ヨハネ福音書 21章11節  (6)  153匹の大きな魚 | ヨハネ福音書20章 21章

ヨハネ福音書20章 21章

ヨハネ福音書をとおしてイエス・キリストを知る

ヨハネ 21:11
シモン・ペテロは舟に上がって、網を陸地に引き上げた。それは

153匹の大きな魚でいっぱいであった。それほど多かったけれども、網は破れなかった。

10節でイエスは、「あなたがたの今とった魚を、幾匹か持って来なさい。」 と言われた。
そのことばを、ペテロはまるで聞いてなかったか、聞いていても無視したのか、それとも、
イエスが言われた「幾匹か」よりも、「すべての魚を、一気に持っていった方が良い。」
という、自分の判断を優先させてのことか、泳いでいた水の中からいきなり舟の上に上がって、
“網を陸地に引き上げた。” と書かれています。

まるで網が破れてしまいそうな程の、大きな魚でいっぱいの網を、
ペテロ一人で陸地に引き上げた。

不思議だとは思いませんか?
6節では、“おびただしい魚のために、網を引き上げることができなかった。”

筋肉隆々の鍛え上げた海の男たちが、入れ替わり立ち代りして、網を引き上げようと
したのでしょう。力を合わせて引き上げたりもしたでしょう。しかし、誰も、6節の時点では、
ペテロでさえ、網を自分たちの力で引き上げることは出来なかったのです。

おびただしい魚、とは神の能力が現される場所での大漁であったがゆえに、
人間の力では引き上げることができなかったのです。

しかし11節には、ペテロの単独行動で、“網を陸地に引き上げた。” 
と明確に記されています。

ペテロはどうして、たった一人で、おびただしい魚の入った網を、
陸地にまで引き上げることができたのでしょうか。

それは21:9
“こうして彼らが陸地に上がったとき、そこに炭火とその上に載せた魚と、パンが
あるのを見た。”

これから起きる聖霊の顕著な働きを、炭火として現し、炭火の上に魚とパンを
乗せることによって、人間をとる漁師が、どのような基盤で、主の働きを成していくのかを、
具体的に示された。

人類の救い、という神側の現実が、聖霊によってこれから始まる。
聖霊を受けた彼らによってなされていくことを、明確に示されたのです。

しかし、それを見たペテロは、自分の能力以上の自分となって、誰も引き上げることの
できなかった、自分でさえも引き上げることの出来なかった、おびただしい魚が入った網を、
引き上げたのでした。

この時もイエスは、注意深く、ペテロの行動を見つめていたことでしょう。

今後、ご自分の働きを正しく継承していく、人間をとる漁師にするために、イエスは、
細心の注意を払って、ご自分の言ったことに、忠実に従って行くかどうかを、
注意深く見つめていたのでした。

イエスはこう言われたのです。
「あなたがたの 今とった魚を 幾匹か 持ってきなさい。」

人間の合理的な考えでは、イエスが言われた、「幾匹か」という、まどろっこしいやり方よりも、
一気に持っていったほうが絶対良いに決まっている。イエスが言われたことばより、
人間の合理的思考の方が、合っている。と思いがち。

しかしイエスは、みことばに弟子たちがどれほどにこだわり、どれほど取り組み、
語られたみことばにどれほど忠実に従っていけるかどうか、
これから彼らを用いるために、注意深く、弟子たちをご覧になっていたのです。特にペテロを。

一方ペテロは、得意だったでしょうね。誰ひとり成し遂げることの出来なかった偉業を、
たった一人で成し遂げたのですから。
大胆に一気に、おびただしく大きな魚が入った網を、陸地に、たったひとりで引き上げたのですから。
ペテロの得意そうな顔が浮かんできませんか。
自信満々のペテロが、また一気に舞い戻ってきたのです。

その証拠に今度は、自分が引き上げてきた大きな魚を、得意満々に一匹ずつ、数え始めたのではないでしょうか。自分が成し終えた成果が、具体的にはどれほどのものだったのか、知りたくなったのでしょうか。ペテロ一人で数えたのか、周りに居た弟子たちも一緒に数えるのを手伝ったのか、それは書かれていませんが、とにかく彼らは今取れた、網の中の魚を1匹ずつ、数え始めたのでした。

1匹、2匹、3匹・・・151、152、153匹。

数えるのに随分と時間を費やしたでしょう。
「ウォ~153匹もあったぞ。」 ペテロは大得意だったでしょうね。
まるで自分が全部取ってきたような錯覚に舞い上がってしまったのでしょうか。

“それほど多かったけれども、網は破れなかった。”

肉的に喜んでいる彼らを、一気に神側の現実に引き戻すために、ヨハネはこう書きました。
これはあくまでも、神側のできごとであったのだと。

ペテロたちがいつも使っていた網なら、完全に破れてしまって、たった今取ってきた、
153匹の魚は、無残にも、全部、元の海に帰って行ってしまったことでしょう。

いつも彼らは、大漁を経験する度、網が破れてしまうか、しまわないかが、
漁師としての戦いだった。漁師にとって網とは、いのちのようなものであり、
漁に行った後は、必ず網の点検をし、破れそうになっているところは丁寧に繕っていたし、
網の汚れは、いつも綺麗に洗い落としていた。

私達の人生も、網と同じようなものだったではありませんか?
すぐに破れ、繕っても、繕っても、またすぐに破れてしまう。どんなに綺麗に洗ったとしても、
内側からの汚れで、すぐに汚くなってしまう。そんな毎日だったではありませんか。

しかし今、153匹の大きな魚で満ちた網は、決して破れない。とヨハネは宣言しました。

この網は、自分の内側が、罪と死に支配されている多くの人々を救う網。

ロマ書7:15でパウロはこのように叫びました。

「私には、自分のしていることがわかりません。私は自分がしたいと思っていることを
しているのではなく、自分が憎むことを行っているからです。・・・
私は、自分でしたいと思う善を行わないで、かえって、したくない悪を行っています。・・

私は本当にみじめな人間です。誰がこの死のからだから、
私を救い出してくれるのでしょうか。」

まるでパウロが、我々の心の叫びを代表して言ってくれたかのような言葉です。
この罪と死に支配されて、もがき苦しんでいるパウロをはじめ、私たち全ての魂を救う網は、
どんなに多くの者たちが入っても、破れることは決してない。とヨハネは宣言したのです。

なぜならこの網は、イエスが十字架と復活を成し遂げて、その流された血によって、
すべての人々を無条件で赦し聖め、神のみ前に奪回するための、神の網だからです。

ヨハネ福音書3:16
“神は実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、
ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである”

イエスを救い主だと信じた者を、ひとり残らず、救い出すための網は、
どんなに多くの人々が入っても破れない。 とヨハネは宣言したのです。

それにしても、153匹、不思議な数字です。

人類に対する、神の深いメッセージが、濃厚にこの数字に込められているのでしょうね。

この数字に魅せられて、研究に没頭した方々の、いろいろな解釈、解き明かしを
ネットで見せて頂き、とても興味深く拝見させていただきました。

こうして、語られたみことばの真理に、1ミリでも近づいていく労苦は、神に喜ばれているにちがいないと、思いますね。