★★序説 アセアンの国々概論 | imaga114のブログ

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宮崎正弘氏の情報ですが、これはアジアの国々の今と紹介の内容です。

毎日のニュースとは少し違いますが、興味深い内容を含むので

振り返って掲載します。

 

 

第二部 「暴走老人 アジアへ」(その1)

序説 アセアンの国々概論

 ▲アジアの目は日本から中国に熱線を送っていた

 日本人がアジア諸国を旅行するに際して、とりわけアセアン十ヶ国は近い所為もあり、数百万の人々が訪れる。タイはバンコクのスクンビッド地区が日本人コミュニテイィである。古本屋まであるのだ。同様なジャパンヴィレッジはジャカルタのM街、ホーチミンの海岸周辺、プノンペンのイオンマートのあたりにも小規模ながらあって、いつでも日本の居酒屋の雰囲気がある。

 

 

日本人観光客にいまもヴィザが必要なのは、ミャンマー、カンボジア、そしてアセアンに加盟申請している東チモールくらいである。といっても後者三ヶ国も空港でアライバル・ビザを簡単に取得できるから、すくなくともアセアン加盟国へ行く場合、事前に日本でヴィザを申請する必要ななくなった。

 

 

 ベトナム戦争前後、ヴィザ取得がもっとも困難だったベトナムが一番先にノーヴィザとなり、謎の国だったラオスですら、日本人はヴィザが不要となった。
 インドネシアのヴィザも観光目的で三十日以内なら不要となった。往時、五反田のインドネシア大使館へでかけて三日がかりの申請、受領が嘘のようだ。
日本が高度成長をとげた1970年代、アジア各地ではエコノミックアニマル、イエローヤンキーと批判された。この時代、中国は鎖国していたので、アジアの大国といえば日本のことだった。いまはその面影もなく、アジアのどこへ行ってもチャイナ、チャイナ。その影響力の浸透は凄まじいものがある。まさに地位逆転である。

 

 

この三、四十年で何が変わったか。
最たる地殻変動は、反共連名だったアセアンが、おしなべて中国基軸のサプライチェーンに組み込まれ、中国とは政治的経済的財政的に抜き差しならない状態となったことだ。
アセアンの隅々にまで中国の影響力が浸透し、ラオス、カンボジア、タイ、マレーシアなどは華僑が経済中枢を掌握する状況になったのである。

 

 

 

 

▲華字紙による浸透も

 中国は米軍が撤退し、真空となった隙を突いて、南シナ海に人工島を七つ造成し、そのうち三つには滑走路も建設し、さらにレーダー基地を設置した。

 

「ここは昔から中国の領海だった。文句あっか」と開き直った。

 

アセアンの国々は軍事力が弱く、ベトナムを除いて中国軍には手出しをしないため、南シナ海は「中国の海」となった。

 

米国はかろうじて航行の自由作戦を展開した。

 

 

 領海を侵犯された国々はフィリピン、ベトナム、マレーシア、ブルネイ、そしてインドネシアである。

 

このなかで中国に盾突いて抵抗しているのはベトナムだけである。

 

ベトナムはアメリカを敗走させ、1979年の中越戦争でも中国を破った。だから中国を怖れないのだ。

 

南北統一の後、大量のボートピーポルがでたが、あれは華僑である。

 

嫌われてきた華僑をベトナム共産党は一気に追い出す作戦に出た。

 

 しかしそのベトナムさえ、中国企業が大挙進出し、中国との対決姿勢を緩和させた。

 

 

 

 フィリピンの首都マニラには世界最古のチャイナタウンが拓ける。

 

 宋朝が元に敗れ、王朝関係者らは華南からさらに揚子江以南に逃げ込んだ。

 

一部は山奥に御城のような集合住宅(客家土楼)をつくって立てこもり、また一部は海を渡って、台湾へ、そしてフィリピンへのがれた。

 

これが客家の源流であり、中華圏の台湾を別とすれば逃亡先に中華風の街を作ったのは、フィリピンは最初だった。

 

陸伝いに南下した漢人らはタイに、ラオス、カンボジアに、ベトナムに、そしてミャンマーにチャイナタウンを形成した。

 

 

 そのマニラでは華字紙が三つ発行されている。軍事力の浸透ばかりではなく、中国はメディアも駆使して政治的文化的発言力を発信しているのだ。

 

 マニラの老舗華字紙『大公報』と反北京政府系の『世界日報』、華僑のビジネスニュースが多い『商報』。

 

前者は北京寄りである。

 

僑をのぞけば、フィリピン人は英語が得意だから英字紙の影響力のほうが圧倒的に強い。

 

 

 ところがその英字紙の論調はかならずしも親米ではない。

 

ドウテルテ大統領の人気はマニラではそれほど高くない

 

。華僑の影響が強いからだ。またスービック湾とクラーク空軍基地跡周辺にはフィリピン女性と結婚したアメリカ人退役軍人らが年金暮らしをしており、米軍の『星条旗新聞』も読める。

 

 

 クラーク基地跡の周辺は、なんとコリアン村が出現していて焼き肉レストランばかりである。

 

そのうえクラーク基地は復旧しており、すでに民間空港に転用され、韓国や香港、シンガポールから国際線が乗り入れている。

 

 

 

 ここでアジアにおける中国のメディアへの浸透ぶりをまとめておくと、日本で発行されている中国語新聞はなんと54種類もある。

 

のうちの十数紙が週刊、しかも池袋などで無料配布されている。

 

週刊ブランケット判は「東方時報」「中文導報」「陽光導報」。

 

タブロイド判は「中華新聞」など。

 

どれもカラー印刷で40ページから50ページもある。広告欄は格安航空券、法律事務所、中国語だけで取得できる自動車学校、二十四時間保育園、エステなど風俗の募集広告。

 

内装、家具、下宿・不動産物件の斡旋、そして怪しげなマッサージ店の女性募集など満載。駅でこれらの新聞片手に求人応募の電話をかけている若者に出くわすこともある。

 

 

 

 ならばアジア各国、いや世界中で中国語新聞はどうなっているのか

 

 華僑がチャイナタウンをつくり、ビジネスをしている場所には必ず華字紙がある。

 

 それも最近はアセアン諸国ばかりか、バンクーバーでもシドニーでもニューヨークでも発行されている。大半が無料で、レストランやスーパーでレジ横においてある。新しい移民のチャイナタウンは豪、ニュージーランドなど、したがって新聞の文字は簡体字である。

 

 バンクーバーは香港からの移民が多いので繁体字のメディアが多く、もちろん古いチャイナタウンの国々、マニラ、バンコクなどでは繁体字が多い。

 

一部に簡体字のメディアがあるが、それは露骨に北京政府系と判断できる。

 

 

 

 豪のシドニーは実質的に「シナ」ニーだが、中国人の人口が50万人、ここで出ているカラーの華字紙は日刊で毎日50ページから60ぺージほどもある。それも数種類がでているから、日本人コミュニティは太刀打ちできない。

 

 反中感情の強いベトナムでは華字紙が許可されず、ホーチミンのチャイナタウンへ行くと中国語新聞をたしかに売っていたが、地区の共産党機関誌の中国語訳だった。

 

これはカンボジア、ラオスに共通である。プノンペンは華僑の不動産買いが目立つが、ラオスの首都ビエンチャンのチャイナタウンはみすぼらしい。

 

ラオスには華字紙がない。ところが北部の国境地帯へ行くと、華僑の天下となっており、カジノホテル、中華料理のレストラン、そして中国から持ち込まれる華字紙が売られている。

 

ラオスの北辺は中国が新幹線工事を展開しており、異様な光景が見られる。

 

 

 

 ブルネイは言論が自由な筈だが、人口わずか40万人強。中国語新聞はシンガポール『星州日報』の文芸欄の翻訳版だけだった。

 

 ミャンマーにおける華字紙はヤンゴンでは『世界日報』だけ。

 

第二の都市=マンダレーは華僑の町と言っても雲南華僑が主流。

 

ながく鎖国をしているうちに華僑の末裔らは中国語が喋れなくなった。

 

 

 もっとも豊富な華字紙がそろうのはタイである。

 

中華日報、京華中原、亜州日報、新中原報、世界日報など数紙もあるが、活字も繁体字。見出しの感覚が古く、年配者しか読んでいないようである。

 

タイの華僑系の若者たちですらフィリピンと同様に中国語より英語が得意であり、中国語を真剣に習おうとする人は少ない。つまり影響力は限定的である。

 

 

 インドネシアは意外に華字紙が多いが、チャイナタウンの隅っこで売られている上、華僑は地元民から恨まれているため政治的な発言をしない。つい先年まで発行が禁止されていた。

 

1965年の反共クーデター以後、中国系はインドネシアで細々と暮らしてきた。

 

近年、中国がガスと石油を猛烈にインドネシアから買うようになってからチャイナタウンが復活した。

 

 

 いずれにせよアジア各国は経済的に華僑の影響下にある。金融と流通を握っているからだ。

 

銀行はほとんどがチャイニース系、南アジアへ行くとここにアラブ系銀行が加わる。

 

 中国語新聞を比較一瞥しただけでも北京の宣伝効果には上限があることを知らされるのである。

 

 

 

 インド経済圏の各地、とくにインド全体とスリランカ、バングラデシュ、ブータンなどでは中華料理店が少ない、いや殆どないと言って良い。すこしアルコールを扱う店があるのはネパールである。だから当該地域には華字紙はない。

 

インド人の味覚に中華料理は合わないようである。大都会ではさすがに日本料亭よりは目立つが、地方都市へいくとまずない。

 

インド人は一般的に中国が嫌いなのである。

 

 

 これらの「インド経済圏」(インド、ネパール、ブータン、バングラデシュ、スリランカ、モルディブ、パキスタン)の関しては、第二節でまとめるが、モルディブをのぞいて、まだ全部の国はヴィザが必要である。ただし、ネパールとスリランカはアライバル・ビザが取得できるようになった。

 

 

 

 

 ▼ アジアの植民地を解放した日本

 問題は華字紙の論調であろう。

 

 いまもおしなべて反日色が濃いが、それぞれの国に政治情勢が加わり、ときに中国政府の宣伝を批判するような記事にお目にかかる。

 

 あの戦争(大東亜戦争)は世界の人々の幸せを踏みにじり、とりわけアジア・アフリカ諸国を蹂躙し、有色人種を奴隷のごとく扱って搾取してきた白人国家への日本の挑戦だった。

 

 「日本がアジアを侵略した」などという自虐史観は東京裁判でGHQが押し付けた改ざん史観だが、欧米の洗脳にひっかかっている似非知識人と朝日新聞と左翼が共同してでっち上げたものだ。

 

 

 大東亜戦争の目的はアジアの植民地の桎梏から解放することにあった。この崇高な歴史的意義が、戦後七十年も忘れられてきた。

 

 しかしアジア諸国を回って知識人らと話し込むと華夷秩序にしたがう朝鮮半島の国をのぞき、おしなべて日本に感謝していることがわかる。

 

 インドネシア独立戦争も、マレーシアも、ベトナムも残留した日本兵が対米戦争の戦術を指導したし、インドの独立戦争はともに闘った事実は厳然としてある。

 

わたしたちは日本のアジアへの貢献を正面から再評価するべき時を迎えており、自虐史観とは永遠に訣別しなければならないのである。

 

 

 そして近年、特筆すべきことがアジアで起きている。

 

 アジアでの反日を背後で操っていたのは華僑だが、もはや嘗ての影響力は薄くなり、むしろ華僑以外の人たちに拡がっているのは日本の評価の見直しである。

 

アジアの歴史は、独立後、それぞれが見直しに入ったが、米軍の圧倒的パワーが残存しており、また英字新聞の影響と英米留学帰りの学者ジャーナリストが英米で教わった通りに歴史館で反日を教育し、日本悪玉論がメディアの論調の主流だった。

 

中国の反日論調が華字紙に伝わり、それを英語に翻訳するのが中国人ジャーナリストゆえに反日が揺るがぬ歴史観だった。

 

なぜ変化したのか。

 

 それは各国が自己のアイデンティティを見直すという作業の中で、独立の先駆者をたたえるという歴史の見直しが始まり、それぞれの国で、それなりの「国学」が復活したことと密接な関係がある。

 

 

 たとえばフィリピンンでは「独立の父」とされるリサールの見直しがある。

 

いまでは各地に銅像が立ち、マニラには神社(廟所だが英語では同じくシュラインとなる)が建立され、そのリサールの独立運動を助けたのが日本だった事実を理解できた。

 

同時に米国が宣伝した日本軍のフィリピン民間人虐殺は嘘であり40万のフィリピン人を殺害したのが米国軍だという歴史の真実が掘り起こされる。

 

 

 

 

▲チャンドラ・ボーズ、リサールの再評価が始まっていた

 インドでも従来、歴史家によって黙殺されてきたチャンドラ・ボーズの再評価が始まり、なんとチェンナイのガンジー記念館の図書館にまでチャンドラ・ボーズの自叙伝や伝記本が売られている。歴史認識の転換である。

 

 

 マレーシアは華僑人口が全体の35%もあるとはいえ、華人の増長したやり方が目に余り、マハティール元首相はルックイースト、つまり「日本に見習おう」と唱えた。

 

 ベトナムやシンガポールはまだ一党独裁で歴史の見直しはこれからの課題だろうが、正式な日本再評価のない国々でも民間の伝承で日本の独立運動側面援助のことはちゃんと伝えられており、それが若い世代にSNSなどで伝播し日本像が見直されている。

 

 その証拠にミャンマーからカンボジアからバングラデシュやネパールから夥しい留学生、研修生が中国ではなく日本を目指している事実が物語っている。

 

 

 

 フィリピン独立運動を日本が助けていたという歴史的事実とて、知らない人が多いかも知れない。

 

 ともすれば戦後のフィリピンは米国に使そうされて反日感情に燃えた時期があった。

 

日本にたいそうな悪意を投げた歴史があり、モンテンルパの悲劇に象徴される。無実の日本軍人を戦後補償を狙って処刑し、日本を脅した。

 

 マルコス政権の時代までフィリピンは米国の傀儡と言ってもよく(いやマルコス転覆劇とて米国が仕組んだ)、だからフィリピンにおける独立運動史は等閑され続けてきた。

 

 

 日露戦争以前から対米独立運動をフィリピンで展開していたリカルテ将軍は何回も捕らえられるが、香港へ亡命し、1903年に日露戦争の戦雲が広がるや密かにフィリピンに帰国して独立本部を設営した。

 

米軍の急襲を受けふたたび捕らえられが、またも香港へ亡命し、その後、1915年に日本へ亡命するのである。

 

 

 

 

 ▲日本の教えは戦後も継続されていた

 「犬養毅や後藤新平らの援助を受け、横浜でスペイン語の教師などをしていた(中略)。

 

その後、41年12月19日に日本軍とともにマニラに」凱旋した。26年ぶりの帰国だったのだ。

 

しかし日本軍はこれらの親日派を重宝せずにいた。

 

ゲリラ活動が活発化したため、「43年には独立を認めることを宣言し、五月には東条英機首相がフィリピンを訪れ、ルネタ公園の歓迎式典で独立を公約し、その五ヶ月後の10月14日の独立式典ではリカルテ、アギナルド両将軍の手でフィリピン国旗が掲げられた」(平間洋一『イズムから見た日本の戦争』、錦正社)

 

 

 ジョイス・C・レプラはアジア各地に日本軍が残した「戦闘精神、自助、規律というものを教え込んだ」とし、「民族主義を抱いていた一つの世代の指導層全体に厳格なる軍事訓練を施し、規律とは何かを教えた」と強調した。

 

「この経験があったからこそ、戦後、アジア各地に戻ってきた植民地主義諸国と独立戦争を闘うことができたのである」(ジョイス・レプラ『チャンドラ・ボーズと日本』、原書房)。

 

 

 

 重要なことは戦後アジアで、日本軍が去っても、継続された日本の教えである。

 

アセアンの原型は日本が教え込んだ留学生達が、その後、祖国で独立を勝ち取り、政治家となって「東南アジアの共存共栄のアセアンの結成向けて努力を結集した」からだった。

 

「日本の戦争中の教育の成果は、この例が示すように軍事面だけではなく、政治面にも大きな遺産を残した」(平間前掲書)。

 

 

 そうしたASEANと南アジア諸国で、いま何が起きているのか、数年かけて、ひとつひとつ。合計十八ヶ国をしらみつぶしに歩いてみた。