★第二十章 貴州省、陝西省、広西チワン自治区、寧夏回族自治区などへ | imaga114のブログ

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宮崎正弘氏の情報ですが、これはアジアの国々の今と紹介の内容です。

毎日のニュースとは少し違いますが、興味深い内容を含むので

振り返って掲載します。

 

 

第一部 暴走老人 西へ(20)

第二十章 貴州省、陝西省、広西チワン自治区、寧夏回族自治区などへ


 ▲貴州省は陽明学の祖、王陽明のお墓もあるが。。。

 中国のあちこちをほっつき歩いている内に三十三省すべてを廻ったことに気がついた。

 

五十歳代後半だった。

 

そのあと、旧満洲の全域を細かく廻り、還暦を過ぎてからは中国新幹線乗り尽くしをはじめると、古希に近付いていたことにも気がついた。

 

 

 もっと足腰を鍛えなければと、一日一万歩を日課にしたのは七十を過ぎてからだ。

 

 乗換拠点として北京、上海、広州はもとより、哈爾浜、大連、西安には何回も行った。これらは飛行場に降りて、入国手続きだけで、次の目的地への乗換えに利用しただけのことが多い。

 

三泊四日とか、六泊七日の旅程をスケジュールの合間に挟み込むので、いつも忙しい旅だった。

最長でも十九泊二十日間の中国旅行で、やや長い夏休みを利用した

 

 

なにしろ短時日で時間と距離を稼ぐため、航空機と新幹線が主になり、それから長距離バス、

 

ローカルな鉄道、現地でも広い土地で目的を探すには、どうしてもタクシーを雇うことになった。

 

ホテルは現代のようにスマホやパソコンで予約できる時代ではなく、いきあたりばったり到着地のバス停の目の前のビジネスホテルが一番多かった。

 

 

この連載で漏れているのは河南省、青海省、貴州省、陝西省、広西チワン自治区、寧夏回族自治区などだが、拙著『出身地でわかる中国人』(PHP新書)ですべて網羅しているので、ほかの地区にも興味ある読者は、この本を参照して下さいな。

 

 

 

 

 貴州省へはマオタイ酒をのみに行ったのではない。

 

陽明学の開祖、王陽明のお墓もスキップした。

 

では貴州省の何処へ行ったか? 毛沢東の主導権が確立されて遵義会議の場所である。

 

どうしても、見ておきたいと考えたのは、その頃、中国政治論を書いていたからだ。

 

貴州省の省都は貴陽である。

 

 

太陽がめずらしく曇りか雨、つねにじめじめいていて太陽がでると犬が吠える。

 

だからマオタイ酒をつくるのに最適な土地であり、長江支流の赤水河の水を用い、高温多湿な気候環境を利用して、原料のコウリャンなどを蒸し、発酵させ、蒸留。

 

これを繰り返す「九蒸八酵七取酒」で造ったものを、さらに三年以上寝かせる。

 

その後、調整・配合を経て再び寝かせるため、全工程は五年もかかるのである。

 

 

その長江は毎年暴れる(長江の支流からマオタイをつくるのだが)

 

2020年六月に二週間ちかく降り続いて豪雨は、重慶の水位が11メートルもあがって幾つかの橋が流れ、中州は孤立状態となった。洪水は下流の貴州省を襲った。

 

貴陽より、遵義市内が水浸しになるという自然災害をもたらした。

あの遵義会議記念館も低地にあるから、被害を免れなかったのではないか。

それはともかく貴陽からバスで一時間半ほど、バス停からはバイク・タクシーで遵義会議跡地へ行った。

 

昨今は「紅色旅遊」とかで、革命聖地を訪れる人が増えたが、筆者が訪問したときは、見学者は四、五名ほどで、土産売り場も閉鎖されていた。まずらしく日差しの強い日だった。

 

写真パネルは黒白のセピア色だが、色あせ、誇りをかぶり、「歴史的」と言われた会議室も手入れが悪いのか、埃が机の上などにこびり付いていた。

 

 

 貴陽空港ロビィにはマオタイ酒のつめ合わせ、贈答用の化粧箱に入ったセットなど、当時でも日本円で十万円くらいだった。

 

日本では田中角栄訪中時に呑まされて酔っぱらったが、爾来、日本でも人気が出て、通販で購入すると小瓶でも3万円ちかい。

 

横道に外れたついでに、貴陽空港の待合いロビィの書店に山岡荘八の『徳川家康』の中国語訳全二十八巻が、東野圭吾や渡辺惇一より大きなスペースで並んでいた。

 

なんで中国人が徳川家康を読むのか、って?

 

長期安定の由来を知りたいからである。

 

 

 

 

 ▲古都西安を見尽くすには一週間滞在が必要

 陝西省は古都=西安(長安)という大観光都市がある。

 

 中国史には欠かせない要衝、いくつかの王朝が興隆し、滅亡した。

吐蕃(チベット)が攻めてきた陥落寸前となったこともある。

 

 夏は冷房が効いているはずの部屋にいても汗が止まらない。

 

ふと、ホテルの五階の窓から前の広場をみると、夜中に大群衆があつまって半裸で広場でごろ寝をしている。

 

涼気をもとめて、広場にやってきて、茣蓙を敷いて、そこで睡眠するらしい。

 

そのとき宿泊した王城のようなホテルはANA経営だったが、その後、中国資本となった。

 

 「あれが夏の西安の風物詩です」と現地ガイドも汗をぬぐいながら言った。

 

 

 

コロナ前、世界中から観光客が引きも切らなかった。

 

小生、ある時は一週間ちかく滞在して、西安市内や西安事件現場、楊貴妃の池、兵馬よう博物館に秦始皇帝陵墓等を詳しく見て歩いた。

 

だが、これら名所は多くのガイドブック、旅行記が語るところであり、それより日本人観光客がほとんど行かない延安と、黄帝御陵のことにすこし触れたい。

 

というのも、いまとなればユーモラスな見聞となったからだ。

 

 

 

中国共産党歴史がいうところの「長征」は部分的に作り話である。史実と信じて長征のコースをあるいた米国人ジャーナリストのハリソンン・ソールズベリーは『長征』(1988年)を書いて、途中の峻嶮な崖地で行き止まりとなったり、「あれは孫悟空が空を飛んでしか行けない旅程だ」と暴露した。

 

ユチアンの『マオ』は、もっと迫力合って、当時の生き証人にインタビューした箇所は、足が血だらけになった男達が毛沢東皇帝の籠を担いでいた情景を書き込んでいる。

 

たどりついた延安で毛沢東が繰り広げたのは、リンチと酒池肉林。

 

そして空爆を怖れての洞窟生活。其れも三年にわたって、穴蔵で原始的生活を営み、ひたすら隠れていたというのが真実である。

 

延安は川に沿って細長い街で、巡礼客を当てにしたシッピング街が出来ていたが、シャッター通りだった。

 

 

 

その延安から南下して、山の中に突如、黄帝稜が出現する。

 

コンクリートの四階建て、黄帝そのものが空想の産物だが、コンクリートの陵墓は現代の建物であり、裏山にのぼると、この石に黄帝が腰掛けたとか、南京大虐殺記念館の偽陳列と同様なインチキ陳列が続くのである。

 

 

 

 ▲チベット鉄道の起点は青海省の西寧

 青海省ではがらんどうの工業団地をみて、青海湖一周もしたが、特筆しておきたいのは塔爾寺(クンブム・チャムパーリン寺)というチベット仏教の名刹である。

 

 青海湖一周は、ホテルで申し込むと翌朝、ミニバスがやって来た。小太りの若い女性がガイドで、残り十五人ほどは全員が中国人。

 

子連れ、出張族の休暇利用組、得体の知れない三人組など多士済々

 

ドライバーは眼がとろんとして明らかに酔っていて、運転中も居眠りを始めたので、「おいこら」と怒鳴ると、路肩に車を寄せて、替わりのドライバーに電話した。

 

 待つこと一時間、フレッシュな若者が代行運転で駆けつけ、そのタクシーで酔っぱらい運転手は西寧へ戻った。

 

このハプニングがあったために車中で偶然一緒になった人たちと会話が弾んだのだ。

 

 

 「日本の小泉(首相)を日本人はどう思っているの」との質問は、当時の首相が九段の靖国に参拝した直後だったからだ。

 

「日本にも湖はあるか、広さはどれくらいか」などと初歩的な質問もされたが、あれだけの愛国教育を受けていても、反日に固まった人は稀で、率直な印象として、彼らは日本に憧れを抱いていることが、その会話、その態度からもひしひしと伝わってきた。

 

 

 

 塔爾寺は、ポタラ宮殿と比べると監視の目はゆるく、宗教図書をちゃんと売っているし、僧坊には若い修業僧が固まって給食をとっていた。

 

敷地は広く、寺の中に河が流れている。チャーターしたタクシーに同乗してきたのは前日に青海湖を一周した得体の知れない三人組で、なにか建築現場の監督風、日本のヤクザ映画にでてくる組頭のようでもあり、がっしりした体つきで、河南省の開封からやってきたと言う。

 

 

「あなた方も仏教徒ですか?」という筆者の質問に、

 

「いや、仏教徒じゃないけど、病気快癒祈祷には行くよ」

 

「中国は共産主義で無神論のはずなのに、各地に仏教寺院が多くあるのは何故か?」

 

「そんなこと考えてみたことないよ。あんたのお陰で、西寧にこんな立派なお寺があることをしったけど、日本の寺々とは、どこがどういう風に違うのか?」

 

(そりゃ、信心の度合いが違う)と言いかけて止めにした。宗教用語となると、筆談になっても理解しがたくなるからだ。

 

 

 

 それから西寧のアクセスの悪さを話し合ったが、数年も経ずして、西寧からチベットのラサへ青蔵鉄道が繋がった。

 

いまでは西寧から東は蘭州へ、北西へ向かうと河西回廊から酒泉、ハミ、ウルムチ、そして新彊ウィグルの奥地イーニンまで新幹線が繋がっている。

 

どろくほどの迅速さである。

 

 

 

 静寂な環境の名刹をあとに筆者は西寧市内には戻らず、山の中腹にある空港へ向かい、そこから寧夏回族自治区の銀川へ飛ぶことにした。

 

なぜ、距離も方向も異なる、あべこべなコースを辿るかといえば、そのころは全三十三省のうち、未踏の場所をパズルをとくようにとびとびに訪問していたからだった。

 

 

 

 ▲砂漠のオアシス銀川の粗野な人々

 砂漠のど真ん中、黄河はオメガのようなかたちに流れて起伏の緩やかな場所にキャラバン隊は駱駝を休息させ、自らも保養する旅館街を兼ねたオアシス都市をつくる。

 

 銀川は、まさにそのような場所に位置し、砂嵐が凄まじく、じつに荒んだ街である。

 

この街に二十四階建ての高層ビルが一軒、上空から見えた。

 

小型機はカナダのボンバルディア機で、二十四人乗り。スチュワーデスは長身の美人だった。高層ビルはホテルだった。

 

今晩はあそこに宿泊しようと決めた(いまはホリディインもケンピンスキーも銀川に進出し、摩天楼も増えて見違えるような街に変貌した)。

 

 

当時、空港からのタクシーは地元のヤクザが縄張りを仕切っていた。筆者が乗ろうとして気の弱そうな運転手は、ヤクザ運転手というより雲助に排斥された。

 

しかたなく銀川の雲助タクシーの乗ると、客である小生の断りもなく、友人を勝手に助手席に同乗させ、しかもその友人を先に迂回して降ろした。

 

このようなマナーの悪さにいちいち怒っていては始まらない。ここは中国なのだ。

 

そういうやり方は普遍的であり野蛮であり野卑だが、マナーを教わったことのない遊牧民の末裔たちにおいては先進文明国のしきたりなどどうでも良いことであり、友人を助けるのが行き方の一番なのである。

 

 と言っている内に高層ホテルについて、チップを渡さずメーターだけの料金を支払った。

 

部屋は入るなりの驚きとは、ガラス張りで、二十階下の道路が足下に迫り、高所恐怖症でないが、ガラスが割れて、グアムテープでとめているだけ。物騒な、無遠慮な建築思想を呪った。

 

 銀川観光の目玉は西夏王宮跡、承天寺、海宝塔など。

 

しかしこの街で猛然と見たかったのは西夏文字、その拓本を入手することだった

 

 

 

 西夏文字を英語ではタングーツ・キャラクターというように、西夏王朝(1032年~1227年)はタングーツ族が建てた。

 

西夏文字は六千の文字からなり、今世紀、ロシアのニコライ・ネフスキーや日本の西田龍雄]によって1960年代にようやく解読がなされた。

 

面白いのは「小虫」が中国人をあらわしていることである。古代中国が日本を倭とさげずんだような呼称である。

 

タングーツはチベット系で、吐蕃(チベット)と敵対したり同盟したり、鮮卑とも敵対し、青海省、四川省から東へ移動してきたらしい。

 

 

 

 漢字と、それを作った漢族を強く意識して作成されたと言われる。

 

 どの寺か忘れたが、お寺の境内の売店に拓本があった。

 

五十元(750円)という。相手の顔を見たが、値引きしに応じる気配はない

 

ともかく一枚をもとめ、帰国してから神田の専門店で表装してもらった。

 

その表装代金は額縁も入れて二万円だった。

 

拙宅に飾るのではない友人の新居祝いのインテリア用だった。