ヨハネ福音書 21章12,13節 (7) 復活のキリストが招いた食事 | ヨハネ福音書20章 21章

ヨハネ福音書20章 21章

ヨハネ福音書をとおしてイエス・キリストを知る

21:12、13
イエスは彼らに言われた。「さあ来て、朝の食事をしなさい。」
弟子たちは主であることを知っていたので、誰も 「あなたはどなたですか」と、
あえて尋ねる者はいなかった。
イエスは来て、パンを取り、彼らにお与えになった。また、魚も同じようにされた。

153匹の大きな魚を見た元漁師達は、胸が踊ったことでしょう。
さぞかし興奮したのでしょう。その彼らを見て、「さあ、そこから離れて、こちらに来なさい。」
とイエスは言われたのです。

彼らにはまだ、これから始められる神の偉大なる働きなど、知るよしもなかったのです。
目の前に見える、153匹の大きな魚、この現実だけを見て、大喜びしていたのでしょう。

イエスは、見えるものを見て喜び、見えるものを数えている場所から、
全く別の場所に、彼らを導きました。

“復活のキリストとの食事” の場所に。

復活のキリストとの、最初で最後の食事に彼らを招きました。
イエスは、目に見えるものを見て興奮している彼らの心を、食事に招くことによって、
切り離したのです。その場所にいつまでも居ることは、神の視点からは、
危険なことだったからです。

以前にもイエスは、彼らに同じような訓練をしました。
それは、2匹の魚と5つのパンで、大勢の人々に食べさせた、あの奇跡を行った時です。

マタイ福音書14章17節から読んでみましょう。

しかし弟子たちはイエスに言った。「ここにはパンが5つと魚が2匹よりほかありません。」
するとイエスは言われた。「それを、ここに持ってきなさい。」
そしてイエスは、群衆に命じて草の上にすわらせ、5つのパンと2匹の魚を取り、
天を見上げて、それらを祝福し、パンを裂いてそれを弟子たちに与えられたので、
弟子たちは群衆に配った。
人々はみな、食べて満腹した。そしてパン切れの余りを取り集めると、
12のかごにいっぱいあった。
食べた者は、女と子供を除いて、男5千人ほどであった。

4福音書すべてに書かれている、この奇跡をイエスが行った時、群衆ひとりひとりに、
直接、配ったのは、弟子たちでした。女と子供を合わせると、1万人以上に膨れ上がった人々に、
直接、パンや魚を配ったのは、弟子たちだったのです。
たった5つのパンと2匹の魚が、1万人以上の人々を満腹させた。

弟子たちは興奮したでしょうね。群衆に褒めちぎられて、自分の配る手が、奇跡の手だと、
錯覚したかもしれません。とにかくすごい絶頂感、絶叫の渦、興奮のるつぼ、熱狂のさなか
だったでしょう。

しかしイエスは、このような場所から、すぐに弟子たちを切り離しています。

次の節、22節にはこう書いてあります。
それからすぐ、イエスは弟子たちを強いて舟に乗り込ませて、自分より先に
向こう岸へ行かせ、その間に、群衆を帰してしまわれた。

イエスは弟子たちを“強いて舟に乗り込ませた。”と書かれていることから、
弟子たちは舟に乗るのを嫌がったのでしょう。
まだまだ、この奇跡の余韻に浸っていたかったのでしょう。
しかしイエスは、彼らをその場所から切り離すために、強制的に舟に乗り込ませています。

いつまでもこの世界に留まることは、危険だったからです。
なぜなら、この場所は、サタンに狙われる絶好の場所だからです。
多くの力ある人物が、この場所でまんまとサタンにやられ、敗北していきました。
イエスは、素晴らしい神の出来事であったとしても、私たちがそこに、留まってしまう、ことの危険を、
よくよく、ご存知だったのです。

ヨハネ21章12節に戻りましょう。
イエスは彼らに言われた。「さあ来て、朝の食事をしなさい。」
時は、夜が明け染めた朝。
彼らが食べる食物は、すべてイエスが用意された、炭火の上に載せた、パンと魚です。

イエスが用意された食事を、弟子たちが食べることによって、イエスは何を、
弟子たちに与えられたのでしょうか。

この直後、イエスが昇天され、聖霊が天から下り、彼らひとりひとりが聖霊に満たされ、
いよいよ、使徒の働きに突入していきます。

使徒の働き2章1節からは、こう書かれています。
“五旬節の日になって、みなが一つ所に集まっていた。すると突然、
天から激しい風が吹いて来るような響きが起こり、彼らのいた家全体に響き渡った。
また、炎のような分かれた舌が現れて、ひとりひとりの上にとどまった。
すると、みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話しだした。”

聖霊が激しく天から下って、人間をとる漁師、つまり使徒たちが、聖霊の力によって
この地上におびただしい数々の、救いの業を成し遂げていくのです。
現に、ペテロがみことばを語ったその日の内に、3千人の人がバプテスマを受け、
弟子となったのです。(使徒2:41)

今の彼らからは、考えられない出来事です。
しかし、どんな奇跡が起きても、弟子たちがその奇跡の渦中に留まらず、
そこから切り離されて、主との食事をする。という訓練ではなかったかと思います。

では、復活のキリストとの食事とは、どのようなことを意味するのでしょうか。
それは、復活されたキリストと、ひとつになる、ということ。
復活されたキリストとひとつになることによって、父なる神とひとつになる。
ということではないでしょうか。

天から与えられたパンを食べることによって、イエスのいのちが、
私たちひとりひとりの内側に循環し、復活のキリストのいのちが、
私たちの霊的いのちと交わり、溶け合っていくという、いのちのドラマが
始まっていくのです。炭火の上の魚とパンが、明確に現しています。

遣わす神と、遣わされた者とが、聖霊によってひとつに結ばれていく。
同じひとつのいのちで生きていく。この実体が、復活されたキリストとの食事です。

大きなことを成した時には傲慢になり、失敗したら卑屈になるという、
人間の本質から完全に解放され、ペテロが、二度とシモンに逆戻りすることがないように、
イエスのいのちと一体になり、イエスの御名の中に、彼らが完全に保たれていくためです。

そして、どんな迫害の中でも、イエスの喜びが、彼らひとりひとりのいのちの中で、
全うされていくためです。

復活のキリストが招いてくださる食事とは、イエスとのいのちの交わりによって、
イエスのアガペーの愛、捧げ尽くす無償の愛と、完全な赦しを、ひたすら、受け取り続け、
使徒として、成長していくためのものです。

創造主なる神の、愛といのちを、被造物である者として、正しく受け取り、
より深い神の本質を味わい知り、神のいのちの深みへと生きるようになる。

このための食卓に、イエスは彼らを招いたのです。

この食事中、弟子たちは何もしゃべらず、沈黙して、復活のキリストが用意された、
使徒になるための天的な食事を、彼らは黙々と食したのです。