武士の家計簿
監督 森田芳光
脚本 柏田道夫
原作 磯田道史
出演 堺雅人
仲間由紀恵
⚫︎あらすじ
江戸時代末期の加賀藩に仕える下級武士・猪山直之(堺雅人)は藩の財政を管理する“御算用者”という職に就く数字に強い人物でした。
しかし猪山家は、過去の浪費や不透明な出費により借金が膨らみ、生活は苦しくなっていました。
直之は、武士としての見栄や体面を捨て、徹底した節約と記録を重ねて、家計の再建に取り組みます。
彼は家計簿を細かくつけ、無駄を省き、家族全員が協力して倹約に努めることで、次第に借金を返済していきます…
⚫︎感想
加賀藩で会計業務をしていた、実在する猪山家のお話でした。
加賀藩では昔、お米が足りなくなって、備蓄米を放出したんですねぇ。でも、その米を途中の藩士たちが抜き取ってしまい、庶民に米は届きませんでした。まさに歴史は繰り返すって言う感じです。
明治政府で働く猪山成之(伊藤祐輝)が、幕末の加賀藩で算用者として務める、父・猪山直之(堺雅人)を回想する形で物語は始まります。
祖父・猪山信之(中村雅俊)は加賀藩12代当主・前田斉泰の正室・溶姫(ようひめ)を徳川家からお迎えする際に、江戸屋敷の赤門*を節約のため表面だけに赤を塗り、裏側を塗らずに倹約して功績を上げたという話を常にしていました。(しかし定かではない…)
父・猪山直之は若い頃から算術の才を成し、祖父同様に算用者となります。直之は細かいところまで見直し、藩内で米が不足していたため、お救い米として出された米が、途中で何者かに抜かれていることを見つけ出します。
しかし「それを上手いこと帳尻を合わせるのが算用者の仕事だ」と上役から命じられてしまいます。(あれっ、現代でも同じようなことがあるかも?)
どうも直之以前の算用者は、合わない数字を合わせることが、算用者の仕事だと考えていたようなのです。ザル勘定だったんですねー。
いや、もしかしたら「知っているのに、ワザと間違える65点の人が好き〜」という時代だったのかもしれません。
ただ、徳川幕府から目をつけられていた加賀藩は、ワザと散財していたと聞きます。「豪華な物に金を使い、徳川家に対抗するための財力なんて、これっぽっちもありません」って言うこともあったのかもしれません。
父・直之にお金のことを厳しく言われていた成之は「父は武士のくせに刀では無く、算盤だけなのかよ」とも思っていたようです。
しかし時代が変わり1867年、大政奉還されると、徳川慶喜に呼ばれた加賀藩は京都に出兵することになり、成之も京都に向かいました。
天皇から討幕の依頼を受けた薩長と徳川による鳥羽伏見の戦いが始まると、朝敵になってしまうことを避けるため加賀は撤退します。
その撤退の最中に、成之は新政府軍の大村益次郎に算用者としての技を買われて、明治政府に入ることになります。
大村さまは成之に「鉄砲や刀を担いで走り回る連中ならいくらでもおる。しかし、これからの戦はタークティクス(tactics:戦術)だ。呼吸が勝敗を左右する。兵隊に配る弁当やワラジの手配が出来る者が欲しいのだ。君だよ、算盤が使える君だ。君の技(わざ)は兵隊千人、いや万人に匹敵する。これからの世を作るのは君のような人だ」と。
父の教えに疑問を持ちながら算盤を続けていた成之は「まこと人の定めはわからぬものにて御座候(ござそうろう)」という手紙を父に書きました。
本当に人の人生は、どうなるかなんてわかりませんよね!
⚫︎赤門の話
加賀藩の江戸屋敷にある「赤門」は、1827年(文政10年)、第11代将軍徳川家斉の娘・溶姫が加賀藩第13代藩主・前田斉泰に嫁ぐ際に建てられたもので、正式には「御守殿門」と呼ばれます 。
将軍家から正室を迎える際、三位以上の大名家では御守殿門を朱塗りにする慣習があり、加賀藩でもこれに従って赤門が建てられました 。
ですが「赤門の前だけ塗った」という話については、信頼できる史料や文献にはそのような記録は見当たりません。赤門は全体が朱塗りであり、内外の塗装に差異があったという具体的な証拠は確認されていません。したがって、「赤門を前だけ塗った」という話は、事実とは異なる可能性が高いと考えられます。
この赤門は現在も東京大学本郷キャンパスに現存し、国の重要文化財に指定されています。
そしてもう一つは、文京区西教寺に姫路藩の赤門が現存しています。
⚫︎絵に描いた鯛
猪山家に金は無く、息子の晴れの日に絵に描いた鯛で客をもてなしました。
直之は借金を全て書き出し、節約令を出します。まずは衣類を一人三枚にして高価な物は全て売り払い、ザル勘定だった家の収支を見直すため、家計簿を付けることにします。
家財を全て売り払い、借金を返せるだけ返し、残りの借金は無利子にしてくれと交渉します。ダメなら家が潰れて、そちらは一銭も取れなくなると、なかば脅して頼み込みます。
この絵に描いた鯛の話は本当の記録に基づいた、江戸時代の庶民的な知恵と暮らしを象徴する話だそうです。
これは今も見習いたい話ですね。
当時の武士はメンツを保つための親戚付き合いなどの儀式に、多額の金がかかっていたようです。これって今もかなり残っていますよねー。
⚫︎鳥羽伏見の戦い
1868年、京都南部の鳥羽・伏見で、旧幕府軍と新政府軍(薩摩、長州、土佐など)の戦いです。この戦いは江戸幕府の終わりと、明治新政府の成立を決定づける重要な戦いです。
⚫︎原作者
歴史学者・磯田道史が書いた『武士の家計簿「加賀藩御算用者」の幕末維新』が原作です。
磯田は17〜18世紀のヨーロッパで、産業革命の前段階として「人々がよく働くようになった社会変化」があったという勤勉革命を、日本に当てはめて書いたようです。
⚫︎勤勉革命
江戸時代の人たちが「もっと働いて、もっと良い暮らしをしよう」と考え始め、社会全体がまじめで努力を大事にする方向に変わった革命のことです。
農民は「年貢を納めれば、あとはのんびり暮らす」という考え方で、生産は生活に必要な分だけ行えばよいという「自給自足」的な生活でした。
ですが江戸時代に平和が続いたことで、生活の安定が生まれ、「もっと働いて、もっと収入を得よう」と考える人が増えました。
すると余剰に生産して、市場に出して商売するようになり、働けば儲かるという考えが向上心や経済的成功を持つようになりました。
そして親は子どもに「勤勉」「倹約」「努力」を教えるようになりました。
この勤勉革命によって、日本は明治時代に入ってからの産業化(近代化)にスムーズに対応できたと考えられています。
つまり、「いきなり工業化」したのではなく、江戸時代のうちにすでにマジメに働く文化が根付いたというのがポイントです。
さんぽした金沢はとてもいい街でした。
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