。
■アウグスティヌスの原罪思想
わたしたちはここで、主として黙示思想との関連においてアウグスティヌスを見ていくことにします。このために、まず、彼とマニ教との関係に目を向けなければなりません。
マニ教の祖と言われるマニ(216~76年)は、おそらくペルシア人の両親からアッシリアで生まれました(216年頃)。
216年と言えば、パレスチナの東部から以東を長らく支配していたパルティア王国が、ササン朝ペルシアによって滅ぼされる直前の頃です。
彼は、グノーシス的な傾向を持つユダヤ人キリスト教徒のエルカザイ派の中で成長しました。
このユダヤ人キリスト教の宗派は、100年頃にヨルダン川の東岸に興ったと考えられています。
マニは、仏教、ゾロアスター教、キリスト教の三大宗教を自分の先駆と見なした上で、これらを統合し凌駕する宗教大系を目指しましたが、自ら「イエス・キリストの使徒」を名乗っていますから、その思想は、シリアのグノーシス系のユダヤ的キリスト教を軸に形成されていたと言えます。
マニ教にとって、光と闇の分割は、世界の創造以来、互いに独立した相反する原理として存在していたものです。その宇宙創生神話は次の三段階に分かれています。
(1)天地が存在する以前に闇の天使による光の神への反逆が生じた。
(2)神は、闇の神(アーリマン)と闘うために、神の原質から「第一の人」を創造した。ペルシアのマニ教徒は、この人物を「善の神/光の神」(オルマヅド)と呼びます。
ところが「第一の人」は闇に敗北し、その結果光は闇に食らわれて両者の混合が生じました。
善悪が混合した人間において、闇と光とを分離するためには、宇宙の創造が行なわれなければなりませんでした。
こうして宇宙が創生されたのです。
(3)この第一の人は、光の霊性を持つキリストによって救い出されます。
最後の終末において、光は闇から切り離されて、天と地が消滅します〔フォーサイス『古代悪魔学』525~29頁〕。
マニ教には、キリスト教の聖霊観、インドの輪廻転生思想、イランの光と闇の二元論と終末論が入り込んでいます。
彼は、すべての人間に到達可能なこの宗教をササン朝ペルシア帝国の隅々にまで広げようとしました。マニはこの目的で、七つの正典をペルシア語、シリア語、アラム語で著わしました。その救いはグノーシスを原理とする「救済の知」によって達成されますが、そこには、インドのヨーガ学派や仏教による人間性の分析も採り入れられています〔エリアーデ『世界宗教史』(Ⅱ)409~411頁〕。
ディオクレアヌス帝は297年にマニ教を勅令によって異端としました。
マニ教は、肉体と霊魂との相克が、宇宙規模の救済計画に組み込まれていることをアウグスティヌスに教えてくれました。善悪の闘争が宇宙規模である限り、彼は、「己の罪」に対して責任を負うことから免れることができました。
しかし、このような二元論的な宇宙観は、宇宙と彼自身の内面との両方を分断するものでした。
この分断を克服する「完全性」を彼は求めたのです。この探求により、アウグスティヌスは、己の罪が、己の意志に反する別の性質から来るからと言って、その罪を免責することを拒否したのです。彼は、「罪が意志に反して自分を引き裂くのは、自己自身の不信心からにほかならない」と考えたのです。
アウグスティヌスは、己の完全への道を、先ず己の罪の考察から始めたのです。
こうして彼は、創世記3章の堕罪の解釈に取り組み始めました〔フォーサイス前掲書534~36頁〕。
アウグスティヌスの創世記の堕罪解釈は、彼が師と仰ぎ、かつその手によって受洗した(387年)アンブロシウスの解釈から始まりました。アンブロシウスは、オリゲネスの寓意的な聖書解釈を受け継いでいて、堕罪は、神から人間に与えられた真の霊性が肉体という物質界へ陥ることによって生じたと考えました。
アンブロシウスの三位一体論には、キリストの霊性と肉体との分離が含まれています。彼は、父と御子と聖霊の三位一体は「造られた物体ではない」がゆえに不滅であると見なし、聖霊はキリストの肉体とは成らず、したがって、十字架の死において、キリストの肉体は死にわたされましたが、御父から受けた霊性において「死んだ」のではないと考えたのです。
だから、聖霊は十字架されることがなかったのです〔小高編『原典古代キリスト教思想史』(3)「アンブロシウス」128~129頁〕。したがって、キリスト教徒は、永遠の聖霊によって「人間の肉体に宿る罪を十字架にかける」ことを通じて初めて、救いに到達することになります。
アウグスティヌスは、アンブロシウスの寓意的な解釈を受け継ぎましたが、彼は創世記2章25節~3章24節の堕罪物語をそれ自体にさかのぼって解釈し直しました。
彼は、エデンの園では、アダムとエヴァが、その「祝福された命」にあって「完全な自己同一」に達している存在だと見なしました。
そこには善悪の分裂はいっさい存在しなかったのです。
そのような人間が罪を犯したのは、人間の高慢のゆえに蛇(悪魔)に唆されて、神によって禁じられている神の知恵を奪取しようとしたことに起因します〔『アウグスティヌス著作集』(17)創世記注解(2)教文館(1999年)49~63頁〕。
アウグスティヌスは、自らの高慢によって天から落とされた堕天使たちの悪霊が蛇に宿ったと見ています。
蛇が「その理性の優越のゆえにあらゆる野の生き物のうちで最も知恵ある」と言われるのはこのためです。
悪魔はその「邪悪で嫉妬深い」意志によって人間を欺きますが、神が、なぜこのような悪への誘惑を許されるのかは、謎のままです〔アウグスティヌス前掲書2~3章〕。
しかし、たとえ外からの誘惑に曝(さら)されたとは言え、悪は人間が誘惑に「同意する」ことによってしか生じえません。
「もしも人間が、誘惑者がいなかったから善く生きえたのだとすれば、そのような人間は、大きな賞賛に値するものになることはできなかった」と彼は考えたのです〔アウグスティヌス前掲書4章6節〕。
ちなみに、17世紀のイギリスの詩人ジョン・ミルトンも、これと全く同じことを考えています。だから罪は、人間が自らの意志によって為す(犯す)ことなのです。
罪は、人間のうちに「ある種の高ぶり」が潜んでいることに起因します。
人は、その滅びに先立って、心に高ぶりを宿すのです。
だから人間は、その力の及ばない必然によって罪を犯すのではなく、自らの意志によって罪を犯すのです。
人間は自らの意志に基づいて選び、その結果「目が開かれたことで善と悪とを知り、善を失って悪を獲得したことを知る」のです〔ミルトン『楽園喪失』9巻1071~72行〕。神が人間に罪への罰を下すのはそれゆえに正しいのです。
興味深いことにアウグスティヌスは、蛇の「知恵」それ自体が、善悪両方を含んでいることに注目しています(ラテン語 "astutia" には「鋭い洞察」と「狡猾」の両義が含まれています)〔アウグスティヌス前掲書2章〕。創世記3章1節にあるヘブライ語原典の蛇の「賢い」(アルーム)は、直前のアダムとエヴァの「裸」(アルミーム)を受けています。人は蛇の知恵によって「裸の恥」を知ったのです。「恥」は罪を知らせる知恵の賜物ですが、「恥を知る」ことは人にとって大事な美徳です。だから蛇が人に与えた知恵は、ある意味で「正しかった」ことになります。しかし同時に、「われわれは知るべきであることを越えて知るべきではない」こともまた悟らなければなりません〔アウグスティヌス前掲書10章〕。
アンブロシウスの場合は、罪とこれへの誘惑は、人間の肉体的な感覚が理性を唆(そそのか)して、判断を狂わせるところに生じるものでした。
だからそのような誘惑は、直接サタン(蛇)や堕天使に由来するものではなかったのです。
しかしアウグスティヌスは、色欲をも堕天使の欲望と高ぶりに結びつけて、欲望をサタン/堕天使と同一視したのです。
その上で彼は、このサタン/堕天使を神とキリストの<敵>と同定することで、サタン(蛇)の正体を確定したのです〔フォーサイス『古代悪魔学』576頁〕。
「アダムとエヴァから生まれたすべての子孫は、肉の情欲によって生まれ、原罪を引きずることとなった。
彼の子孫は、原罪によって、さまざまの誤謬と苦しみとを経て、堕落した天使たちと共に、終わることのない最後の責め苦へと引きずられるのである。
これら堕落した天使たちが人間の子孫を腐敗させたのであり、またそれを(意のままに)所有しているのであり、またそれと運命を共にしているのである」〔小高『原典古代キリスト教思想史』(3)251~52頁〕。
これがアウグスティヌスの原罪観です。
アウグスティヌスは、「悪から罪が生じる」と教えるマニ教に対抗するため、「罪が悪を生じさせた」と考えて両者を逆転させることで、「罪」と「悪」とを包括的にとらえました。
彼は「罪」と「悪」とを区別し、神への「罪」が、悪に先行することを見抜いたのです。
神によって創造された宇宙は、人間をも含めて完全な存在でありながら、その完全性は、人が罪を犯すことで損なわれるのです。
なぜなら、人は、罪を犯すことができる<意志の自由>を具えているからです。
以上見てきたように、キリスト教黙示思想は、ユダヤ黙示思想を受け継ぎつつ、これを独自の世界へと発展させました。
しかし、かつてのユダヤ的な黙示思想そのものは、2世紀の後半からグノーシスなどに姿を変えて、3世紀には衰退することになります。
具体的には、モンタヌス運動を境に、2世紀末から3世紀にかけて、テルトゥリアヌスやオリゲネスの頃を境に、キリスト教の非黙示化が始まり、アウグスティヌスにいたってキリスト教は、当初のユダヤ=キリスト教黙示思想を脱却したと言えましょう。
しかし、アウグスティヌスの思想に見るように、黙示思想の根本的な枠組みは、キリスト教に引き継がれて現在にいたっています。
これに対して、ユダヤ教のほうは、キリスト教が黙示思想を受け継ぐことに対抗するように、唯一神教的な世界観によって黙示的な宇宙観から人間世界へと脱却することになります。
だから、紀元70年以降のユダヤ教には、サタンや天使の存在は姿を潜めて、一元的な神の至高の世界観の下にある人間存在だけが内面的に問われることになります。
第1部 堕天使と洪水伝承はこの10章で終了です。
聖書とキリスト教を知るうえで参考になりました。
引き続き
第4部 人の子伝承と新約聖書を転載予定です。
引用は↓
ヘブライの伝承とイエスの霊性